2. 王太子の思惑
深夜、カルルス伯爵家邸宅の玄関。 重い扉が開くと同時に、幽霊のように青白い顔をしたセシルの兄、エリオットがふらふらと入ってきた。目の下には酷い隈があり、その足取りは生まれたての小鹿のように危うい。
「……あ〜、もう。死ぬ。今日の殿下はいつにも増してバイタリティが異常だった……。なんであの人は一睡もせずに会議を三つもハシゴできるんだ……」
エリオットが壁に手をついて溜息をついた瞬間、暗闇から凛とした声が響いた。
「お帰りなさい、兄上。……例の話、通してくれたのでしょうね?」
「うわああああっ!?」
心臓を飛び出させんばかりに叫んだエリオットの前に、腕を組んだセシルと、その背後に控えるアランが立っていた。
「セ、セシル! 脅かさないでくれよ! この忙しい時に……。王太子殿下への謁見の話か?無駄な足掻きだって何度も言ってるだろう。殿下に考えがあってのことなんだ。何を訴えようが、覆らないと思うぞ。……すまないな、アラン。こいつの我儘に深夜まで付き合わされて、散々だろう?」
エリオットが力なく視線を送ると、アランは静かに頭を下げた。
「いえ、エリオット様。それが俺の仕事ですので」
「仕事だからって、戦地にまで付き合わされるところだったんだ。少しはこいつを嗜めてくれよ」
「兄上、しつこいぞ」
セシルはキッと兄を睨み据えた。
「……わ、わかったよ、明日の昼、少しだけ時間を取ってもらえるようギルに掛け合ってくる。だから今日はもう寝かせてくれ……」
エリオットは、王太子ギルバートの学友であり、幼少期から共に過ごしてきた唯一無二の親友でもある。その才気を見込まれ、現在は王太子の右腕として過酷な政務を共にこなしているからこそ、二人きりの時や妹の前では、つい昔からの愛称が漏れてしまうのだ。
「感謝します、兄上。私の思いを直接お伝えすれば、ギル兄様――殿下もきっとご理解いただけるはず。私は王都でお飾り人形になるために、血の滲むような訓練をしてきたわけではないのですから」
◇
翌日、案内された王宮は、数年前に訪れた時と変わらず、圧倒的な光に満ちていた。 陽光を反射する大理石の床、規則正しく配置された銀の甲冑を纏う衛兵たち。行き交う侍女たちは、皆一様に音もなく、優雅な所作で通り過ぎていく。その完成された秩序こそが、ここが戦場とは正反対の世界であることを、セシルに突きつけていた。
衛兵に導かれ、王太子宮の奥まった客室へと入る。入り口で待っていたエリオットが、溜息混じりに扉を開けた。
「中へ。ギルはもうすぐ来る」
セシルが豪奢なソファに腰を下ろすと、ほどなくしてメイドが飲み物と茶菓子を乗せたワゴンを引いて現れた。メイドがセシルに茶を淹れようとしたその時、アランが静かに手を出した。
「あ、俺がします。このまま置いておいてください」
手慣れた手つきで、アランはセシルの好むアールグレイの茶葉を選び、完璧な温度でカップに注いだ。セシルがそれを当然のように受け取り、一口含んで一息ついた頃――。
「待たせたね。明日の会議の内容をまとめていたんだ」
扉が開くと同時に、涼やかな声が響いた。 王太子ギルバート。太陽のような黄金の髪をなびかせ、彼は親しみやすい笑みを浮かべて入室してきた。
「アランも椅子にかけてくれ。今日は公式な場ではない」
「いえ、俺はこのままで……」
「殿下が勧めてくださっているんだ。かけろ、アラン」
セシルの言葉に、アランは一度ギルバートを見てから、躊躇いがちにセシルの横に腰を下ろした。ギルバートの瞳が、二人の親密な距離感を一瞬だけ、鋭く射抜いたことにセシルは気づかない。
ギルバートは対面のソファに深く腰掛け、優雅に脚を組んだ。
「さて。カルルス伯爵から聞いたよ、セシル。君は随分と熱心に軍部に志願書を書いて出したそうじゃないか。……それで、今日は何の話かな?」
セシルはカップを置き、居住まいを正して真っ直ぐに王太子の瞳を見つめた。
「殿下……あの通達は、どういうことでしょうか。私の志願した配属先は、ヴァレンタイン領の駐屯地です。王妃様の近衛隊など、私の本意ではありません」
ギルバートは沈痛な面持ちで溜息をついた。
「実は先日、母上の寝所に、不吉な怪文書が届けられた」
「叔母様――王妃様が、狙われたのですか!?」
セシルは身を乗り出した。叔母は、幼い頃からセシルを可愛がってくれた恩人だ。
「犯人の目星は残念ながらついていない。……母上はこれまで以上に厳重な警護を置くことになった。だが、母上は繊細な方だ。見知らぬ屈強な男たちに囲まれては、かえってお疲れになってしまうだろう?」
「……それは、たしかに。叔母様は静かな環境を好まれますから」
セシルの声に、わずかな迷いが生じる。そこへ、ギルバートは畳みかけるように柔らかな笑みを向けた。
「母上はね、『セシルなら腕も立つし、何より身内だから心安らぐ』と仰っているんだ。君を、心の底から頼りにしておいでだ。セシル、どうか母上を守って差し上げてほしい」
その言葉に、セシルの胸がわずかに締めつけられた。
戦場へ行きたい。剣を振るい、命のやり取りをする場所でこそ、自分は役に立つのだと信じてきた。
——それでも。
幼い頃、王宮の庭で手を引いてくれた叔母の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
優しく、静かで、争いを好まぬ人。
(私が、守らねばならない)
その思いが、戦場への渇望を、ゆっくりと押し沈めていった。
「……承知いたしました。叔母様の御身、このセシルが命に代えてもお守りいたします」
セシルの中で天秤が重く傾いた。ギルバートの瞳に、獲物が罠にかかった瞬間のような光が宿る。
「頼んだぞ、セシル。……ああ、それからアラン。君も母上の従者として、常にセシルと共に付いてくれ。母上も、気心の知れた二人が揃っている方が喜ばれる」
「……畏まりました、殿下。粉骨砕身お仕えいたします」
「ありがとう。……さあ、エリオット。二人を新しい宿舎へ案内してくれ」
ギルバートの満足げな笑みを背に、三人は退室した。一人残された王太子は、冷めた紅茶を眺めながら独りごちた。
「これで、盤面の整理はついた。……あとは『彼女』が来るのを待つだけだ」




