仕掛発動
「でも……。本当に大丈夫なんでしょうか」
道すがら、先程習った事などさっぱり抜け落ちたように、弱弱しい声で、独り言を言うように呟く。
「また無視されたら……」
我ながら、臆病者だと思う。しかしそれに答えるのは、力強くはきはきとした声。
「大丈夫。何とかします」
その自信はどこから来るのだろうか。もう、彼女に全てを任せて、私が傍観者となった方が良い気さえしてきた。いや、むしろお願いしたいぐらいだった。
だが、それすらも見透かしたように、彼女は言うのである。
「それに、言いたい事は口で言わないと伝わらないと思うんです」
自分で訴え出てこそ、相手に伝わるのだとそう諭す様に。やわらかい声色で、あやすのである。
「……はい」
元はと言えば、私が一人で仕掛けた喧嘩だ。それを途中からとはいえ、逆境に立たされていた所を助けてくれたのである。彼女にはここまで付き合っていただいてありがたいぐらい、そう思わなければ。
「さて、覚悟は決まりましたか?」
もう目の前には、戦いの舞台が待ち構えていた。
「はい」
燃えるような夕焼けを背に、私は再び塾へと舞い戻った。
「先生!」
中に入ると開口一番、元気な声で史空ちゃんは敵に呼びかける。
「はい、なんでしょうか端本先生」
突然の登場に、少なからず驚いたようだ。まぁ本来ならば、私達がここにいる訳が無いのだから、当然だろう。
「種類、って十回言ってみてください」
しかも何かと思えば、いきなり訳の分からない事を言い出すのである。何なんだこいつ、というような顔をしながら、しかし律儀に彼は、“種類”を十回繰り返して述べてくれた。
「種類種類種類種類種類種類種類種類種類種類」
「じゃあ、逆木さんが提出した物は?」
「ん……」
何かを言いかけて、彼は口ごもった。おそらくこれは、“種類”と“書類”を掛けたもので、書類じゃないよ嘆願書でしたーという若干分かりづらい、しかし説明するまでもない類のひっかけ問題だったのだろう。よくある十回ゲームの応用版である。それも、上司の性格から、“嘆願書”と一発で答えるであろう事まで予測して。しかし……。
――策ってこれかよ!?
あんなに自信たっぷりだった割にはとても子供じみた手で、シリアスな場面である事は重々承知しているが、ものすごくつっこみたかった。けれども、流石に空気読めなさすぎなので止めておく。それに、そんな事をしたらじゃあ何故さっきはつっこんでくれなかったのだ、と史空ちゃんに怒られそうだし。とまぁ、それはさておき。
「知らないなぁ」
流石、どんな怒り狂い荒れ果てた親御さんでも、余裕で勝利をおさめる百戦錬磨の上司。小娘の浅知恵などお茶の子さいさい、朝飯前だとでも言うようにあっさりかわす。その際、ほんの一瞬ではあったが、二人の視線が交差した。バチバチ、と青い火花が見えた気がした。
それでは、これならどうかな、というように史空ちゃんは次の手に打って出る。
「もう先生、つれないですね。じゃあ、適当にくまなく調べ回っても良いですか?」
「適当にくまなく、というのは若干矛盾しているような気がしないでもないけれど、良いですよ。何をお探しになるのかは、知りませんけど」
この誘いにも乗ってこない所を見ると、ここには存在しないのかもしれない。いや、もしかしたら捨てられたという可能性もある。あんな物的証拠を取っておくような人ではない事は、重々承知だ。
「では、お言葉に甘えてー」
それに気が付いていないのか、鼻歌を歌いながら、意気揚々と彼女は事務室を漁り始める。実際に家探しされても顔色一つ変えず仕事に打ち込んでいるという事は、先程の私の推測は当たっているのだろう。もう駄目か、と私でも諦めかけた時、何気なく放った彼女の一言に、はまった。
「あら、こちらの封筒は何かしら……。中には可愛らしい女の子の字がぎっしり詰まっていますけど」
「ふん、ひっかけようと思ったって無駄ですよ。あれは私の自宅に保管してありますし、大体逆木さんの字は大人びていて女の子っぽくは……あ」
何故そんな単純な手に騙され、乗ってしまったのかは分からない。だが、意外とよく見てるな、流石腐っても塾の先生だと、違う所で少し見直した。
「やっぱり、まだとってあったんですね。逆木さんからの想いのいーっぱい詰まったお手紙」
「しまった」
「ふっ、やっとひっかかってくれましたね」
「謀ったな!?」
この一連の流れは絶妙過ぎて、先に打ち合わせでもしていたのではないかと疑ってしまうほどであった。まぁいくらなんでもそれは無いだろうが、これでようやく此方を向いてくれた。話し合いの舞台に上がってきてくれる気になったらしい。
「先生が素直に応じてくれないのがいけないんですよ?」
「それを言われてしまうとなぁ……」
それでもその実、彼はまだ余力を残している。頭を掻いて、さも困っている風を装っているのがその証拠だ。彼のいつもの手で、ああしている間に、頭の中ではどうやってこの場を切り抜けようかと戦略を巡らせているのである。そのぐらい、二年も勤めていればお見通しだ。
優位に立ったからか、史空ちゃんは痛い所を確実に突いていく。言われたくない、それでいて答えづらい言葉を選んで。
「先生が子どもに嘘ついて良いんですかー?」
これにはかちんときたのか、売り言葉に買い言葉。余裕を無くして言った。
「別に君らは僕の生徒、という訳ではないからね」
「へぇ~」
言質を取った、といわんばかりの彼女の表情に、流石の上司も顔を渋くし、そしてみるみるうちに青ざめていった。彼にしては珍しい事であるが、これはとんでもないミスである。だって、客でなければ嘘をついても良いと言う事を、暗にほのめかしてしまったのだから。信用第一のこういう商売をしている人には、これほど痛い発言もないだろう。
「……今のは無かった事に」
「しません」
「ですよね……」
勿論、こんなおいしいネタを史空ちゃんが見逃してくれるはずもなく。
「でも、逆木さんときちんとお話し合いをして下さる、というなら、消してあげます」
そう言って懐から取り出されたのは、ICレコーダー。赤いランプが点滅している所を見ると、しっかりばっちり録音されていたらしい。文字通り、証拠を入手した訳だ。恐るべし……。
「いつの間に……。ぬかりないね」
そのえげつなさに、完全に毒気を抜かれてしまったようだ。先程までの愛想笑いと違い、力が抜けてしまったように笑う彼。まるで、彼女に勝負を挑んだ自分の方が悪かったのだ、というようにも、私には見えた。
「お褒めに与り光栄です」
上司は、少し迷ったようだった。だが、ついに覚悟を決めたようで、
「仕方ないな……。これからすぐで良いですか、逆木先生」
ようやく私の存在を認めた。今までずっとさりげなく無視しつづけられただけに、
「え、あ、はい」
戸惑いを隠しきれなかった。
「では、少し片付けてきますから待っていて下さい。奥の部屋を用意してきます」
そう言うと、早速足早に奥へと引っ込んでいった。流石、出来る男は仕事が早い。もっとも、びしっと背広まできちんと着たスーツ姿で箒と雑巾を手に持つ姿は、いささかシュールではあったが。
彼がいなくなったのを見届けてから、私は史空ちゃんにお礼を述べた。
「ありがとうございます」
「いえ、私は別に。ただ、場を用意しただけですから」
その場を用意するまでが一番大変だったろうに。しかし、あんな冷戦に勝利したばかりにもかかわらず、彼女は大したことは無いと言ってくれるのである。そして得意のウインクを決めて、最後まで格好付けてくれるのだ。
「あとは、貴女次第ですよ」
そうだった。あまりにも良い試合を見て忘れかけていたが、今までは言わば前試合。ここからが本番なのだった。
――あー、どうしようどうしようー……。
ここになって気が付いたのだが、発声練習や姿勢等、心構えの面に対してはある程度用意させられたのだが、肝心の内容については全く何にもこれっぽっちもまとまっていなかった。多分、史空ちゃんにはそこまでするつもりはなかったのだろう。いや、違うか。彼女は私自身の言葉で、上司に訴え出ろと言い続けているのだから。中身にまで口を出さないのは当然である。けれども、考えてもみてほしい。私は一介の、ごく一般的な大学二年生なのだ。よって、今からぱっと考え付くはずがない。せめて、もう少し時間があれば……。勿論、伝えたい事が無い訳ではない。しかし、それを伝えられるように語るというのには大きな違いがある。
落ち着かないので、ぐるぐると部屋を回りながら、頭をフル回転させつつ待っていると、
「逆木先生、用意終わりましたよ」
奥から呼ばれた。呼ばれてしまった。
「は、はい」
「では、ご武運を」
――もう、こうなったら砕けてやる! お望み通り、咲き誇った後に散ってやる!
史空ちゃんに見送られ、私は奥へと、一歩を踏み出した。