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第二話 檻の扉、狂愛の足音

楽しめれるよう。

 1958年、ヌーベル・フランス共和国 首都アルジェ


 闇。

 完全な音も光も吸い尽くす漆黒の闇だった。

 アミールは、冷たく湿った土の上に横たわっていた。

 身体のあちこちが、鈍い痛みと熱を主張している。

 特に、エロディーに殴られた左の頬は、まるで鉄の塊が埋め込まれたかのようにズキズキと脈打っていた。

 口の中に広がる血の味は、屈辱の味そのものだった。


 物置。

 ヴァレリー家の広大な屋敷の、地下にある古い物置。

 それがアミールの新しい檻だった。

 黴と腐りかけた木材と、忘れ去られた時間の匂いが濃密な闇に溶けている。

 ここには窓ひとつなく、扉の下のわずかな隙間から漏れてくるであろう光さえ分厚い扉に遮られて届かない。


(どれくらい経ったんだ…?)


 時間の感覚が麻痺していた。

 数時間か、あるいは丸一日か。

 腹が空っぽで、喉は乾ききっている。

 だが、それ以上にアミールの心を苛んでいたのは、暴力の記憶とこれからどうなるのかという底なしの恐怖だった。

 あの時の、エロディーの顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 天使のような顔を憎悪と狂気で歪ませ、彼を「私のもの」と叫びながら殴りつけた少女。


 その瞳に宿っていたのは子供の癇癪などでは断じてない。


 自分の所有物が意志を持ったことに対する、冒涜された神にも似た憤怒とそれを再び屈服させようとする執拗な、病的なまでの独占欲だった。


(…犬じゃない)


 アミールは暗闇の中で呟いた。


(僕は、あんたの犬じゃない…!)


 あの瞬間、確かに彼は鎖を断ち切ったはずだった。

 生まれて初めて、支配者に対して「否」を突きつけた。

 その代償がこの闇と痛みだとしても、まったくと言っていいほど後悔はなかった。

 いや、後悔などという感傷に浸る余裕すらなかった。


 胸の奥で燃え続ける、小さな、しかし熱い反抗の炎だけが彼がまだ人間であることを証明していた。


 その時だった。

 カチャリ、と遠くで金属音がした。

 続いて、ギィ…と重い蝶番が軋む音。

 そして、微かな足音。


 アミールは息を殺し、身を固くした。


(来たのか…?エロディーが…?)


 心臓が警鐘のように激しく鳴り響く。

 あの狂気の続きが始まるのか。

 今度は、どんな罰が待っているのか。


 足音は、物置の扉の前で止まった。

 また、カチャリ、と鍵が回る音。

 ゆっくりと、扉が開き始めた。


 一条の細い光が闇を切り裂き、アミールの目を射る。


 眩しさに目を細めながら、彼は光の向こうに立つ人影を見つめた。

 それは、エロディーではなかった。


 ヴァレリー家の護衛の一人だ。


 いつもエロディーの傍にいる無表情な男たちとは違う。

 たまに庭の手入れや見回りをしている、少し年嵩のどこか疲れたような目をした男だった。


「…おい、坊主。生きてるか」

 男の声は、押し殺したような低い囁きだった。


 アミールは答えなかった。


 警戒心を解かずに、ただ相手を見据える。

 罠かもしれない。

 エロディーが、新たな遊びを思いついただけかもしれない。


 男はため息をつくと、持っていた水筒と紙に包まれた何かを床に置いた。

 「飲め。それにパンだ。少しでも腹に入れておけ」

 光に照らされた男の顔には、軽蔑も憎悪もなかった。

 そこにあったのは、深い憐憫とそして"何か"に対する強い嫌悪の色だった。


「…なぜ」

 アミールは、かすれた声で尋ねた。

「なぜ、僕に…」


 男は苦々しげに顔を歪めた。


「ジャン=ピエールだ。名前くらい覚えておけ、この野郎」

 彼は扉の隙間から周囲を窺い、再びアミールに向き直った。


 「なぜ、だと?…俺にもお前くらいの年の息子がいるからさ。パリにな」

 ジャン=ピエールの目は、遠くを見ていた。


「俺はな、ド・ゴール将軍の裏切りが許せなくて、ラウル・サラン将軍率いる派遣軍に残ってこの『新しいフランス』に来た。フランスの栄光を守るためだと信じていた。だがな…」

 彼は唾を吐き捨てるように言った。


「これが『栄光』か?これが『フランス』か?ただのガキが、別のガキを虫けらのようにいたぶって喜んでる。周りの大人たちは、それを褒めそやす。あのお嬢様…エロディー様は、正真正銘の化け物だ。あんなのが、この国の未来を担う『天使』だなんて、反吐が出る」

 ジャン=ピエールの言葉は、アミールにとって信じられないものだった。


 コロンが、自分たちを支配する側の人間が、こんなことを考えているなんて。


「俺はもうごめんだ。こんな狂った気狂いの国、一刻も早くおさらばする。南へ逃げて、アトラース山脈...いや、それの向こう側…サハラ人民共和国とか言ったか?あのベン・ベラ率いるテロリストどもの国。あそこから本当のフランスに戻る道を探す」


 彼はアミールの腕を掴み、無理やり立たせた。


「立て、坊主。お前もここから出るんだ」


「え…?」


「聞こえなかったのか?逃がしてやるって言ってるんだよ。俺も逃げる。お前がここに残れば、あの化け物に殺されるか、壊されるか、どっちかだ」


 アミールの心臓が、今度は恐怖とは違う激しい鼓動を打ち始めた。

 希望。

 闇の底に差し込んだ、一条の眩いほどの希望の光。


「だが…」


 「だが、じゃねえ。行くぞ。裏の通用口なら、まだ見張りが手薄なはずだ。そこからならカフカ地区まですぐだ。あとはお前が自分で何とかしろ」

 ジャン=ピエールはそう言うとアミールを物置から引きずり出した。


「いいか、よく聞け。二度と、もう二度と…」

 彼はアミールの肩を掴み、真剣な目で言った。

「あんなヤバい女に捕まるなよ。あいつは人間じゃねえ。お前を愛してるとか何とか言ってるが、あれは愛じゃない。ただの執着だ。蝶の羽を一枚ずつむしって、美しいと恍惚とするような、そういう類の狂気だ。わかったな!」


「…うん」

 アミールは、こくこくと頷いた。


「ありがとう…ジャン=ピエールさん…」


 「礼はいらん。さあ、行け!」


 彼らは、物置のある地下から厨房へと続く薄暗い廊下に出た。

 ひんやりとした石の壁を伝いながら、息を殺して進む。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


 あと少し。


 あと少しで外に出られる。


 自由になれる。


 その時だった。

 階上から、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。

 それは、アミールが聞き間違えるはずのないエロディーの声だった。


「…!まずい!」

 ジャン=ピエールの顔色が変わった。


「お嬢様だ…!なぜこんな時間に…!」


 足音が、階段を降りてくる。

 どんどんこちらに近づいてくる。


 もう、逃げ場はない。


 アミールの全身が恐怖で凍りついた。

 ここで見つかれば、終わりだ。

 ジャン=ピエールも、自分も、ただでは済まない。


「こっちだ!」

 ジャン=ピエールが壁際に並んでいた職員用のロッカーの一つを指さした。

「この中に隠れろ!早く!」


 アミールは、言われるがままに、錆びついた鉄のロッカーに身体を滑り込ませた。

 ジャン=ピエールが乱暴に扉を閉める。


 狭い。


 汗と鉄の匂いがする。

 そして、扉のスリットから、かろうじて外の様子が見えた。


 ジャン=ピエールは、何事もなかったかのように廊下の壁に寄りかかって煙草に火をつけた。

 その手が、わずかに震えているのが見えた。

 足音が、すぐそこまで来た。


 「あら、ジャン=ピエールじゃない。こんなところで何をしているの?」

 エロディーの甘い声が、廊下に響いた。


「…お嬢様。ただの見回りであります」

 ジャン=ピエールの声は、努めて平静を装っていた。


「そう。ご苦労様。…ねえ、私のかわいい小鳥は、ちゃんとおとなしくしているかしら?少し、反抗的だったから、お仕置きしてあげたのだけど」彼女は楽しそうに、くすくすと笑った。「そろそろ、私がいないと寂しくて、泣いている頃かもしれないわ。様子を見てくるの」


 ロッカーの中で、アミールは息を止めた。


 頼む、行かないでくれ。


 このまま通り過ぎてくれ。


 だが、祈りは届かなかった。

 エロディーは、鼻歌を歌いながら物置の扉へと向かう。


 ジャン=ピエールが、咄嗟に声をかけた。

 「お嬢様、あのような汚い場所へは、お嬢様自らが行かれる必要は…」


 「いいのよ。私が行きたいの。だって、彼は『私のもの』なんですもの」


 エロディーは、鍵を取り出すと物置の扉を開けた。

 そして、中を覗き込み―――動きを止めた。


 長い、長い沈黙。

 ロッカーのスリットから見えるエロディーの背中が、ぴくりとも動かない。

 やがて、彼女はゆっくりと中の暗闇から顔を上げた。


 その顔には、何の表情もなかった。


 能面のように、感情が抜け落ちていた。


「…いない」

 ぽつり、と呟いた。


 「いないわ」


 次の瞬間、彼女の顔がゆっくりとジャン=ピエールに向けられた。

 その瞳は、もはや人間のそれではなかった。


「…あなたね」

 氷よりも冷たい声だった。

「あなたが、逃がしたのね」


「い、いえ、私は何も…」

 ジャン=ピエールが狼狽えたように後ずさる。


「お嬢様が来られるまで、ここを動いてはおりません。あるいは、ネズミのように壁の穴からでも…」


「嘘!!!!」


 甲高い絶叫が地下の廊下に木霊した。


 エロディーは、手に持っていた鍵束を、力任せに壁に叩きつけた。

 ガシャン!という耳障りな音が響く。


 「嘘嘘嘘嘘嘘!あなたが逃がしたんでしょう!?そうでなければ、彼が、私の可愛いアミールが、私から逃げるはずがないじゃない!!」


 大狂乱。


 まさにその言葉がふさわしかった。

 彼女は美しい金色の髪をかきむしり、獣のように廊下をうろつき始めた。


「どこ!?どこへ行ったの!?アミール!私のところへお帰りなさい!今すぐ戻ってくれば、許してあげるわ!前よりも、もっともっと可愛がってあげるから!」

 その声は、甘い呼びかけから、次第に呪詛のような響きを帯びていく。


「見つけたら…見つけたら、今度こそ、二度と逃げられないようにしてあげる…。そうよ、綺麗な足だけど、もう走れないように、砕いてしまえばいいのよ…。そうすれば、ずっと、ずっと私のそばにいてくれる…。私の部屋の、金の鳥籠に入れて、私が直接ご飯を食べさせてあげる…。歌って、とお願いしたら、私のために歌ってくれる…。ああ、なんて素敵…!」


 ロッカーの中で、アミールは全身の血が凍るのを感じた。


 こいつは、本気だ。


 本気で言っている。


 ジャン=ピエールは、その狂気に満ちた独り言に完全に圧倒され、壁際で青ざめて立ち尽くすばかりだった。

 と、エロディーの動きが、ふと止まった。


 彼女は、狂乱の表情のまま、くん、と鼻をひくつかせた。


 一度、二度。

 そして、その顔に、ゆっくりと、恐ろしいほどの歓喜の表情が浮かび上がった。


「…この匂い…」


 彼女は恍惚としたように囁いた。


「わかるわ…。わかるのよ、アミール…。あなたの匂い…。少し汗臭くて、血の鉄の匂いが混じった、私の大好きな匂い…。こんな近くにいたのね…」


 まずい、しくった。

 アミールは心の中で叫んだ。


 エロディーは、まるで猟犬のように匂いを頼りにゆっくりと歩き始めた。

 一歩、また一歩、ロッカーへと近づいてくる。


 ジャン=ピエールが、最後の抵抗を試みようと一歩踏み出した。

「お嬢様、お気を確かに…!」


 「黙りなさいッ!!」


 エロディーは、振り返りもせずに叫んだ。

 その声には、人間には逆らえない魔性があった。

 ジャン=ピエールは、金縛りにあったように動けなくなる。


 エロディーは、ロッカーの列の前で立ち止まった。


 そして、一つ一つ、扉を指さしながら、確認するように呟く。

 「こっちじゃない…。こっちでもない…。ああ…だんだん、濃くなってきたわ…あなたの恐怖の匂いが、私を呼んでいる…」


 そして、ついに。


 彼女は、アミールが隠れているロッカーの、その真ん前に立った。

 スリットの向こうに、狂気的な愛に輝く空色の瞳が見える。


 その完璧な唇が、三日月のように弧を描いた。


「見ーつけた、私のかわいいアミール」


 彼女の白い、華奢な手が、ゆっくりと、ロッカーの取っ手へと伸びてくる。

 もう、だめだ。

 捕まる。

 そして、今度こそ、光の差さない永遠の鳥籠に。


 その絶望の淵で、アミールの心に再びあの赫い炎が燃え上がった。


(嫌だ…!)


(犬になんて、ならない…!)


 (鳥籠でなんて、歌わない…!)


 エロディーの指が、冷たい金属の取っ手に触れようとしたその瞬間。

 アミールは、ありったけの力を込めて、ロッカーの内側から扉を蹴り飛ばした。


「うおおおおおおおおっ!!」


 ゴッ!!!


 鈍い、肉を打つ嫌な音。


 アミールの渾身の力で開かれた鉄の扉は、無防備なエロディーの顔面を真正面から直撃した。


「きゃ……っ!?」

 悲鳴とも呼べない短い声を上げ、エロディーは、まるで糸の切れた人形のようにいとも簡単に後ろへ倒れ込んだ。

 ゴン、と後頭部を石の床に打ち付け、彼女はそのままぴくりとも動かなくなった。

 美しい白いドレスが、薄汚れた床に無惨に広がっている。


「…………」


 廊下に、しん、と静寂が戻った。

 ロッカーから転がり出たアミールは、ぜえぜえと肩で息をしながら倒れているエロディーを見下ろした。


 気絶しているだけだ。


 額から、細く赤い血が流れているのが見えた。


 ジャン=ピエールが、呆然と、その光景を見つめていた。

 「…お、おい、坊主…お前…」


 だが、アミールに彼の言葉を聞いている余裕はなかった。


 今だ。


 逃げるなら、今しかない。


 彼は、床に転がっていたジャン=ピエールのパンと水筒をひっつかむと、振り返りもせずに走り出した。


「おい、待て!」とジャン=ピエールの声が背後から聞こえたが、もう知ったことではなかった。

 厨房を抜け、通用口の扉を蹴破るように開ける。

 むわり、と生暖かい夜の空気が彼の顔を撫でた。


 外だ。


 自由だ。


 アミールは、カフカ地区の迷路のような路地をがむしゃらに走った。


 何度も転び、膝を擦りむいた。


 肺が張り裂けそうに痛い。

 だが、彼は走り続けた。

 背後から、あの狂愛の足音が聞こえてくるような気がして。


 彼は、もうただの無力な少年ではなかった。


 彼は、支配者の顔を殴りつけ、檻を破った反逆者だった。


 この広大なアルジェの街が、彼にとって新たな、そしてもっと危険な檻になるのだとしても。

 彼は、決して諦めない。

 あの赫い炎を胸に抱き、本当の自由を掴むその日まで、彼は走り続けるのだ。

お読みいただき、ありがとうございました。

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