第11話 虚飾の聖域と、美しき侵略者
2016年9月、パリ。
セーヌ川を渡る風が、夏の名残と秋の気配を運んでくる。
世界中のファッション関係者が集結する「パリ・ファッションウィーク」の喧騒の中で、俺はヴァンドーム広場に面した最高級ホテル『リッツ・パリ』のスイートルームにいた。
「……蓮にい、この靴、本当に歩きにくいよ」
鏡の前で、美月が困ったように眉を下げている。
だが、その不平とは裏腹に、鏡の中に映し出された彼女の姿は、もはや「地方の蔵娘」などという形容が失礼に当たるほど、神々しいまでの美しさを放っていた。
今日の美月は、世界的なラグジュアリーブランド『L&M』が彼女のためだけに仕立てた、シルクジャガードのロングドレスを纏っている。驚異的なスタイル。膝上から大胆に切り込まれたスリットから覗く、真っ直ぐで長い脚は、歩くたびに芸術品のような筋肉の躍動を見せる。
うなじから肩にかけてのラインは、星野結衣が奏でる旋律のように滑らかで、一切の無駄がない。ホテルの廊下ですれ違ったフランス人のモデルたちですら、彼女の圧倒的な股下の長さと、東洋的な気品に圧倒され、自尊心を粉砕されたような表情で振り返っていた。
「慣れろ、美月。お前が纏っているのは布じゃない。九条酒造という『哲学』だ」
俺はスマートフォンを閉じ、彼女の背後に立った。
スチールブルーの瞳で彼女の全身をチェックする。32歳の精悍な肉体に戻った俺は、42歳までの経験で得た「美の黄金律」を彼女に叩き込んでいた。
「……九条、準備はいいかしら。今夜のゲストは、ファッション界の女帝だけじゃないわ。欧州の古い貴族たちも、あなたの『一滴』を待っているわよ」
部屋のドアが開き、エルザ・ハフナーが入ってきた。
179センチの長身。神がかったプロポーション。今夜のエルザは、仕事モードのスーツではなく、背中が大きく開いたミッドナイトブルーのイブニングドレスに身を包んでいた。健康的なブロンズ肌と、アイスブルーの瞳が、パリの夜景を背景に冷たく、そして激しく輝いている。
「エルザ。……『VANTAGE』の編集長へのリークは完璧か?」
「ええ。彼女は『日本から来たミステリアスな酒造の女神』に、すでに首ったけよ。……あなたの仕掛けたSNSのティーザー広告、あれは悪魔的ね。わざと画質を落として、美月の横顔だけを見せるなんて」
2016年。まだ「インスタ映え」という言葉すら定着していないこの時期に、俺は2026年の最先端である「あえて隠す」の概念を先取りして投入していた。
午後8時。リッツ・パリのサロン。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、欧州のセレブリティたちが、九条酒造の新作『九条・黒檀』の解禁を待っていた。
会場に足を踏み入れた俺たちの周囲では、常に「音」が支配していた。
星野結衣がプロデュースした、日本の古い民謡とアンビエント・ミュージックを融合させたサウンド。透明感溢れる彼女の歌声がサンプリングされた音楽が流れると、着飾ったパリの男たちは、その「響き」に魂を奪われたように動きを止める。
「……あそこにいるのが、あの『神の舌』を持つソムリエね」
招待客の視線が、如月雫へと向かう。
蒼い瞳。雫は今夜、漆黒のレースドレスを纏い、まるで闇夜の支配者のようにバーカウンターに君臨していた。彼女がグラスを揺らす動作一つ一つに、会場の男たちは吸い寄せられるように集まっていく。
「……この酒を理解できないのなら、今すぐここを去りなさい。これは飲むものではなく、あなたの人生を審判するものよ」
雫の冷徹な一言が、傲慢な欧州のワイン愛好家たちの鼻柱を折る。
「……相変わらず、雫さんは厳しいわね。微かに笑みを漏らす姿さえ、男たちを熱狂させてるわ」
藤堂舞が、愛らしい瞳を細めて、俺の隣で微笑んだ。
彼女は今夜、会場のロジスティクスを完璧にコントロールしていた。誰にどのタイミングで酒を出し、誰に美月を紹介するか。六本木で培った彼女の「場」を支配する能力は、パリの最高級ホテルでも遺憾なく発揮されていた。舞の浴衣を思わせるカッティングのドレスから覗く豊かな曲線美は、マダムたちの嫉妬と、ジェントルマンたちの欲望を一身に集めている。
「九条蓮さん。……この『光景』、素晴らしいわ。成瀬くんが東京の地下で震えているのが、ここからでも聞こえるようよ」
神崎麗子が、オリヴィア・ワイルドのようなシャープな顎のラインを誇らしげに上げ、シャンパングラス……いや、九条の冷酒を掲げた。彼女の書いた『伝統の逆襲:九条酒造の真実』という特集記事は、フランスの高級紙にも翻訳転載され、今や九条は「知的エリートが嗜むべき聖杯」としての地位を確立していた。
「麗子。……お前のおかげで、九条は『ファッション』を超えて『文化』になった。恩に着るよ」
「勘違いしないで。私は事実を書いただけ。……でも、この酒に酔った男たちが、あなたの美月さんをどんな目で見ているか……注意しておいたほうがいいわよ」
麗子の視線の先。
会場の中央で、美月が囲まれていた。
そこには、フランスを代表するファッションデザイナーや、世界有数の富豪たちが列をなしている。彼らは美月のその圧倒的な美貌と、杜氏としての「誇り」が宿る真っ直ぐな瞳に、完全に魅了されていた。
「Miss Shiraishi.……あなたの造るこの酒は、もはや液体ではない。……この世に存在する、最も純粋な『美』だ」
世界的な宝石商のオーナーが、美月の手にそっと口付けをしようとする。
美月は困惑しながらも、俺から教わった通りの「不敵な女神」の微笑を浮かべた。その瞬間、会場中のフラッシュが一斉に焚かれる。
「……私の手は、お酒を造るためにあります。……宝石を纏うためではありません」
美月のその凛とした拒絶。
通訳したエルザの言葉が会場に流れると、どよめきが起きた。
2016年。資本がすべてを買い叩けると考えていた旧世代の男たちに、美月という「本物」が突き立てた刃。
一条亜理沙が、支配的な笑みを浮かべて、俺に耳打ちした。
「……完璧ね、九条。これで『九条』のブランド価値は、さらに倍に跳ね上がった。……でも、あなたは気づいているかしら。……この成功を、暗闇の底から見つめている『本当の敵』の存在に」
俺は、一条の視線を追った。
会場の隅。
華やかなスポットライトが届かない影の中で、一人の男が立っていた。
成瀬ではない。……もっと巨大で、もっと淀んだオーラを纏った男。
2026年の記憶が、俺の脳裏で警告を発した。
『帝国広告』。
世界の情報の流れを裏でコントロールする、巨大組織のトップ、黒田。
かつて俺を最終的に「処分」する決定を下した、広告業界の真の支配者が、そこにいた。
「……九条蓮。面白いことをしているな。……だが、君のやっていることは『秩序』を乱す行為だ。……遊びは、ここまでにしておきたまえ」
黒田の声は、音楽も、人々の喧騒も、一瞬でかき消すような絶対的な重圧を持っていた。
彼はグラスに指も触れず、ただ俺の瞳を射抜いた。
「……黒田さん。あなたのような大物が、わざわざ私のような人間に会いに来るとは光栄ですね。……ですが、残念ながら、あなたの言う『秩序』は、そう長くは持たない。……俺は、その『秩序』が崩壊した後の世界を、デザインしに来たんですよ」
俺は一歩も引かず、42歳の復讐者の魂を内に秘めたまま、32歳の不敵なPRマンを演じきった。
周囲では、7人のヒロインたちが異変に気づき、俺の背後に集まってきた。
美月の野生的な誇り。
亜理沙の圧倒的な資本。
エルザの世界戦略。
結衣の魂の響き。
麗子の真実の証明。
雫の神格化。
舞の場の支配。
7人の「女神」たちが、それぞれの圧倒的な美貌を武器に、黒田という巨大な闇に向かって宣戦布告の視線を送る。その光景は、パリの夜に降臨した現代の神話そのものだった。
「……フン。……女たちに守られているだけの若造か。……いいだろう。来月のパリ・ファッションウィークの本番。……君の言う『本物』が、世界規模の『捏造』に勝てるかどうか、見せてもらう」
黒田は影に溶け込むように、会場を去っていった。
沈黙が訪れる。だが、それは敗北の静寂ではない。
より巨大な獲物を前にした、狩人たちの高揚感だった。
「……蓮にい。あの人、なんだか今までの人たちとは全然違う。……真っ暗な、冷たい感じがした」
美月が俺の腕を強く掴んだ。ドレスから覗く彼女の白い肌が、かすかに震えている。
「怖がるな、美月。あいつは……俺がかつて、もっとも深い闇の中にいた時に思い知らされた、絶望の象徴だ。……あいつを越えた時、俺の本当の戦いは終わる」
俺は、美月の腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
彼女の、その驚異的な肢体が俺の腕の中で熱を帯びる。
「……さあ、次のハックだ。エルザ、麗子、亜理沙。……パリの全てのメディアをジャックするぞ。……黒田が仕掛ける『捏造』のさらに上を行く、『神話の構築』をこちらで用意する」
2016年。世界はまだ、情報の真偽を確かめる術を、マスメディアという古いシステムに依存している。
だが、俺には見える。
これから起こる情報のカオスを。
俺は、その混乱の先駆者となり、九条という絶対的なブランドを、人々の深層心理に刻み込んでやる。
「……行くわよ、蓮ちゃん。六本木の女王も、パリじゃ新入りだもの。……派手に暴れさせてもらうわ」
藤堂舞が楽しそうに笑い、俺の頬に軽く口付けた。
7人のヒロイン。7つの武器。
九条蓮の逆襲劇は、成瀬という個人の復讐を超え、広告業界という巨大なシステムを根底からハックするための、狂乱の第2章へと突入した。




