第7話
左腕の感覚が、完全に死んでいた。
正確には、死んでいるのではないと、イワレビコは肌で知っていた。死んでいれば何も感じない。だがあの腕は、確かに感じているのだ。ただ、人間のものではない「何か」を。
冷気ではない。熱でもない。強いて言うなら、肉の奥に別のおぞましい血が流れているような、異物の強烈な脈動だった。
夜中にふと目が覚めると、左腕だけが起きている。じっと暗闇の中で、何かを飢えたように待っているのだ。
マカツ西の邑を後にして数日、荒野を進む道中、イワレビコは幾度も己の左手を見つめた。
黒い変色は、既に肘の手前まで侵食していた。昨日より、指二本分ほど広がっている。
気のせいであってほしかった。だが、この不浄の腕がフツノミタマを握るたび、剣と細胞が直に会話しているような錯覚がある。剣が何を言っているのかはわからない。だが、地を這うような鳴き声が、脳の裏側に直接聞こえていた。
背の黒剣が、低く、不吉に鳴った。
「ニニギ」
前を行く無骨な背中に声をかけた。
「怖くないか」
ニニギは足を止めた。振り返るまでに、わずかな間があった。その問いの重さを、正面から受け止めているような間だった。
「怖いさ」
ニニギの背には、不帰の森の廃墟から引きずり出してきた鉄の大楯が背負われている。身の丈ほどもある、武骨で醜い代物だ。美しさは微塵もない。しかし、異様に重い。重さだけが取り柄の、泥臭い楯だ。
「お前の目が、たまに変わる。あの黄金色に染まる瞬間が、死ぬほど怖い」
言いながら、ニニギはイワレビコの前に歩み寄ってきた。そして、黒く変色したその左手を、自らの両手で無造作に掴んだ。
熱かった。紛れもない、人間の血の通った温度だった。
イワレビコは反射的に腕を引こうとして、やめた。ニニギの力が強かったからではない。自分が、引きたくなかったのだ。この泥臭い熱さが、左腕の中の異物の脈動を、ほんの少しだけ遠ざけてくれる気がした。
「怖いから、俺はここにいる」
それ以上、余計な言葉は足さなかった。ニニギはそっと手を離し、また黙々と歩き始めた。
イワレビコは少しの間、その背中を見つめていた。かつて、父の臣下たちは美しい言葉で忠義を語った。国のため、民のため、王家のため。だが、ニニギは一度もそんな大義を口にしない。ただここにいる。その絶対的な意味を、イワレビコはまだうまく言葉にできなかった。
「来るぞ」
森の境界が終わり、乾いた荒野が開けた瞬間、イワレビコはそれを捉えた。
一騎――六本足の馬に跨がった神兵が、荒野の中ほどで静止していた。こちらに気づいている。気づいた上で、微塵も動じていない。あの面に張り付いたような笑顔を浮かべたまま。
あの笑顔は感情ではないと、イワレビコは最近わかってきた。人間を真似て、ただ顔の皮を歪めているだけだ。中身のない、ただの形だ。
「まだ生きていたか、不浄なる者よ」
神兵が感情のない声で告げると同時に、光の剣が引き抜かれた。その白すぎる輝きが荒野の色彩を奪っていく。以前なら、この光を浴びただけで足が止まった。肉体が恐怖で竦んだ。
だが、今は違う。光が強くなるにつれ、背の黒剣が猛烈に反応する。左腕の奥で、あの異物の脈動が歓喜を上げて暴れ出す。
「ニニギ」
「ああ」
声が重なった。それだけで足りた。
ニニギが猛然と地を蹴った。大楯を前に突き出し、まっすぐに突進する。戦術も策もない。真正面から、最短距離で間合いを詰めるだけだ。
神兵が剣を振り下ろした。光が恐るべき束となって荒野を走り、ニニギを正面から叩き潰しにかかる。
――爆音。
激しい土煙。鉄楯の表面が派手に弾け飛び、焦げた鉄の臭いが空間に広がった。
しかし、煙の奥から、ニニギの泥臭い足音は途絶えなかった。一歩。また一歩。地面を割るように踏みしめながら、彼は前へ出ていた。
楯の裏に埋め込んだ黒い欠片が神の光を強欲に吸い込み、鉄の端が熱でどろどろに溶け落ちながら、それでもニニギは前へ出ていた。悲鳴ではない。神の法を押し返している、人間の骨が軋む音だった。
「馬鹿な」
神兵の声が、初めてわずかに歪んだ。上ずりはしない。だが、確かに変わった。あの固定された笑顔が、ほんの少し、恐怖に似た形に変形した。
その瞬間を、イワレビコは待っていた。
ニニギの楯の陰から、地を走るように滑り込む。呼吸一つ分で間合いが消滅した。剣を構える時間すら惜しかった。
握った手がそのまま腕になり、腕がそのまま黒い刃になるような、肉体とフツノミタマの境界が完全に融解した瞬間、彼は全力で突き出していた。
神兵が、分厚い絶対の光の障壁を張った。以前、この前でイワレビコの鉄剣は跳ね返され、骨を砕かれた。今日も同じ、天の圧迫が牙を剥く。
来た――が、フツノミタマは、止まらなかった。
光の層が、黒い刃の前で不様に薄くなり、剥がれ、霧散した。まるで水が割れるかのように。障壁など端から存在しなかったかのように、刃は白い鎧に触れ、そのまま、吸い込まれるように深く肉体へと突き刺さった。
ズブリ、と音がした。
乾いた、静かな音だった。荒野を吹き抜ける風の音よりも小さかった。だがイワレビコには、その音だけが世界のすべてのように耳底に響いた。
「な……」
神兵が口を動かした。言葉にはならず、ただ白い息だけが漏れる。
白い鎧が、刃の根元からみるみる黒く腐食していき、その亀裂から、黄金色の液体がどっと滲み出た。
イワレビコは、それを見つめたまま一瞬、動けなかった。
神が、血を流している。
当たり前のことのはずだった。この瞬間のために、俺は人間を捨てた。だが、実際に目の前で起きると、世界の骨組みが書き換わっていく絶対的な手応えがあった。この誰も見ていない荒野で、人間の泥臭い剣が、神の肉を裂き、血を流させている。
神兵が崩れ落ちた。馬から無様に転落し、地面に這いつくばる。起き上がろうと手を突き、その指が必死に土を掴む。
人間と同じように、痛みで肉体をのたうち回らせていた。その光景が、イワレビコの胸に奇妙なほど深く刺さった。神も、悶え苦しむのだ。
やがて、その動きが止まった。肉体の端から、さらさらと灰になって崩れていく。足先から、膝から、腰から、胸から。あの固定された笑顔が最後まで残り、それも呆気なく崩壊した。風が吹き抜け、灰を連れ去る。
荒野に残されたのは、主を失った六本足の馬の死骸と、地面に広がる黄金色の染みだけだった。
しばらくの間、二人とも微動だにしなかった。
ニニギが先に、大楯を地面に突き立てて口を開いた。その縁に額を押しつけるようにして、猛烈な荒い息をついている。楯の表面は半分以上が炭化し、持ち手の鉄は歪んでいた。
「勝ったのか……。俺たちは、本当に神を、倒したのか」
イワレビコは答える前に、自分の右手を見つめた。
右手が、激しく震えていた。勝利の昂ぶりでも、疲労のせいでもない。理由がわからぬまま、ただ震えていた。
左腕は相変わらず氷のように冷たく、異物の脈動を刻み続けている。右手だけが、人間の温度を保ったまま、人間のように震えているのだ。
「ああ」
言葉にすると、初めてそれが現実になった。
歓喜はなかった。やはり、どこにもなかった。邑が燃えるのをただ見守るしかなかったあの夜、腹の底に沈んだ「燃えかす」のような煤が、今も冷たく燃えているだけだった。
「手が、震えてるな」
ニニギが顔を上げ、その右手を見て言った。
「わかっている」
「左は」
「……冷たいままだ」
ニニギはそれ以上、何も訊かなかった。
二人はしばらく、灰の散った跡を静かに見つめていた。そこに神がいたという証拠は、もうどこにも残っていない。黄金色の染みも、乾いていくにつれ、ただの泥の色へと還元されていくだろう。
イワレビコは空を見上げた。雲の向こうに、神の都がある。目には見えないが、確かに存在する。そこには、今日殺した神兵など比較にならぬほど強いものが、無数に控えているのだ。
「行くぞ」
イワレビコは歩き出した。
「マカツへ帰る」
その日、人間が神を殺した。
祝う者も、歴史に記す者もいない。天も地も、いかなる奇跡も起こさなかった。荒野の風が灰を遠くへ運んで、それで終わりだった。
だが確かに、何かが決定的に変わった。
世界の骨格のどこかに、今日、細い、しかし深い亀裂が入った。イワレビコはその軋む音を聞いた。それを聞いたのは、おそらく地上で自分一人だけだった。それでよかった。
まだ、始まりの最初の一歩にすら達していない。
それでも、亀裂は確かに刻まれたのだ。




