直接対決
「失礼します」
そこは普段、資料室として使われている部屋だった。埃っぽくて薄暗く、あまり近寄らなかったので気付かなかったが、ここにはソファが存在していたらしい。おそらく、本やプリント等の下に埋もれていたのだろう。それをものの数分間で掘り出すとは……。この上司、掃除スキルもなかなかのようだ。
「まぁとりあえず、座りなよ」
「はい」
勧められるがままに、私はそちらに腰かけた。上司はそれを見届けてから、反対側の回転椅子に座り直す。そうして、両者一定の間合いを取り、周りに武器など無い事を確認し、落ち着いてから始めた。
「さて……。とりあえず、あれは読んだよ」
あれ、とは先程史空ちゃんがネタにも使った、私が書いた嘆願書の事であろう。まさか読んでもらっているとは夢にも思わなかったので、驚きと共に素直に返す。
「そうだったんですか」
――じゃあ、大体伝わっているのかな。
全てを一から説明するのではないと知り、少し安堵した。しかし。
「でも、まだ言い分があるんだろう?」
「え」
よほど読み込んだのだろう。お見通しだよ、とばかりに彼は続ける。
「君は敬語使うの苦手みたいだからね。あんな書類にしたら、言えない事も沢山あっただろう」
「それは……」
確かに、私は敬語を使うのが苦手である。何故だろう、丁寧に言わなければいけないという思いが、言葉の幅に制限をかけるのだろうか。元々、そこまで語彙力がある訳でもないので、どうしても単語が偏ったり、また伝えたい事が上手く表せなくなってしまうのだ。その結果、単語は知っているけれどもその意味はよく知らない、そんな小学生が書いたような文章となる。いやはや、塾とは言えど講師は講師、恐れ入った。
「だから、まずは全部言うと良い。僕は彼女みたいに録音はしないから、好き勝手に喋ると良いよ」
「はい、ありがとうございます」
交渉の席に着いてくれた事、そして話を聞く気になってくれた事に感謝し、一礼してから私は話し始めた。それは支離滅裂で、あちこちに話題が飛ぶし、あとから付けたしたように話は出てくるし、とてもじゃないが聞けたものではなかっただろう。だが、上司はその拙い話をじっと静かに、そして穏やかに、聞き続けてくれた。時には微笑み、時には質問という形で話を整理し、という形で、リードしてくれた。おかげで、私はしっかりと思いの丈をぶつける事が出来た。
全て聞き終り、もう言い残した事は無いね、と念を押してから、上司は静かに切り出す。
「まず、今まで悪かったね」
「いえ……」
別に謝ってほしい訳ではなく、私はただ、こういう所が嫌だ、だから直してくれと要求しているだけだった。でも否定するのも違う気がして、それ以上言葉が出てこない。
私が沈黙を保っていると、それを続行しろという風にとったのか、彼は話を進める。
「正直、貴女のような人は初めてですよ」
「何が、初めてなんでしょう」
「こうやって、正社員に向かって本気で文句を言いに来る所、とかね」
「それは史空ちゃんだって同じで」
ここで、彼が表情を崩し、怪訝な顔になった。そして、口調も崩れる。
「……あれ? 知らないのか」
「何がですか?」
「まぁそれは良いか。こっちの話だ、気にしないでくれ」
気にしないでくれと言われると、気になってしまうのが人の性分である。
「気になります」
追求しようとしたものの、
「……本当に、知りたい?」
笑顔で聞かれ、怖くなった。言い知れぬ恐怖に、気付けば自分から辞退していた。
「……遠慮しておきます」
「そう。世の中にはね、知らない方が良い事もあるんだよ……」
僕も出来れば関わりたくなかった、目がそんな事を言っている気もした。あの上司に、そんな風に扱われるとは……。彼女って一体、何者なのだろう。
「で、話を戻すよ」
「はい」
そうだった。あやうく本題を忘れる所だった……。史空ちゃんの事は気になって仕方がないけれども、本人に聞く機会もあるだろうし、後回しにしよう。
「それで、君はどうしたいんだ?」
これからの事は前から決めていたので、よどみなく答える。
「週一回に戻していただくか、さもなければ辞めさせてください」
「担当している生徒に悪いとか、そういう事は」
「思いません」
「だよね……」
分かりきっていた事ではあるが、やっぱり本人から言われると辛いなぁという表情をした。先程から薄々感じていたが、この上司、実は顔に出やすいらしい。
「しかし、本当に珍しい子だよね」
「生徒の事を思ってあげない事がですか」
前にも似たような事を言われているが、生憎と私はそんなに親切な人間ではない。それに、ころころ担当が変わるここでは、そんな事生徒は気にも留めないだろう。むしろ我々大人の方が、知らない人間に対して警戒心を抱くのだから。
「いや、そうじゃなくて」
「では何が」
ここで、本当にこの人から発せられたのかと疑いたくなるぐらい、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「普通さ、もっと稼ぎたいと思わない?」
「……お金は、欲しいです」
「じゃあ」
「でも、働きたくないです」
質問の意図はよく分からなかったが、これだけはきっぱりと言う。矛盾しているようだが、これは全く矛盾していないのだ。
――だって、宝くじを当てたいって、人類共通の夢でしょう?
「働かないとお金は手に入らないよ?」
「でも、辛いのは嫌です。それで単位落としたりしたら、そっちの方が問題ですし」
バイトはバイト。私の本業は、あくまでも大学生なのである。勿論、バイトにその身を捧げている人や、サークル活動に一生懸命打ち込んでいる人もいる。そういう人達を否定する気はないけれども、私は学業を頑張りたいという訳だ。……頑張りたいと思っているんです、これでも。
「成程ねぇ……。じゃあ、お節介だった訳だねぇ」
そう言って、議論を始めてから何度かしているように、少し遠くを見るようにした。その最中、最近の子はこんな子ばっかりなのかなぁ、とぼやかれた気がするが、何も聞かなかった事にする。
「僕はね、なるべく貴女のような方にはシフトを多く入れているんですよ」
「なんで、そんな」
お節介な事を、と続けようとしたが、それはご本人直々に指摘していたので、私はそれ以上は言わなかった。
「大学一、二年生というのは、言ってもまだそこまで大変じゃない。だから、その時期に稼いでおきたいと言う子が大半なんですよ。かくいう僕も、その口でした」
「だから、稼がせてやろうとした、と」
「まぁ、そういう事だね。ほら、増やしてくれって言ってもなかなか増やしてもらえないじゃない」
昔、それで苦労した事があったのだろう。まぁ中にはそういう人もいるのだろうが、だったら聞いてくれれば良かったのに。……そうか、バイトの側が言い出しづらいように、雇う側も言いづらいのか。それに、働きたい人と仕事が必ずしも一致する訳ではないのだろうし。特別を作るとややこしくなる、だから、か。
私が少し同情しかけた所で、史空ちゃんにやられた傷から立ち直り調子が戻ってきたのだろう。付け加えるようにして、得意の褒め殺しを披露してくれた。
「あと、逆木先生は優秀な方だから」
その台詞で、少し芽生えかけた、正社員も大変なんだなという気持ちは吹っ飛んだ。
――もう、騙されてやるもんですか。
「また、そうやって誤魔化す気ですか?」
「手厳しいな。本心ですよ」
「本心だとしても、それはただ数少ない女性の理系という事だけでしょう?」
「否定は、出来ないね」
「私のアドバンテージなんて、そのぐらいですからね」
理系女子としてのニーズ。それがなければ、私は面接で受からなかっただろうと本気で信じている。
「もう少し別の所に自信を持ちませんか?」
「無理ですね」
だから、自信を持って言い切れるのである。
「……なんか、史空ちゃんから随分影響を受けました?」
「え?」
確かに、物をはっきりと言えるようにはなった気がする。けれども、何故それが史空ちゃんの影響なのだろうか?
「いや、こっちの話……」
気にはなった。ものすごく気になった。それでも、もう追求するのは止めておく。聞いても教えてくれないだろうし、蛇は藪の中でそっとしておくのが一番だと思ったからである。
再び脱線しかけた話を戻す様に、こほん、と咳払いをしてまとめに入った。
「貴女の言い分は、よく分かりました」
「それじゃあ」
「しかし、辞めていただく訳にはいきません」
「えー」
「貴女のような面白い人を、まだ手放したくないものでね」
いつもの作り笑顔と違い、ふわりとしたにこやかな笑顔だったので、これは本音なのだろう。しかし、面白いと言われてもあまり嬉しくは無かった。
私がふくれっ面をしていたからだろうか。
「その代わり、条件は譲歩しましょう」
週一回に戻してくれる事、臨時は臨時で一回一回確認を取る事、テスト期間中等のシフトは可能な限り相談に応じる事など、私がいった条件はほぼ呑んでくれた。
「ではこれで、よろしいですね」
「はい」
もうしばらく言える機会は無いのだ。何か見落とした事は無いかと確認すると、一つ思い至った。これだけは言っておかなければと思い、慌てて付け加える。
「あ、でも、まだ悪くなってきたら訴え出ますから、そのつもりで」
「……本当に、強く、なりましたね」
我々は固い握手を交わした。
*
逆木さんが帰った後、誰もいなくなった教室で、しかし確実に潜んでいる誰かに向かって呼びかけた。
「まさか、貴女に目をつけられるとは……。何者なんです? あの子は」
すると、どこからかは分からないが、すっと影から声がした。
「ただの女子大生だと思いますよ。ちょっとだけ、不器用さんですけど」
――やっぱり、まだいたのか……。
「最初に現れた時、何の嫌がらせかと思いましたよ」
振り返るとそこには、小柄な女性が立っている。美少女と形容したい所ではあるが、彼女がそんな年で無い事は重々承知していた。
「嫌ですわ。そんな、女子大生捕まえて何をおっしゃっているのですか」
「女子大生、ねぇ」
「嘘は付いていませんよ? 今の私の身分は、そういう事になっていますから」
「身分、ねぇ……。しかし其方は言わば副業でしょうに」
「ふふふ。勉学も立派な事ですのよ?」
そう言って、彼女は何度も大学に入り直しているのだから見上げた根性である。それも、文系理系問わず、自分の興味のある所に片っ端から入って単位を一つも落とす事無く次へ行くのだから、敬服に値する。
「しかし、大変じゃありませんか? 一人で地道にこつこつと、一つずつ事案を解決していく、なんて」
「そりゃあ大変ですけど、やりがいのある仕事ではありますね。それに、同士は多いんですよ?」
「そう、ですか……」
まぁ、彼女の他に類を見ないカリスマ性であれば、納得がいく話だった。大方、何度も入り直しているうちに、学生の方から寄ってくるのだろう。あるいは、自分でスカウトをしているのかもしれないけれど。最初、うちに来た時も逆木さん目当てだと思ったぐらいだ。
――油断、だな。
そうやって、僕は安心してしまったのだ。“油断”。それこそが、今回ここまで話がややこしくなった原因であろう。まぁ、彼女の前で絶対にしてはいけない事をしたのだから、当然の報いだ。
――全く、僕もまだまだだな。
「ではまた、お会いしない事を」
そんな事を僕が考えているうちに、彼女はひらりと一礼して帰っていった。此方に何も言わせずに去っていくのは、相変わらずである。
「……久しぶりだけど、やはり侮れないな。端本の血族は」
しかし、僕の脳裏をよぎったのは過去の苦い思い出ではなく、逆木先生があんな風になったらどうしようかな、という不安だった。