第一話 白い手のひら、赫い反抗
楽しめれるよう。
1958年、ヌーベル・フランス共和国 首都アルジェ
乾いた熱風が、白亜の美しい街並みを舐めるように吹き抜けていく。
地中海の青さを反射して輝くその街は、一見すると平和そのものだった。
だが、その空気には、ガラスの破片のように鋭く且つ目に見えない緊張が満ち満ちていた。
ここは、地中海沿岸の都市アルジェ。
フランスの栄光を再び掲げるために、テロによる焦土から立ち上がった「新しいフランス」―ヌーベル・フランス共和国の首都。
コロンの子供たちの甲高い笑い声が、噴水のある広場に響き渡る。
仕立ての良い白い服を着た彼らは、まるでこの世のすべてが自分たちのためにあるかのように屈託なく走り回っていた。
その傍らを、アルジェリア人の親子が息を殺して通り過ぎていく。
父親は深く帽子を目深にかぶり、母親は子供の手を固く握りしめて、決して支配者たちの顔を見ようとはしない。
それが、この国で生きるための作法だった。
去年の政変―彼らが言うところの「栄光ある蜂起」以来、すべてが変わった。
ド・ゴール将軍、いや今は統領と言うべきか...ド・ゴール統領の裏切りから「真のフランス」を守ったのだと、ラジオは毎日がなり立ており、街角のポスターはライオンのように勇ましいラウル・サラン統一最高司令官の顔を称えている。
その栄光の影で、アルジェリア人への締め付けは、かつてのフランス領アルジェリア時代とは比較にならないほど陰湿で、そして暴力的になっていた。
彼らは、もはや"二級市民"ですらなかった。
彼らは、美しい新国家の景観を損なう染みであり、飼い慣らされるべき家畜だった。
そんな街の片隅、カフカ地区の入り組んだ路地に"アミール"と言う名の少年の家はあった。
日中でも薄暗く、土と香辛料の匂いが染みついた家。
その日も、アミールは壁に背をもたせ膝を抱えていた。
12歳。
世の中の理不尽を理解し始めるには、十分すぎる年頃だった。
その静寂を破ったのは、乱暴なノックの音だった。
ドンドン、ドン!
金属で扉を叩くような、傲慢な音。
アミールの母親の顔からサッと血の気が引いた。
父親は、黙って立ち上がり、震える手で扉に手をかける。
「…どなたでしょうか」という父親のかすれた声に、扉の向こうから冷たい声が返ってきた。
「エロディーお嬢様がお呼びだ。アミールはいるな。すぐに連れてこい」
その名を聞いた瞬間、アミールの心臓が氷の塊になったかのように冷たく縮こまった。
エロディー・ヴァレリー。
この地区を支配するヌーベル・フランス政府高官の一人娘。
金色の髪で空色の瞳、まるで天使のような容姿を持つ少女。
そして、アミールにとっての大きな悪魔だった。
父親が懇願するような目でアミールを見た。
「アミール…」
母親は、そう言いながら声もなく泣いていた。
逆らえない。
この国でコロンに逆らうことは、死を意味する。
ましてや、相手はヴァレリー家の人間だ。
アミールはゆっくりと立ち上がった。足が鉛のように重い。
「…わかった。行くよ、父さん」
扉を開けると、そこにはヴァレリー家の護衛が二人、軽蔑の眼差しで立っていた。
彼らはアミールを一瞥すると、顎で「来い」と示した。
アミールは両親に振り返ることなく、黙って彼らの後に続いた。
背中に突き刺さる母親の嗚咽が彼の心を削っていく。
貧しいカフカ地区を抜けると、風景は一変した。
広く舗装された道路と手入れの行き届いた街路樹、そして、城のように巨大な邸宅が立ち並ぶ。
ヴァレリー家の屋敷は、その中でもひときわ壮麗だった。
高い塀に囲まれ、鉄の門には金色のライオンの紋章が輝いている。
護衛に連れられて屋敷の裏手にある庭園へ向かうと、彼女はそこにいた。
白いパラソルの下で、優雅な椅子に腰かけて。
純白のレースのドレスが、日に透けてきらきらと輝いていた。
「アミール」
鈴を転がすような、甘い声。
エロディーが微笑みながら手招きする。
「こっちへ来て、私の可愛いアミール。会いたかったわ」
アミールは歩み寄った。
彼女の前に立つと、まるで巨大な鳥の前に立つ虫けらのような気分になる。
甘い花の香りが、彼の鼻腔を支配する。
それは彼女のまとう香水の匂いだった。
「ごきげんよう、エロディーお嬢様」
アミールは、教え込まれた通りにうつむいて挨拶した。
「まあ、堅苦しいわね。昔みたいに、エロディーって呼んでいいのよ。あなたは特別なんだから」と彼女はそう言うと、くすくすと笑った。
その笑い声には、絶対的な支配者の余裕が滲んでいた。
ヌーベル・フランスという国が建国されてから、彼女のこの「特別扱い」は、より執拗なものになっていた。
それはもはや、子供の気まぐれな残酷さではなかった。
獲物をいたぶり、その反応を心から楽しむ捕食者の粘着質で偏執的な愛情。
「ねえ、アミール。あなたにプレゼントがあるの」
エロディーはテーブルの上に置かれた小さなベルベットの箱を開けた。
中から現れたのは、細い銀のチェーンに小さなプレートがついた首飾りだった。
いや、それは首飾りと呼ぶには、あまりにも…。
「どう?綺麗でしょう?特注で作らせたのよ。あなたのためのもの」
彼女はそれを手に取り、アミールの首にかけようと立ち上がった。
銀のプレートが太陽の光を反射する。
そこには、小さな文字が刻まれていた。
Élodie V.(エロディー・ヴァレリー)
...彼女の名前、それは、犬の首輪につける鑑札と何が違うというのか。
「さあ、じっとして。つけてあげるわ。これで、あなたが誰のものか、誰にでもわかる。迷子になっても、すぐに私のところに帰ってこられるわね」と彼女は楽しそうに囁き、冷たい金属をアミールの首筋に当てた。
その瞬間だった。
アミールの中で、何年も何年も押し殺してきたものが、プツリと音を立てて切れた。
これまで、何をされても耐えてきた。石
を投げられても、罵倒されても、彼女の気まぐれで何時間も炎天下に立たされても、ただ耐えてきた。
生きるために。
家族を守るために。
だが、もう限界だった。
これは、人間の尊厳を踏みにじる行為だ。
アミールは、反射的に身を引いた。
「……っ!」
エロディーの手が空を切る。
彼女の空色の瞳が、わずかに見開かれた。
「…どうしたの、アミール?動かないで」と彼女の声から"甘さ"が消えた。
アミールは、顔を上げた。
初めて、真正面から彼女の顔を見据えた。
「…いらない」
絞り出すような、か細い声だった。
だが、その声には、紛れもない拒絶の意思が込められていた。
庭園の空気が凍りついた。
風の音も、遠くの街の喧騒も聞こえなくなる。
世界に、アミールとエロディーの二人だけしかいないかのような濃密な沈黙。
エロディーの完璧な唇が、ゆっくりと歪んだ。
「……なんですって?」
それは、地を這うような低い声だった。
「今、なんて言ったの?よく聞こえなかったわ。もう一度言ってみなさい」
アミールは震えていた。
全身が恐怖に支配されている。
だが、一度口にしてしまった言葉は、もう取り消せない。
いや、取り消したくなかった。
彼は、もう一度、今度ははっきりと、彼女の目を見て言った。
「いらない、と言ったんだ」
心臓が口から飛び出しそうだった。
「僕は……」と言葉が続く。
もう、誰にも止められない。
「僕は、あんたの犬じゃない!あんたの所有物なんかじゃないんだ!」
叫びだった。魂からの真の叫びだった。
次の瞬間、アミールの視界が激しく揺れた。
パァンッ!
乾いた、そして鋭い音。
左の頬に、焼けるような痛みが走った。
エロディーの平手打ちだった。
華奢な少女の腕から放たれたとは思えないほどの力で殴られ、アミールはたたらを踏んで地面に倒れ込んだ。
土と草の匂いが、鼻をつく。
「……ッ!」
信じられないという表情で、エロディーは自分の手を見つめていた。
そして、その視線をゆっくりと地面に倒れるアミールへと移した。
彼女の美しい顔は、怒りで紅潮し醜く歪んでいた。
空色の瞳は、もはや天使のものではなかった。
それは、最も大切な宝物を汚された狂信者の狂気と憎悪の色に染まっていた。
「……よくも」
彼女の唇から、呪詛のように言葉が漏れた。
「よくも言ったわね……この……汚いアラブのゴミがッ!!」
彼女はアミールに馬乗りになると、その細い指で彼の髪を鷲掴みにして顔を引き起こさせた。
「誰に向かって口を利いているの!?誰のおかげで、あんたたち一家が、この国で生きていられると思ってるの!?」
ドン!と、後頭部を地面に打ち付けられる。視界に星が散った。
「私が!私がどれだけあなたを『愛して』あげているか、わからないの!?」
彼女は叫んだ。
その言葉は、もはや罵倒ではなかった。
歪みきったしかし彼女にとっては真実の狂愛の告白だった。
「他の汚いアルジェリア人の子たちとは違う!あなただけは『特別』に、私のそばに置いてあげているのよ!私の庇護の下で、安全に暮らせるようにしてあげているの!それを…!それを、この私を裏切るの!?」
彼女は拳を振り上げた。
「私のものなのに!あなたは私のもの!生まれた時から、ずっと私のものなのよ!私が壊したって、私が生かしたって、私の自由なの!なのに、なのに、どうして!?」
彼女は泣き叫びながら、アミールを殴りつけた。
頬を、腹を、肩を。痛みで意識が遠のきそうになる。
だが、アミールは、霞む視界の中で必死に彼女の顔を見つめ続けた。
涙と怒りでぐちゃぐちゃになった美しい悪魔の顔を。
憎しみがあった。
殺してやりたいほどの憎しみ。
恐怖があった。
このまま殺されるかもしれないという純粋な恐怖。
しかし、その心の奥底でこれまで感じたことのない感情が、小さな炎のように灯っていた。
痛みと屈辱にまみれた、しかし確かな「自由」の感覚。
初めて、鎖を引きちぎったのだ。
「…僕は…」
血の味がする口で、アミールは囁いた。
「…誰の…もの…でもない…」
その言葉が、とどめになったようだった。
エロディーの動きがピタリと止まった。
彼女は、息を荒げながらアミールを見下ろし、やがて、その唇の端に恐ろしい笑みを浮かべた。
「…そう。そうよね。まだ、わかっていなかったのね、アミール」
彼女は、ゆっくりとアミールの上から立ち上がるとドレスの乱れを直した。
その仕草は、信じられないほど冷静だった。
「私が、甘やかしすぎたみたい。あなたは、もっと厳しく躾けないと、本当の主人が誰なのか、理解できないみたいね」
騒ぎを聞きつけた護衛たちが、慌てて庭園に駆け込んできた。
彼らは、地面に倒れるアミールと髪を振り乱したエロディーを見て、息をのんだ。
「お嬢様!」
エロディーは、その護衛たちに、氷のように冷たい声で命じた。
「そいつを捕まえて。地下の物置に放り込んでおきなさい」
彼女は、地面に落ちていた銀の首輪を拾い上げるとアミールを蔑むように見下ろした。
「私が許すまで、水もパンも与える必要はないわ。彼が、心から咽び泣いて、私の足にキスをして許しを乞うまでね」
そして、彼女はアミールにだけ聞こえるように、悪魔のように甘く、そして執拗に囁いた。
「思い知らせてあげる。何度でも、何度でも。あなたが、私の愛から、この私の世界から、決して逃れられないってことを。あなたの身体も、あなたの心も、あなたの魂の最後の欠片まで、ぜんぶ、私のものなんだってことを」
護衛たちに腕を掴まれ、引きずられていく。
石畳に身体が擦れて、新たな痛みが走る。
アミールは、もう抵抗しなかった。
ただ、振り返り、遠ざかっていくエロディーの姿を、その目に焼き付けた。
白いドレスを纏った美しい少女。
彼女は、アミールが引きずられていくのを、うっとりとした狂気的な愛に満ちた瞳で見送っていた。
その手には、彼のものであるはずの銀の首輪が、固く、固く握りしめられていた。
地下の物置の、分厚い木の扉が閉められ、錠が下りる重い音が響く。
完全な闇と、黴臭い沈黙が、アミールを包み込んだ。
身体中が燃えるように痛い。
唇が切れ、血が流れている。
だが、アミールの心に灯った炎は、消えてはいなかった。
それは、恐怖と絶望の暗闇の中で、より一層、赫々と燃え上がっていた。
反抗の炎。
いつかこの鎖を、この国を、そしてあの白い手を振り払い、本当の自由を掴むのだという静かで、しかし決して消えることのない誓いの炎だった。
お読みいただき、ありがとうございました。