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方舟のノイ  作者: 刹那
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第二十八話【口づけ】


時を同じくして、ノイとアベルは西にある倉庫のシャッターをくぐる。


「あった!」


奇跡的にもこちらにはボートが一隻だけ取り残されており、二人はホッと胸を撫で下ろした。

ノイが倉庫の中に足を踏み入れると、バシャッと水の弾ける音と共に足首が冷たく濡れる。

浸水が進み、辺り一面には大量の木屑やゴミなどがプカプカと浮いていた。


「急ごう、これ以上水が入ってくる前に」


ジャブジャブと海水に足を浸しながら進み、ボートを掴む二人。

あとはこれを外に運び出すだけと早速ボートを固定してある紐を解きにかかるが、思いのほか結び目が固く準備に手こずる彼女達をここで悲劇が襲った。

地面が急激にグラリと傾いたのである。


「!?」


バランスを崩したノイがザバンッと水しぶきを上げて倒れる。

すぐに立ち上がろうとした彼女に、今度は外から激しい波が押し寄せてきた。


「ノイ!!」


とっさにボートから手を離し、ノイを抱き寄せるアベル。

直後、二人の姿が濁流の中に消えた。


渦巻く荒波が二人の身体をもて遊ぶ。

濁りきった水の中は何も見えず、運ばれてきた瓦礫に全身を殴られる衝撃で、とても泳ぐどころではない。

何とか浮上して海面に顔を出した時にはすでにボートは打ち砕かれ、ただの残骸と化していた。


「ボートが…!」


「…ボートどころじゃない。どうやら完全に閉じ込められたみたいだ」


絶望するノイに追い打ちをかけるようにアベルが呟く。

さっきの荒波がぶつかった衝撃で倉庫の出入り口は完全に潰れ、逃げ場がなくなってしまったのである。

僅かな隙間からは絶え間なく海水が流れ込み、この倉庫全体が間もなく海の底に沈もうとしていた。

水かさが上がるにつれて天井がどんどん低くなり、二人の頭上に迫る。


「………」


水面から頭を出してしばらくの間天井を眺めていたアベルは、どうすることもできないと悟るやノイの方を向いた。


「どうやらここまでみたいだ。…でも安心して。一時的に沈んだとしても、津波が引けばきっとまた陸地に打ち上げられて、誰かが君を助けてくれる」


「君を……って、アベルはどうなるの?」


「僕は水中で息ができないから、仕方ないさ」


「そんなのだめ!きっとどこかに出口があるはず」


そう言ってノイは深く潜り、壁伝いに抜け穴を探す。

だが視界は茶色く濁り、自分の指先すら見通せない。

もし仮に出口があったとしても、積み重なった瓦礫の中を潜り抜けて脱出するのは現実的に考えて不可能だ。

他に方法はないかと再び水面に顔を出したノイに、アベルは優しく語りかける。


「いいかいノイ、よく聞いて」


「?」


「この先また、おじいさまや父さんみたいに、人類のためだと言って君のことを利用しようとする人が現れるかもしれない。でも人類のことなんか考えなくていい。君は君の生きたいように生きていいんだ」


「私はアベルと生きたい!ずっと一緒に生きたいの!!」


顔がずぶ濡れにも関わらず、それでも泣いていると分かるほどにポロポロと大粒の涙を流すノイ。

対してアベルは死が間近に迫っていることなどまるで感じさせない穏やかな笑顔のまま、ノイの涙を指で拭う。

もう天井と水面の隙間は残り僅かだった。


「…ありがとう。短い間だったけど、ノイと一緒に生きることができて本当に良かった」


海水が倉庫を満たし、口が塞がる直前、アベルはノイの目をまっすぐに見つめて言った。


「大好きだよ」


その言葉を最期に、ノイとアベルの全身を冷たい水が覆った。

巨大な方舟が二人を倉庫に乗せたまま、人知れず海の底を目指して死の航海を始めたのである。

音も光も途絶え、苦しみだけが支配する世界で、互いに握り合う手の感触だけが自分が孤独ではないことを教えてくれた。

しかしエラ呼吸できるノイと違い、海はアベルに対して牙を剥く。

海水が彼の肺を満たし、息絶えるのは時間の問題であった。

グググッと握られた手の力が増し、アベルの苦しみがノイに伝わってくる。


(アベル…!)


何を思ったか、ノイは突然手探りでアベルの頬に手を添えると、彼の口に自らの唇を押し当てた。


(…っ!)


柔らかな唇の感触が二人を繋ぐ。

ノイは互いの口を介して、自分の肺に溜まっている空気をアベルへと送り込んだのである。

これは肺に空気が無くなってもエラで呼吸できる彼女だからこそできる芸当と言える。

とはいえノイの肺に溜まっていた空気はせいぜい一呼吸分。

アベルが迎える死を、たったの数秒引き延ばしたにすぎない。


(だめ…これ以上はもう…)


ついに肺の空気が無くなり、どうしようもなくなったノイはアベルのことを抱き締めた。

せめて最期の瞬間までそばにいることを教えてあげたかったのだ。

ノイのくれた空気が海水に押し出され、ゴボゴボと苦しげに泡を吐くアベル。


(ごめんね…ノイ……)


酸欠により薄れゆく意識の中で、彼はふと不思議な音を耳にした。

コッコッコッと、何度も石を叩くような、そんな音。


その時だった。

ズンッ!と海中に凄まじい振動が走り抜けたかと思うと、倉庫の屋根がガラガラと崩壊して大穴が空いたではないか。

突然の出来事にノイが動揺して天井を見上げると、濁った視界の中、穴の向こう側からこちらをジロリと覗く巨大な眼球が見えた。

見覚えのある瞳。

それは以前、ノイが助けたマッコウクジラに他ならない。

津波によって舞い戻ってきたそのクジラは恩人であるノイのことを助けてくれたのか、それとも以前の経験から、建物を破壊すれば中から魚が出てくると学習していただけなのかは定かではない。

いずれにせよ、まさに運命的ともいえるタイミングで突破口が開けてノイとアベルは必死に泳いだ。

だが肺に空気が存在しないせいで思うように浮上できずにもがく二人の目の前で、クジラはプイと身を翻して海面へと上がろうとしていた。

クジラが背を向けた際、その巨大な壁の如き灰色の体にいくつものモリが刺さり、そこから繋がる長いロープが揺らめくのが見えた。


(間に合って…!)


これが最期のチャンスと、二人は持てる力の全てを込めて泳ぎ続ける。

どうにか天井の穴から脱出した二人は、クジラの体に向かって思いきり手を伸ばした。

ガシッと互いの手が重なり合ってロープを掴んだ途端、クジラはノイとアベルを引き連れて猛烈な勢いで浮上を始めたのだった。

振り落とされそうなほど激しい波と水圧に堪えながら、互いを離さぬよう必死に力を込めるノイ達の横を、もう一頭別の小さなクジラが横切る。


(もしかしてこの子…)


この母クジラが無事に出産を終えたことを知り、ノイは心にずっと残っていたしこりが洗い流された気がした。

そのまま二頭のクジラに運命を委ね、海を突き進むノイ達。

そしてついに、ザバンッと海面から頭を出したクジラは勢いよく潮を吹いた。

ノイもすぐにロープから手を離し、海から顔を出して思いきり息を吸い込む。

絶体絶命の危機から、二人は命からがら生還を果たしたのだ。

まばゆいばかりの太陽の光が目に飛び込み、新鮮な空気が肺に満ちたのを感じてノイは嬉しそうに振り返った。


「やったよアベル!助かったん…」


アベルの顔を見て、ノイは急に青ざめる。

彼のまぶたは固く閉ざされており、まったく息をしていなかったのである。

波がその体を不規則に揺らすばかりで本人は微動だにせず、握った手はダランと力無く垂れる。

アベルの心臓はもう動いてはいなかった。



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