第十話【頂点捕食者】
(おっきい…。魚を探してこんな浅瀬まで来たのかな)
ノイがその場で圧倒されていると、仲間達も倉庫の中から続々と出てきた。
セナ、ハキム、フェトの三人はよほどクジラに驚いたのか、ノイの方を見るなり青ざめた表情を浮かべていた。
何か言いたそうにゴボゴボと泡を吐きながらこちらを指差す三人に、ノイは“ただのクジラだから大丈夫“と笑顔で手を振る。
しかし尚もジェスチャーで必死に何か伝えようとする三人の様子に違和感を感じ、ふと後ろを振り向いてその理由を知った。
クジラが巨大な口を開けて、こちらに迫ってきていたのだ。
それは明らかに捕食の体勢。
(〜っ!)
とっさに体をひねって回避を試みるも、クジラは勢いよくノイの左腕に喰らいついて彼女の体をさらった。
腕を挟まれたままクジラにグイグイと海中を引きずられるノイ。
どれだけ振りほどこうとしても、圧倒的な力で噛まれた腕はびくともしない。
皮膚に歯が強く食い込み、クジラの泳ぐ軌道がノイの血で赤く染まる。
幸いなことにしばらく泳いだ後、丸呑みに失敗したクジラはノイを飲み込むのを諦めたらしく、口をカパッと開けた。
(今のうちに早く逃げないと…!)
口から腕が離れ、すぐに距離を取ろうとしたノイだったが、クジラの進行方向にセナ達がいるのを見て思いとどまる。
クジラは標的をノイから彼女達に変えたのだ。
迫りくる巨体に動揺し、慌ててその場から離れようとする三人だったが、急にフェトがゴボゴボと苦しそうにもがき出した。
彼女は恐怖のあまり海水を飲み込んでしまい、溺れかけていた。
逃げ遅れたフェトに狙いを絞り、クジラが大口を開ける。
(危ないっ!)
ノイはとっさにスピアガンを構え、クジラめがけて引き金を引いた。
バシュッと放たれたモリが背中に突き刺さり、クジラがフェトの眼前で身を翻して苦痛に喘ぐ。
キュイー、キュイーとガラスを指で擦った時のようなかん高い悲鳴が一帯に響いた。
のたうち回るクジラの全身を見て、ここでノイがあることに気付く。
(もしかしてこのクジラって…)
一方、セナとハキムは今のうちにその場を離脱しようと、溺れるフェトの両腕を掴みながら急いで海面を目指して泳ぐ。
なんとか海から顔を出し、プハッと息を吐きつつハキムが叫んだ。
「クジラが出たぞ!」
クジラ!?と、陸地で待機していたメトシェラやアベルらが即座に反応する。
「しめた!クジラを捕らえることができれば、村人全員が食べても余りあるくらい肉が取れる。アベル、ありったけのモリを用意するんじゃ!」
「分かりましたおじいさま!」
アベルが準備している間に、メトシェラは海面に浮かぶ数名の漁師達に呼びかけを行う。
「お前達、クジラの背後に回りこんで陸地に誘い込むんじゃ。絶対に逃がすでないぞ」
指示を出しつつ自分自身も海を見渡して状況を探るが、肝心のクジラとノイの姿だけがどこを探しても見当たらない。
ちょうどそこに、ゲホゲホと咳き込むフェトを抱えてハキムとセナが海から上がってきたため、彼らに向かって尋ねた。
「…ノイは、ノイはどこじゃ?」
フェトを助けるのにいっぱいいっぱいで、ノイの存在を完全に忘れていた二人は「あ…」と気まずげに目を見合わせる。
陸地からノイの姿が見つからないのも無理はない。
なぜなら彼女は海面に浮上するどころか、むしろ海底へと潜っていたのだ。
(あのクジラ、お腹に赤ちゃんがいる!)
クジラの異様に膨らんだお腹を見て、ノイは確信する。
ノイの読み通り、このクジラは妊娠していた。
妊娠中に群れからはぐれ、飢えていたストレスのせいで普段なら襲うことのない人間を襲ってきたのだ。
(きっと魚がいないから、お腹をすかせてるんだ…)
食糧となる魚さえ見つかれば攻撃をやめるはずだとノイは直感的に判断し、危険を伴う一か八かの賭けに出ることにした。
魚の群れが住み着いている倉庫までクジラを誘導しようというのである。
皆が距離を置いたこともあって、クジラは再び一番近くにいるノイを追ってきた。
ノイは急いで海底まで泳ぎ、倉庫前に辿り着くや否や、そこで動きを止めて振り向く。
すでにクジラは猛烈な勢いでこちらに突進してきていて、人間を丸呑みにできるほどの大きな口がノイに迫る。
(…今だ!)
食べられる寸前、ノイはすばやく倉庫の裏側に回り込んだ。
すると勢いを止めきれなかった巨躯はそのまま外壁にぶつかり、屋根をぶち破った。
ドンッ!と凄まじい衝撃波が海中を駆け巡り、ノイの体をビリビリと震わせる。
倉庫の屋根がゆっくりと傾きながら崩れ、中に潜んでいたおびただしい数の魚達は慌てふためき、まるで色とりどりの花びらが舞い散るかの如く、ブワッと外洋へと解き放たれたのだった。
それを見たクジラは、ノイのことなど忘れたかのように魚の群れに進路を変えてそれらを飲み込む。
(良かった…)
魚を胃袋に入れながら満足気に海面を漂って潮を吹くクジラを見て、ノイはホッと胸を撫で下ろした。
が、次の瞬間。
どこからともなく太いロープをつけたモリ先が飛んできてクジラの背中に突き刺さったではないか。
キュイー、キュイーと苦痛に喘ぎ、暴れまわるクジラ。
(何!?)
モリはその一発に留まらず、次々と発射されてクジラの自由を奪っていく。
それはクジラを捕獲すべく、陸地から大型のスピアガンを撃ち込む村人達の仕業に他ならない。
さらにはクジラが沖に逃げないように、複数の漁師達がモリを構えて進行方向を塞いでいた。
「引けーっ!」
陸地では村人達が総力を上げて、クジラに繋がれたロープを引いているところであった。
普通に力比べをすれば人間に勝ち目は無いが、海に潜る漁師達の牽制や、空腹で力を発揮できないこともあって徐々にクジラの体が陸地へと引き寄せられていく。
あとは全員でクジラの体にモリを突き立て、トドメをさすだけ。
各々が配置につき、武器を構えたその時である。
「みんなやめて!」
海から上がってきたノイが、皆の前に立ちはだかった。
「ノイ!?今までどこにいたの?心配したんだよ」
アベルが真っ先に駆け寄り、ノイを気遣う。
「そんなことより早くこのロープを離して」
海から上がってきて早々、何故かクジラをかばう素振りを見せるノイを不思議に思いつつ、メトシェラは首を横に振る。
「そうはいかん。お前が無事で何よりだが、あのクジラは村人全員の食糧にする」
「あのクジラのお腹には赤ちゃんがいるの!」
「!?」
その一言に誰もが驚いて目を見開く。
村人達がざわつく中、メトシェラは少し考えたあとノイに向かって落ち着いて言い聞かせた。
「…たとえそうだとしても、貴重な食糧であることに変わりはない。それに自然界ではむしろ、弱い子供を狙って食べるのはよくあることじゃよ」
「でもあんなに大きな体、みんなで分けても食べ切れないよ。食べ切れない分は取るなって父さんも言ってた」
「余った分は海に還せば良い。海の生き物がそれを食べ、食物の連鎖は紡がれる。無駄なことなど何もない」
「魚なら私が毎日みんなの分も取ってくるから、それでいいでしょ?お願い!」
どうしてそこまでノイがクジラをかばうのか、誰にもそれは分からなかった。
しかし、すでに大量の魚を捕獲できていた事実と、悲痛なまでの彼女の訴えを退けてまでクジラを狩るべきなのだろうかという疑問が皆の中に生まれる。
「…ノイの意見を尊重しよう。いいですよね、おじいさま」
アベルはそう言って腰から折りたたみ式ナイフを抜き、クジラに繋がれたロープを一本一本切っていく。
止める者は誰一人としていなかった。
全てのロープがブツリと切り離されるや、クジラは沖に向かってゆっくりとした動きで泳ぎ去っていった。
刺さったモリやロープはそのままになってしまったが、致命傷とは程遠いため、きっと無事に生き延びてくれるだろう。
そう信じて、ノイは夕日に照らされたクジラの背中が海の彼方に見えなくなるまでずっと見守り続けたのだった。
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