第44話
北の関門は、もはや陸地ではなかった。
海神ワタツミが放った大還流により、山々の谷間は海水で満たされ、生き残った人間たちは激流に飲み込まれまいと岩肌にしがみついていた。
「……逃げ場はない。山も、空も、すべては我が深淵の一部となる」
水柱の中から現れたのは、四つの腕を持つ巨神、ワタツミ。
彼は本陣の海を離れ、離反した三神を処刑するために、自ら北の戦場へと移ってきたのだ。彼の周囲では、水圧が物理的な壁となり、竪琴の神の光さえも屈折させていた。
「……ッ! 野郎ども、俺の背中に隠れてろッ!!」
ニニギが、鍛冶の神によって鍛え直された楯を構えた。楯の表面には、鍛冶神が刻んだ灼熱の紋が赤く脈動し、触れる海水を一瞬で蒸発させている。
「……小癪な。その槌がどこまで我が水圧に耐えられるか、試してやろう」
ワタツミが四つの腕を一点に重ねた。
――神権・「千尋の圧」。
一瞬、音が消えた。ワタツミが放ったのは、ただの衝撃波ではない。深海の重圧を球状に凝縮した、回避不能の質量弾だ。
「……ッ、ぐ、ぁあああああッ!!」
正面から受けたニニギの全身の骨が、一斉に悲鳴を上げた。鍛冶の神の楯は壊れない。だが、楯を支えるニニギの肉体が耐えきれない。彼の両足は膝まで石畳にめり込み、足首の骨が砕ける嫌な音が響いた。
「ニニギ! 下がれ、それはまともに受ける代物ではない!」
磐井造が叫ぶが、ニニギは一歩も引かない。
「……下がれるかよ……ッ! 俺が退いたら……後ろの奴らが、一瞬で潰れちまうんだよッ!!」
ニニギの目、鼻、耳から、圧力による鮮血が噴き出した。それでも彼は、楯の裏側で血を吐きながら、不敵に笑った。
「……おっさん! ……この楯に、もっと熱をくれッ! ……神様の冷たい水に、……風穴を開けてやるッ!!」
鍛冶の神が重槌を自分の心臓に叩きつけた。神の命を熱源に変え、そのエネルギーをニニギの楯へと転送する。楯が太陽のように白熱し、ニニギの腕の肉を焼き始めた。
「……行けええええッ!!」
ニニギが、自らの右腕が焼き付くのも構わず、楯を前方へと突き出した。
――反撃・「不動の牙・熔解」。
激突。絶対的な水圧と、神を焼く熱量が正面から衝突し、北の山々に蒸気の爆発を巻き起こした。だが、霧が晴れた後。ワタツミの巨体は健在だった。そして、ニニギの楯を構えていた右腕は、あらぬ方向に折れ曲がり、彼の脇腹には、ワタツミの水刃が深々と突き刺さっていた。
「……ほう。我が圧を押し返したのは、人間の中では貴様が初めてだ。……だが、王の楯は、ここで折れたな」
「……へへ……。……折れて……ねえよ……」
ニニギは、突き刺さった水刃を自分の肉で締め付け、ワタツミの動きを止めた。
意識が遠のく中、彼はただ一点――南の海にいる、友の背中だけを信じていた。
その頃、西側から単身の影が動いていた。
兵を連れず、白い着流しを潮風になびかせ、一振りの直刀を携えたフツヌシが、マカツ軍の西の防衛線へと音もなく斬り込んできた。
高天原が誇る最強の剣士が、今、進撃する。




