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方舟のノイ  作者: 刹那
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第二十九話【奇跡】


「アベル……アベル!?」


息絶えたアベルを抱えるノイの絶叫だけが、凪いだ海に虚しく響き渡る。

津波が収まり海面は穏やかになったものの、周囲には依然としてあらゆる物の残骸が漂うばかりで、身を置けそうな陸地はどこにもない。

だが孤立無援で誰にも届かないと思われていた彼女の声は、風に乗ってしかるべき場所へとしっかり届いていた。


「おーい!!」


聞き慣れた声が、どこからともなくノイへと返ってくる。

ボートに乗って周辺を探索していたレジスタンスの仲間達が、ノイの声を聴きつけて助けに来てくれたのである。


「な?な?あいつらは絶対無事だって言ったろ!?」


「ハキムに言われなくても、私だってそんなの分かってたもんねーだ!」


「…ずっと心配してたくせに」


ノイの生存を確認して賑やかに笑い合う三人組。

しかしノイの反応はそれとは対照的に切羽詰まったものであった。


「みんな!アベルが…」


喜ぶべき再会にも関わらず笑顔がないノイを見て全てを察したレメクが海に飛び込み、急いで彼女のもとへ泳いだ。

ボートよりも早くノイ達のもとに到達したレメクはアベルの意識が無いことを確認すると、すぐに二人を船上へと押し上げた。

仲間達に引き上げられたアベルの体がごろんと仰向けに横たわる。

糸の切れた人形のような状態のアベルを見て、皆の頭に最悪の展開がよぎった。

ノイはすぐさま彼の上にまたがり、一か八か救命措置を試みた。


「死なないでアベル…!」


アベルの胸元をグッグッと強く押し込んで心臓マッサージをするノイだったが、何の変化も訪れないまま時間だけが過ぎていき、沈黙が重くのしかかる。

その場にいる誰もがもう手遅れだと知りつつ、口に出せないでいた。


「ノイ…」


堪えかねたレメクが、もう諦めるべきだとノイの肩に手を乗せる。

しかし彼女は構うことなくアベルの胸を押し続けた。


「…前に教えてくれたよねアベル、人はみんな何か役割を持って生まれてくるって」


物言わぬ彼に、ノイはひたすら話しかける。


「私には人類のために子孫を残す使命だとか、そんな難しいことはまだよく分からないし、一生分からないままかもしれない」


たとえそれがアベルの耳に届いていなかったとしても、自分の想いを伝えずにはいられなかった。


「…でもね。みんなが言うように、もしそれが私の役割なんだとしたら、その役割を一緒に果たしてほしい相手はアベルしかいないよ」


そう言ってノイはアベルと口づけを交わし、彼の肺に息を吹き込んだ。


次の瞬間。

止まっていたアベルの心臓が動き出し、口からゲホゲホと海水を吐いて息を吹き返したではないか。

苦しそうに身をよじっているものの、それは彼が死を振り払った何よりの証しだった。


「…ノイ?」


「うん、私。私だよアベル!」


意識が戻ったばかりで茫然とするアベルを、ノイはギュッと抱きしめる。


「奇跡だ…」


その場の誰もが信じがたい光景を目の当たりにし、喜びよりも先に驚きで言葉を失っていた。

しかし一人、また一人とアベルが生き返った事実を噛み締め、感極まって涙を流す。


「アベル〜〜!」


真っ先にハキムが泣きながらノイをそっと押しのけ、そのままアベルと熱い抱擁を交わすのかと思いきや、唐突に彼の顔面を思いきり殴り飛ばした。


「ハキム!?」


慌てるノイの前に、フェトとセナが立ち塞がる。


「まあまあノイちゃん。あれくらいは許したげて」


「…ケジメは必要」


「?」


呆気にとられるノイの前で、アベルの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけるハキム。


「てめぇが裏切ったせいでな、俺達みんな死にかけて、すげー怖かったんだぞ!?」


「…本当にごめん。おじいさまのことも、みんなを危ない目に合わせたのも全部僕のせいだ」


アベルはそれに対して言い訳をするでもなく、心から反省の意思を示した。

そんな彼の態度を見たハキムはあっさりと表情を緩めて手を離す。


「でもお前はノイのことを護りぬいてくれたから、これでおあいこだ」


「私も、今回だけは特別に許したげる」


「…また今日からは家族」


「ありがとうみんな…」


フェトとセナからのフォローもあってすんなり和解し、それぞれと抱き合うアベル。

レメクとノイも父と子の再会をようやく果たし、お互い肩を寄せ合った。

そんな大団円の中、双子のイラとナエルだけはどこか寂しげにボートのふちに顔をうずめていた。


「みんなは無事だったけど…」

「おじちゃん死んじゃった…」


まだ幼い二人には、友を失った悲しみをすぐに受け止めることなどできやしない。

皆の活躍によって大勢の命が助かったが、それと同時に失ったものもまた大きかった。

それに、ここにいる者達とて一時的に助かりはしたものの、全ての陸地や物資を失った今どうやって生きていけばいいのか先の見通せない不安は拭いきれない。

その時ふと、海の様子を眺めていたオグが声を張り上げる。


「おい見ろ!」


オグが指差す先に、四角くて大きな木箱がいくつも浮いているのが見えた。

あれは何だろうかと皆が身を乗り出していると、他のボートの者達もそれに気づいて歓喜した。


「食糧コンテナだ!」


どうやら町が沈んだ際に、食糧を積んだ大量の木箱が海に放り出されたらしく、海上のあちらこちらに漂っていた。

その一つ一つが小型ボートと同じくらい巨大なコンテナで、一個あたり数十人分の食料が詰め込まれているであろうことは想像に難くない。

すぐにボートを近づけ、ハキムが木箱を手繰り寄せる。


「それにしてもでっけー箱だな。これだけあればみんなで腹いっぱい…」


空腹に堪えかねたハキムが意気揚々と蓋を開けた、その直後。


「ガァアア!」と、中から捨人が歯を剥き出しにして飛び出してきたではないか。


「うおぉおおっ!?」


「なんだ、またお前か」


「それはこっちのセリフだ!何でそんなとこに入ってんだよ!?」


まるでビックリ箱のように登場した捨人は、目の前の相手がハキムだと認識するや、すぐに歯を引っ込める。


「いやぁ、どうせ死ぬなら最後に魚でも食いたいと思ってな。食べ物の匂いのする箱の中に入って食事をしてただけさ。なあに心配するな、ちゃんとお前達の分も残してあるぞ」


ニタァと笑う捨人に、皆は呆れるやらホッとするやらで頬を引きつらせる。


「おじちゃーん!」

「生きてたー!」


誰よりも嬉しそうに飛びついてくる双子を受け止め、捨人はどこか照れくさそうに歯を見せて笑った。

その歯にはもう血はついていない。


果てしない海に浮かぶ船の上。

そこでは生まれた家も、育った土地も、何もかも失った者達が、水平線上でただ笑い合っていた。

大勢の笑い声に耳を傾けながら、ノイとアベルは互いの手を取って海に目をやる。

茶色く濁った水や、辺りに漂う瓦礫、そして大勢の死体が、自分達を待ち受ける未来が決して気楽なものではないことをまざまざと見せつけてくる。

言葉では言い表せない感情が渦巻き、不安で胸が押し潰されそうになる中で、二人はギュッと手を握った。

静かに目を閉じ、温かく、柔らかな手の感触だけに集中し、少しでも強く、強く握った。






* * *


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