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第三話 再会の路地、狂愛の刻印

楽しめれるよう。

 1958年、ヌーベル・フランス共和国 首都アルジェ


 息が、燃えるように熱い。


 肺が、錆びついた鉄の爪で内側から引き裂かれるようだ。

 足は、もはや自分の意志とは無関係に動くただの肉塊と化していた。


 アミールは、ただただ走っていた。


 背後から追いかけてくるかもしれないあの金色の悪魔から逃げるために。


 ヴァレリー家の広大な敷地を囲む塀を乗り越え、彼はアルジェの旧市街のカフカの迷宮へとその身を投じた。

 石畳の道は複雑に入り組み、月明かりさえ届かない影がそこかしこに口を開けている。


 そこは、支配者であるコロンたちが滅多に足を踏み入れない、被支配者たちの世界だった。


 汗とスパイスと貧困の匂いが混じり合った空気が、彼の喉に纏わりつく。


「ハァッ…ハァッ…ここまで来れば…」


 路地裏の壁に背を預け、アミールは荒い息を整えようとした。

 心臓が肋骨を内側から叩き、今にも破裂しそうだった。


 エロディーを殴りつけた鉄のロッカーの扉の感触が、まだ足の裏に生々しく残っている。


 彼女が倒れる瞬間の、驚愕に見開かれた空色の瞳。

 床に広がった金色の髪と、白いドレス。

 そして、額から流れた一筋の鮮やかな赤。


(殺してはいない…気絶させただけだ…)


 そう自分に言い聞かせるが、確信はなかった。


 もし、打ち所が悪かったら?

 いや、考えるな。

 考えてはいけない。

 今はただ、逃げることだけを考えろ。


 その時だった。


 「おい、坊主!」

 背後から、押し殺した声が聞こえた。


 アミールは、ビクリッと肩を震わせ、ナイフのように鋭い警戒心を全身に漲らせた。


 振り返ると、息を切らせたジャン=ピエールが立っていた。

 その手には拳銃が握られている。


「…!来るな!」

 アミールは叫び、後ずさった。


(やっぱり、罠だったのか!僕を逃がしたと見せかけて、ここで始末するつもりだったんだ!)


「少しは落ち着け、馬鹿野郎!俺はお前の味方だと言っただろうが!」

 ジャン=ピエールは銃をしまい、両手を上げて見せた。


「お嬢様を殴り倒すとは、大した度胸だ。おかげで屋敷は大騒ぎになってる。すぐに衛兵どもがここら一帯を嗅ぎまわりに来るぞ」


「……」


 アミールはまだ彼を信じきれずにいた。


 今まで散々アルジェリア人を虐めてきたコロンを、オスマーン帝国の下で安寧を享受していたアルジェリアの地を侵略し、抑圧し、略奪してきたフランス人を、どうして今信じられようか?


 ジャン=ピエールは、アミールの疑いの視線に気づき深くため息をついた。

 「俺も、もうあの屋敷には戻れん。お嬢様を気絶させたお前を逃がした張本人だからな。バレるのは時間の問題だ。だから、俺も逃げるんだよ」


 彼はアミールに近づくと、ポケットから数枚のしわくちゃの紙幣と小さなコンパスを押し付けた。


 「金だ。大した額じゃないが、ないよりはマシだろう。それと、コンパス。南だ。とにかく南を目指せ。ここは、FLNとか言うテロリストどもの連中も隠れているだろうが、それ以上に、イーヴ・ゴダールとか言う不具廃疾の野郎が率いてるOASの目が光ってる。コロンのガキも、お前らアラブのガキも、奴らにとっちゃ区別なんてない。怪しい奴は見つけ次第撃ち殺す。気をつけろ」


「ジャン=ピエールさん…」

 アミールの声が震えた。


 温かいものが、胸の奥から込み上げてくる。


「あなたは…どうするんですか?」


「俺か?俺は、サハラ人民共和国とやらに向かう。確かに、FLNのテロリストどもが率いるヤベェ国だが、そこからなら、フランス本国…あのド・ゴール将軍のいる、本当のフランスに戻れるかもしれん」


 彼の目に、一瞬だけ遠い故郷を懐かしむような光が宿った。


 「こんな狂った『新しいフランス』は、俺の国じゃない。俺は、13歳の時、お前とそう歳が変わらん時に、かつて自由フランスのために戦ったんだ。ヒットラーとナチスの狂人から、華やかしい伝統と歴史に裏付けされた荘厳なるフランスを解放するために。こんな、身内同士で殺し合うためじゃない…」

 彼は吐き捨てるように言うと、アミールの頭を乱暴に撫でた。


 「いいか、坊主。絶対に生き延びろ。そして、二度と、あんな女に捕まるな。お前は犬じゃない。人間だ。人間として、生きろ」


 それが、ジャン=ピエールとのこの地での最後の会話だった。


 彼は「達者でな」と短く言うと、アミールとは別の路地へと消えていった。

 その背中は、この分裂した国に絶望した一人の男の孤独を象徴しているようだった。


 一週間後。


 カフカの路地裏にある打ち捨てられた建物の地下室。

 それが、アミールの新しい「家」だった。

 太陽の光は、天井の僅かな亀裂から筋となって差し込むだけで、昼間でも薄暗い。


 湿った土の匂いと自分の汗の匂いが、澱んだ空気に満ちていた。


 この一週間、アミールはまさにネズミのように生きていた。

 夜、人々が寝静まった頃にだけ外へ出て、市場のゴミ箱から食べ残しを漁った。

 パンの硬い切れ端や腐りかけの野菜。

 それでも、生きるためには何でも口にした。

 ジャン=ピエールにもらった金は、すぐに底をついた。


 一度だけ、パン屋で焼きたてのパンを買った時のあの温かさと香ばしい味を、アミールは忘れることができなかった。


 昼間は、息を殺して地下室に潜んでいた。


 OASの巡回兵が、通りを規則正しいブーツの音を鳴らしながら歩いていく。

 口々に「ラウル・サラン将軍は...」「この地は、我々コロンの土地だ」「本土のへっぴり腰の野郎どもには、ほんと辟易するよ」「アメリカのアイゼンハワー将軍は、我々の味方なのか?」などと言いながら。


 そして、時折聞こえる、誰かの悲鳴や乾いた銃声。


 この街は、巨大な狩場だった。


 そして自分は、最も狙われやすい獲物の一つだ。


 『ヴァレリー家の飼い犬だったアラブの少年が、恩を仇で返し、エロディーお嬢様に重傷を負わせて逃亡』


 そんな噂が、コロンたちの間でまことしやかに囁かれているのをアミールは偶然耳にしていた。

 彼らは血眼になって自分を探している。

 見つかれば、公開処刑かあるいはそれ以上に惨たらしい運命が待っているだろう。


(でも、僕は生きている)


 アミールは、硬いパンの切れ端を齧りながら、暗闇の中で自分に言い聞かせた。


 (誰の命令も聞かず、自分の意志で、今、ここにいる。これは、自由だ)


 たとえ、それが飢えと恐怖に満ちた自由だとしても、金の鳥籠の中で歌わされる日々よりは、遥かにマシだった。


 その日、アミールは珍しく、昼間に外へ出る決心をした。


 地下室に蓄えていた水が、完全になくなってしまったからだ。

 カフカ地区の共同井戸まで行かなければならない。

 危険な賭けだったが、喉の渇きは限界に達していた。


 古い布を頭から被り、顔を隠す。


 できるだけ人通りの少ない裏路地を選んで、壁に沿うように素早く進んだ。

 心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。

 誰も見ていないか。誰かにつけられてはいないか。

 井戸で素早く水瓶を満たすと、アミールは一目散に踵を返した。


 もうすぐだ。


 あと少しで、安全な隠れ家に戻れる。


 その油断が、命取りだった。

 裏路地の角を曲がろうとした、その瞬間。

 ドンッ、という鈍い衝撃と共に、彼は誰かと正面からぶつかった。


 「うわっ!」

 バランスを崩し、アミールは尻餅をついた。

 満たしたばかりの水瓶が手から滑り落ち、石畳の上でガシャンと音を立てて割れる。


 貴重な水が、あっという間に乾いた地面に吸い込まれていった。


「いって…」

 ぶつかった相手も、同じように倒れていた。


「す、すみません!大丈夫ですか!?」

 アミールは、咄嗟にそう言って、相手に手を差し伸べた。

 それは、彼の中に染み付いた支配者に対する反射的な謝罪と奉仕の行動だった。


 相手は、ゆっくりと顔を上げた。


 逆光で、最初はよく見えなかった。

 だが、その顔が光の中に現れた瞬間、アミールは全身の血が逆流するのを感じた。


「……………え?」

 金色の陽光を浴びてきらめく髪。

 空の青を溶かし込んだような大きな瞳。

 陶器のように滑らかな白い肌。


 その額には、まだ生々しいあの時の小さな傷跡が残っていた。


「エロディー……」


 アミールの唇から、名前がこぼれ落ちた。


 目の前にいるのは、彼がこの世で最も恐れる存在。

 彼が、一週間前に殴り倒して逃げ出した、あの狂気の少女だった。


 彼女もまた、アミールを認識したようだった。


 その完璧なまでに整った顔が、信じられないものを見たかのように驚愕に歪んだ。

 開いた唇が、声にならない音を紡ごうとして、かすかに震えている。

 大きな空色の瞳が、これ以上ないほどに見開かれていた。


 まるで、奇跡か、あるいは幻でも見ているかのように。


 彼女の周りには、いつもいるはずの護衛の姿はなかった。

 なぜ、彼女がたった一人で、こんなカフカの汚い路地裏にいるのか。


 アミールには、理解が追いつかなかった。


 時が、止まったかのようだった。

 二人だけの世界。

 路地の喧騒も遠くで聞こえる銃声や悲鳴も、すべてが意味を失っていた。


 やがて。

 エロディーの顔から、驚愕の色がゆっくりと消えていった。


 そして、その代わりに浮かび上がってきたのは―――歓喜。


 神の御許しを得た罪人のような、あるいは、失われた至宝を取り戻した王のような、純粋で、底なしの、そして何よりも恐ろしい歓喜の表情だった。

 彼女の唇が、ゆっくりと、恍惚の弧を描いた。


「…アミール…」

 囁くような、吐息のような声。


「ああ…私の、アミール…。やっぱり、神様は、いらっしゃったのね…」


 次の瞬間、彼女は豹のようなしなやかさでアミールの体に飛びかかってきた。


「うわっ!」

 抵抗する間もなく、アミールは再び石畳の上に押し倒された。

 華奢な身体のどこに、こんな力があるのか。

 彼女の両腕が、アミールの肩を万力のように押さえつけ、身動き一つ取れない。


 そして、彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

「やっと…やっと、会えたわ…」と言う彼女の熱い吐息が、アミールの顔にかかる。


「どれだけ、あなたを探したと思っているの…?この一週間、眠ることも、食事をすることも忘れて…ただ、あなたのことだけを考えていた…。私の小鳥は、どこへ飛んで行ってしまったのかしら、って…」


「や、やめろ…」

 アミールは、恐怖に引き攣った声を絞り出した。


「離せ…!」


「離さないわ。もう、二度と」

 彼女は、うっとりとアミールの顔を見つめながら言った。


 「もう絶対に、私の側から離さない。今度こそ、永遠に。私のものよ、あなたは。私の、私の、私の…!」


 そして、彼女の唇が、アミールの唇に、乱暴に重ねられた。


「んむっ…!?」

 それは、キスと呼べるような代物ではなかった。

 貪欲な飢えた獣の捕食。

 彼女は、アミールの唇をこじ開け、自分の舌をねじ込んできた。

 そして、まるで彼の存在そのものを吸い尽くそうとするかのように、彼の口内を激しくかき回し、唾液を啜りあげていく。

 ぬるりとした舌の感触。

 彼女の唾液の甘ったるい匂い。

 それはアミールにとって、暴力以上の屈辱であり、生理的な嫌悪感を呼び起こす、おぞましい行為だった。


(気持ち悪い…!やめろ…!やめてくれ…!)


 アミールは、必死に首を振り、体を捩って抵抗した。


  だが、エロディーはびくともしない。

 彼女は、彼の抵抗を、まるで小鳥の愛らしい羽ばたきでもあるかのように楽しんでいる。

 その喉の奥から、くつくつと嬉しそうな笑い声が漏れているのが、唇越しに伝わってきた。


「ん…んんっ…!」

 アミールは、彼女の肩を両手で突き飛ばそうとした。その時だった。


 キスをしたまま、エロディーの顔がわずかに離れた。

 その空色の瞳は、陶然とした悦びに濡れている。

 そして、彼女はアミールを押さえつけていなかった方の右手を、ゆっくりと、ゆっくりと、空中に持ち上げた。


 白い、華奢な手。


 だが、アミールには、それが死神の鎌のように見えた。


(殴られる…!)


 あの時、物置で彼女が見せた狂気の暴力。


 ジャン=ピエールが警告した、執着の果ての破壊衝動。


「足を砕いてしまえばいい」と囁いたあの呪いのような言葉が、脳裏に蘇る。


 彼女の手が、振り上げられる。

 アミールは、恐怖に目を固く閉じた。

 逃げられない。

 避けられない。

 絶望が、冷たい水のように、彼の全身を満たしていった。


 裏路地に、甲高い風切り音が響く。


 その瞬間は、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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