机の端に瓶を置いてはいけません
どうしたものか。
ちょっと目を離した隙に、ソレは逃げ出してしまった。確かにジャム瓶に詰めてしっかり封をしたというのに、魔法生物である大きな猫のニーアはうっかりそれを棚から落として割ってしまったのだ。それはそれは大事である。ニーアはどれだけ大事なのかわかっているのか、飼い主であるリラに見つからないようにソファの後ろにその巨体を一生懸命に縮ませて隠している。猫らしく知らんぷりをすればよいものを賢いが故にこんな人間染みた行動をとるのだ。飼い主である彼女が彼を見つけられないなんてことはなく、ほどなくして捕獲された。
ふんわりしたクリーム色の毛並みで、アメジストのように美しい瞳の猫は、リラという女性に首根っこを掴まれて大人しくしている。掴まってしまってはしかたない。観念したようににゃあと小さく鳴いた。
彼女はため息をつく。
「再三言っただろう?ここでは遊ばないようにと」
ここ、といわれていた場所は工房のようだ。
天井からは乾燥させた薬草や花、香辛料等が吊るされている。壁には天井まである大きな棚が三つあり、多種多様な瓶が所狭しと並んでいる。それぞれにラベルが貼っており中身は粉や固形物、液体と様々なものがある。部屋の中央には作業テーブルがあり、その上には乱雑に物が置かれている。すり鉢、蒸留器、開きっぱなしの本達。
この部屋の主、魔法使いであるリラは調香師である。仕事道具が乱雑に置かれているテーブルの上は倒された瓶や、材料が更に無秩序を演出している。
どうやらこの猫、リラのいない間に勝手に入り込み、優雅に闊歩していたらしい。このでかい図体で。
どのくらいでかいかというと、成獣ライオンの雄くらいのでかさがある。そのでかさもびっくりだが、そのニーアを掴みあげているこのリラ。女性にしては筋肉質な体型だがここまでの力持ちは鍛えたからでは身に付かない。
この世界では魔法が使えるのは日常である。彼女は身体能力補助の付与を得意とする魔法使いだ。体の一部分に陣を書き、それに魔力を込める。それを利用してこの大きな悪戯坊主を鎮圧することを可能としているのだ。
別にいつも悪戯ばかりするわけではない。たまに、するのだ。小さい悪戯の場合は「こらっ」で済むのだが今回はそうはいかない。当人は、どうしたものかと忙しなく脳みそを働かせて、最悪の事態を回避する方法を探している。
棚の下のは割れた瓶があった。
中身を留める役割を果たすことは出来ないほどに砕けている。大事なものが入っていたようなのだが、ニーアが落としてしまったせいでそれは逃げ出してしまったのだ。
本当にどうしよう。
探索魔法を得意としない彼女には逃げたものを追うことは出来ない。リラはじとりとニーアを見る。
「当然、手伝ってくれるんだよね?ニーア」
彼は細く細く小さく鳴いた。
にゃぁ…と。
ソムニウム島は4つの国に分かれている。その中で最も職人気質が集まり、防御や付与魔法を得意とする面積の小さい国がここ、ラズワード。人口も他の3ヵ国よりも少なく、発展途上国である。華やかな国と比べて秩序や教養、魔法技術は劣りはするが、ここの職人達の作る物は、高値で取引されたりするほどの価値がある。魔法は派手さこそないが、確かな腕と技術がここにある。ラズワード産と言えば鑑定をせずとも効能と強度は保証されているという絶対的信頼をもっている。一代では築きあげることは出来ない。何世代にも渡り培ってきた地位と価値がこの国の特徴だ。
リラという女性はこの国で調香師をしている。世界に名を轟かせる程の魅惑の香りで国王も愛用する…という腕ではない。ただの調香師だ。香りは悪くはないが、どうも商売にむかない。自分の作った香水を市に卸しにはいくが、積極的に金銭を作る努力をしているわけではない。職業にはしているが趣味の範囲だ。趣味で作ったものがたまたま気に入られて数ヵ月に一回くらいの頻度で市に卸しにきている。市に行くのなんて材料の仕入れか、日用品の買い出しくらいだ。その時に旅行客、人口第二位の情熱の国アナールサングの行商人が目敏くリラが纏う香りを嗅ぎつけ、お気に召したという流れだ。決まった頻度で卸さない為、用意が出来たらニーアを遣いに出して待ち合わせと報酬の日時を決めてこの市で会う。その程度の利用頻度だ。
今、彼女は市場をうろうろしている。
いつもは連れ出さない大きな猫を連れて。魔法生物は別段珍しくはないが、ニーアの個体は珍しい。なんならこのでかさまで成長するのも更に珍しい。だから注目されている。ニーアとリラの回りだけ磁石の反発のように人が避けている。リラは気にせず探し物をする。工房のジャム瓶に入れていたものを。栄えている広場から徐々にレンガ作りの立派な建築のエリアへと景色が変わっていく。歩いている人は徐々に減っていく。
好都合だ。これならみつけやすい。
先程の人混みではニーアの鼻が効きづらい。何度も同じ場所を歩かされた。しょうがない。人も多いが匂いの情報量が多かったのだ。それでもここまで辿ってくれたのだからありがたい。問題が起こる前に回収しないと。
そんな矢先に、近くで男性の野太い悲鳴が聴こえた。
あぁ、待って。
もしかして、もしかしなくても見つけたのではないか。
リラが身軽にニーアの背中に飛び乗れば彼は駆け出した。人間が走るより断然速い。
町中はちょっとした騒ぎになっていた。座り込んでいる男性の横にある街灯は何かが勢いよくぶつかったようにひん曲がっている。他にも綺麗に整備されていたであろう石畳は重たい何かが堕ちてきたのか、窪んでおり石が所々砕けていた。その窪みは男性の手前にあった。恐怖に震える男性の目線の先には、女性が立っていた。真っ青な髪は腰まであり、真っ黒なワンピースは彼女の肌の色を際立たせていた。男性を睨み付ける瞳は氷のように冷たそうな青色。怒気を孕んでいる彼女は目を細めている。彼女が一歩歩き出せばそれに怯えるように男性は悲鳴をあげた。腰が抜けてしまったのか立ち上がれないようで無様に後ろに下がるだけしかできない。
女性は彼を凝視したまま歩き続ける。途中街灯があった。ぽきりと枝を折るように簡単に街灯を折ったかと思えば大振りにそれを投げようと勢いをつけているではないか。野次馬で集まっていた人達はことの異常さに悲鳴をあげて蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
男を一人置いて。
「待ってくれ!!わぁぁあぁやめてくれぇええええ!!」
彼女はなんの躊躇いもなく持っていた街灯を男性目掛けてぶん投げた。ブォンという凄まじい音に誰もが男性に突き刺さると直感した。
何かが目にも止まらぬ速さで男性目掛けて放たれた街灯の軌道を変えるため靴裏で蹴り飛ばした。それは建物の壁に思いきりぶち当たり、可愛らしい窓ガラスを粉々に割った。街灯は壁から落ちることはなくそのままめり込み街灯の先端のガラスだけがパラパラと落ちてきていた。
蹴り飛ばした勢いで上空に飛び上がってしまった彼女だが、何の苦もなく地面に着地した。足首まである長いワンピースのスカートがふわりと膨らんだ後、重力に従い足に纏わりつくように降りてくる。
男性は中々やってこない痛みに恐る恐る目を開ければ誰かがこちらに背を向けて立っているではないか。あの街灯は…と首を左右に振れば街灯は壁の一部になっていた。だが、棒の真ん中辺りが歪んでいる。何かが当たったのだろうか。この目の前の人が助けてくれたのか?彼は礼を言おうとそちらを見て目をひん剥いた。
後ろ姿でもわかる。男性を助けた人は女性で、更に言えばこの女性、先程街灯を投げてきた野蛮な女と瓜二つの容姿をしていた。彼女は振り返る。青い瞳に感情は宿っておらず淡々と安否を確認する抑揚のない声。
「お、お、お、おお前っ魔物か!?」
この国で「魔物」と言われれば討伐対象になってしまう。彼女は男性を見下ろしたまま、一拍置いてから言った。
「すまない、双子の姉が乱暴したようで」
男性が驚くのも無理はない。振り返った彼女も、街灯を投げてきた彼女もまるで鏡写しのように似ていたからだ。魔物の変化かと思ったが、なるほど。双子ならば似ているのに納得がいく。納得はしたが怖いことに越したことはない。男性は罵声の一つでも浴びせてやろうと口をパクパクさせたが、先に話し出したのは彼女の方だ。
「姉がこんなに怒るなんて、貴方何をしたの」
妹であろう女性の目は、鋭く光った。
こうなるちょっと前に、男性は明るいうちから飲んでいて千鳥足になるくらいには酒を楽しんでいたようだ。別に酒を飲むことを咎められたりはしない。彼の休日は今日だっただけのこと。そこにたまたまきた女性があまりのも好みだったために男性は声をかけたのだそうだ。どれだけ誘っても甘い言葉をかけても彼女はしかとをしてくる。
気にくわない。
男性は段々と腹が立ち、女性に言った。
「つまらない女だな」
そこから惨事が始まった。
「それだけだ!別に体に触れてないし、強引になにかをしてもいねぇ!」
女性はため息を吐いてから、自分によく似た女性に目線を向ける。話している間にも彼女は次の攻撃を仕掛けてこようとしている。
リラは手短に男性に伝えた。
「この人、失恋したばっかだから。地雷を踏んだのはあんただ。死にたくなかったら消えな」
言いきらないうちにリラは右足で地面を蹴り前方に倒れ込む勢いで走り出す。同時にあちらの女性も駆け出して右腕を振り上げリラへと打ち込む。大振りの予備動作で動きを予想したリラはその右腕を横にいなし、その勢いのまま放り投げれば女性は転倒しかける。後もう少しの所で体を翻し、地面に両手をついて体の衝突を回避した。一瞬のやり取りだった。だが、男性はそれをみて十分に理解した。ただの女性かと思った人は、とてつもなく強い女だったと。
互いにパンチをくりだしては避けられ、蹴りをくわえた攻防もなんなく見破られる。互いの実力は互角なのだろう。
次の出方を伺う。それは獲物を狙う肉食獣のような緊張感があった。
同時に地面を蹴りあげ、互いの顔面目掛けて腕を振り上げる。だがリラはそれをフェイントにし、左手で思いきり彼女の腹部を押し、そのままの勢いで後ろに押しきった。体制を崩した女性に更に回し蹴りをすれば横っ腹に入り、後方へ吹き飛ぶ。体が地面にぶつかるも勢いは止まらず三度跳ねてようやく体は地面に着地した。そのまま倒れてくれればいいものの、何事もなかったかのように起き上がる。
蹴り飛ばした方向が悪かった。女性は壁にめり込んでいた街灯を掴んでべりっと引き剥がした。その衝撃でレンガ造りの壁は支えを失ったように瓦解する。街灯があった場所には穴が空いてしまった。建物の持ち主は中にいて、ぽかんとした顔で外を見ることしか出来なかった。
肉弾戦で互角でやりあっていたが武器を持たれると部が悪い。何か武器になるものを探していたが、女性は街灯を棒のように扱いリラを殴り付けた。重さ、長さで扱いづらいはずのそれを軽い枝のように簡単に振り回す。だが質量はちゃんとある。そして重たいそれは彼女の力も加わりとんでもない威力になってリラの横腹に入った。咄嗟に腕でガードしても衝撃は受け止めきれず薙ぎ払われた。それでもリラは飛ばされている最中に体を捻り体制を立て直して綺麗に着地する。そのしなやかさは猫のようだ。女性はすでに次の手で攻撃をしかける。リラもその攻撃に備えて体を動かそうとしたが先程の衝撃で横腹に鈍痛が走る。一歩反応が遅れた彼女の頭上には棒が一本真上から振り下ろされている。
頭を割られる。
どう逃げようか、体より先に頭に判断を委ねてしまった。頭で考えて逃げるまでにはロスタイムが生まれる。リラはただその振り下ろされている棒の行方を待つことになってしまった。
その時だ。
後ろから誰かに襟首を掴まれて引っ張られる。予想だにしなかったそれに対応することが出来ずバランスを崩せば何か暖かいものに支えられる。人間か?
待って、棒がくる。
そう思った頃には、その棒は、視界の端から突然出てきた右腕によって受け止められていた。情報が多すぎて何から考えればいいかわからなくなったが、一番の目的はあの女を止めることだと思いだし走り出そうとする…のだが、腹部に何かが巻き付き前に進むことを邪魔された。
「《捕縛》」
低い声が頭上から降ってきた。これは魔法詠唱の簡略式だ。無意識に使う魔法と違い、高度で複雑な魔法を練り上げるとき、陣か詠唱で補助をする。それを更に簡略化されたものが今、頭上で唱えられた。
街灯を掴んでいた女性の足元から太い鎖が何本も這えてきて、まず女性の両手に巻き付き動きを封じる。街灯は手放され、主導権は背後の人間に渡された。彼は街灯を地面に落とし、自由になったその右手を空に翳し、遠隔で鎖を操る。
両足を拘束。そして最後に体に力が入らないよう海老のように体をそらせ両手両足を背後でくっつけて、無事捕獲された。一連の捕縛魔法は鮮やかで、腰を抜かして動けなかった男性は情けない声を発してその場から逃げようと這いつくばっている。
「町中で暴れてる人達がいると聞いて来てみれば…」
この場を治めた男性が左手の力を抜けば、リラは不服そうに彼を見上げる。
黒色のキャソックを来た神父のような出で立ちをしたぬくもりのあるミルクティー色の短髪の男性は、モノクルを直してリラを見た。困ったように眉を下げた顔はとてもじゃないがあの威力の街灯を受け止めるような人には見えなかった。
「ここでは話しづらいでしょう。協会へ来なさい」
彼は、鎖で縛り上げた女性に近寄り、よいしょと肩に担ぎあげて歩き出した。
リラはしばらく地面を見ている。なんとも機嫌が悪そうな顔だ。避難していたニーアは物影から出てきて男性の後についていく。中々歩き出さない主を振り返り、にゃあと鳴けば、男性がやれやれとため息をついて振り返る。
「いいんですよ?首に紐をつけて連行しても」
リラはようやく歩き出した。
その一行はそりゃもう目立った。
でかい猫、ぼろぼろの女性に、鎖で拘束された女性を担ぐ神父。目立ったが、この神父ここいらでは有名な男で、小さな子供からお年寄りまで知らない人はいなかった。
「先生、その人どうしたの?」
「はい、喧嘩をしてたので成敗しました」
「おやまぁ神父様。ついにシスターを実力行使でつれてきたんです?」
「ははは、そんな野蛮なことしませんよ。弟子の不祥事を回収したんです」
「お弟子さんってその別嬪さんかい?よくみりゃ神父様が担いでる子とそっくりだが」
「双子なんですって。私初めて知りました」
親しまれているようでこんな異常な光景でも男性はにこやかに答えていく。ようやく協会に辿り着けば、司祭が彼らを見て大きくため息をついた。
「すみません、司祭様。少し込み入った話をしたいので奥を借ります」
司祭は勝手にしなさい、と言って道を開けた。
途中ニーアは司祭の所でとまり、媚びるように頭を下げれば彼は顔を綻ばせて柔らかい毛を愛でた。
「こら、ニーア」
「今回ニーアは関係ないでしょう」
「関係ある」
「話を聞いてから判断しましょう。お入りなさい」
通されたそこは懺悔をする部屋に似た、リラにとって苦い思い出のある説教部屋であった。
神父は担いでいた女性を卸し、床に転がした。リラは何も言わず、その女性の横に正座をして座る。
先程までの柔らかい笑みを浮かべていた男性から笑顔が消え失せ無表情になる。リラと床に転がした女を見下ろす。
「双子とは、初知りです」
「…」
「双子にしては随分とリラに性質が似すぎていますね。そうですね、まるで貴方を二つに分けたような」
神父、オリヴィエの目は二人を見透かすように見つめている。オリヴィエに嘘は通じない。数百年も彼の弟子をしている彼女にはわかっていたが、理由が理由なだけに口を開きたくない。リラは往生際悪く、双子だと言う。
オリヴィエは、リラの側に屈み彼女の瞳を覗き込む。
「貴方、いつからそんな感情のない目をするようになったんです?それに比べてそこの女性はまるで理性がない。感情だけの生き物のようだ」
これは、全てわかっていて聞いている。リラにはもう真実を話すしか道はない。だが、それはリラのプライドに関わる。
「町で暴れてはいけない。それを止めようとしたことは称賛すべきことです。被害を最小限に出来たことは素晴らしいことです」
でた。口を中々開かないリラに対しての話術その1。
行動の動機を誉める。確かに、これを野放しにしていれば男性は間違いなく死んでいた。それを救ったと言う点では彼女は救世主だ。悪いことではない。
「ですが、そもそもこれが町にいる原因はなんですか」
そして真実を言わないといけない流れに持っていかれる。
リラは、ちょっとずつ事実を口にするしかなくなった。
「ニーアが、工房にきて、瓶をおとしたんです」
「猫なんて瓶を落とす生き物です。落とせる場所に置いた貴方に非があります」
「ニーアは賢いから、大丈夫だと思ってた」
「あぁわかります。賢いと思っていたからこそ、粗相をされると頭にきますね」
で。瓶の中身はなんだったんですか。
オリヴィエは、鼻先がつかんばかりの距離で瞳を覗き込む。その瞳は美しい赤色なのだが、今は瞳孔が開いていて恐ろしい。
「嘘偽りなく、吐きなさい。でないとそれをこの場で処分します」
それだけは本当にまずい。ついに観念したリラは、掠れた声で懺悔を始めた。
「瓶の中身は、わ…私の感情です」
「魔法使いたるもの、感情と創造力が魔法の源なのは理解していますか?」
「はい」
「賢い子です。なら、何故感情を抜き取ってあまつさえ瓶にいれたんです?さぞ素晴らしい瓶にいれたのでしょうね」
「ジャム瓶に、い、いれました」
部屋の温度がみるみる下がっていく。
この神父、魔法使いとして別格に素晴らしい人材なのにひとたび感情的になると無意識下でそれを魔法で出してしまう欠点がある。今まさに、怒り心頭で冷気を発生させている。リラの体は寒さと恐怖に震えている。
一際低い声で、はぁ?と言われた。
「禁忌をやらかして、それをジャム瓶に?どの脳細胞がそんな愚行をやろうとしたんですか?良い機会です。その細胞を抜き取ってさしあげましょうか」
頭を鷲掴みにされギリギリと締め付けられる。男性の握力で簡単に砕けてしまいそうなほど、リラの頭は小さい。
「すいませんでした」
「この魔法は犯罪なんですよ。たまたま双子で誤魔化しきれましたが、魔法感知能力の高い人に見つかれば悪用されかねません。言いましたよね」
「はい、言われました」
「記憶操作、感情剥離は終戦後は使われないものです。今一度その小さな脳みそに刻みなさい。その魔法は、今はもう使ってはいけないんです」
オリヴィエは怒りと同時に悲しそうに顔を歪ませる。
今は使われない禁忌となった魔法を使えるのは、何故か。
簡単なことだ。
二人は、数百年前の戦争時代を知っているし、生きてきたのだ。終戦後、彼らは別々に生活をしている。オリヴィエは協会に身を置くことで時代のルールを把握している。だが、リラは人里から離れてしまっているせいか、そういった危機意識がどこか欠如している。
「本当にごめんなさい」
今のこのリラには反省しているという声音をだしているに過ぎない。オリヴィエは、リラの頭を離し、右手を払うように振れば隣に寝ていた女性の拘束が取れた。彼女はもう人形のように静かだ。オリヴィエはそれに手を翳せばゆっくりと人形は透明になり、シャボン玉のような泡になり一つ一つリラに溶け込んでいく。最後の一つまで溶け込んだのを確認し、再びオリヴィエはリラを見つめる。
「次はないと思いなさい」
リラは作ったような顔ではなく心から反省したのか、もう一度謝った。オリヴィエは、リラの頭を撫でた。
昔と変わったところは、説教したらこうして頭を撫でるところだ。若い頃のオリヴィエはその後さらに体罰と精神的苦痛と、記憶操作で頭の中をぐちゃぐちゃにして自分で再構築させるというスパルタさがあった。一人前になってからはそれをしなくなった。それでもリラにはトラウマになったようで滅多に粗相はしなくなったのに。
「どうして感情なんて抜いたんです」
そこだ。今回の原因。そしてリラが一番言いたくない部分。こればかりはどうにかして黙っていたい。
リラはどもる。
「お師匠様。それって言わなきゃだめですか」
「予防です。またやってしまわないようにするのは基本です」
リラは、中々話し出さない。とても言いづらいことなのだろうか。ここ数年離れていたからか、彼女が今何を考えているのかわからない。無理矢理にでも覗いてもよかったのだが、それこそ今の時代に不要なことだ。
そういえば、あのリラは酷く怒っていたように思う。あれだけ攻撃的な彼女をあまり見かけたことがない。自分の感情に素直ではあるが、制御しきれないことはなかった。理性はしっかりとしてる。尚更、原因がわからない。
リラの言葉を待っていると、悔しそうに顔を歪め、怒りで眉間に皺が寄っていく。絞り出した声をようやく聞き取ったのは三回目だった。
「浮気されたんですっ!しかも結構良い女と!あんなに愛してるだとか言ってたくせにっ!」
信じらんない!!そう声を荒らげた彼女は相当悔しかったのか、年甲斐もなく涙をぼろぼろと溢していた。
「この人となら、幸せになれるんだろうなって…信じてたのにっ。なにが世界一の女だ、このもやし!!!!」
罵詈雑言が反響する。
オリヴィエはきょとんとしてしまった。あんなにも戦場では逞しく頼もしかった弟子が、たった一人の男にここまで感情を露出させるとは。そういえば、彼女はそういった話をしてこなかった。日常を過ごせるようになったのはここ数十年だ。知らない間に、彼女は恋愛を知ったのだろう。ちゃんと悪いところまで。
なんだか、その悩みに拍子ぬけした。だが、平和になった今だからこそこんなことでリラは感情的になれるようになったのだ。オリヴィエは神父らしく彼女の心の叫びを聞いて受け止めた。受け止めきれない暴言にはしっかりと叱咤し、彼女の気が済むまで付き合ってあげた。終いには、呪ってやるだの、復讐してやるだのと物騒なことを言い始める。
「言葉を慎みなさい。貴方ほどの魔法使いがそんなことをすれば大変なことになります」
「わかってるっ!だから切り離したのに!!」
彼女なりに考えて行ったようだ。もちろん、それでもだめなものはだめだ。
「辛かったからといって簡単に離してはいけませんよ。愛しいと感じるのも、憎いと感じるのもその心があるからです。良いんですよ、憎んでも。それだけ本気だということです」
「お師匠様…」
たくさん泣いたせいで目元は赤く腫れていた。涙を拭うこともせず、ぐちゃぐちゃなままオリヴィエを見上げる。初めてリラに出会った時もこんな顔をしていた。ふっと笑った彼は彼女の目元を服の裾で乱暴に拭う。
「痛い」
「さて、ここでウジウジしていてもしかたありません。ちょっとばかし美味しいものでも食べにいきますか」
にかっと笑ったオリヴィエのその顔は、戦時中に見た元気をくれるあの笑顔のままだった。なんだか久しぶりに見たその笑顔に心が暖かくなったリラはようやく立ち上がろうと片足を立てる。それを見ていた神父は彼女の手を引きぐっと持ち上げるとすっと立ち上がった彼女はよろめきもせずにしっかりと両足を地面につけた。
今もなお、身体能力は健在らしい。
「とびきり美味しいお酒がいい」
「聖職者相手に配慮が足りませんね」
「お師匠様、そういうの守る人なんですか」
守りませんよ。
そう言った彼は部屋の扉を開けて彼女を連れ出した。やけに明るく感じるのは、あの部屋が暗すぎたからだ。目を慣らしながら歩いていればニーアがすり寄ってきた。ふわふわの毛並みを撫でてやる。ようやく話が終わったといわんばかりに司祭が近寄ってきた。
「ご挨拶が遅れましたね、お久しぶりです」
「司祭様、お久しぶりです」
「司祭様、少しばかり出掛けてきます」
挨拶をしていた二人に構わずオリヴィエは颯爽と歩いてく。
「一応伺いますが、どこへ行くんですか?」
「ちょっとそこまで」
その言い方に慣れているのか、司祭は了解した。
くれぐれも立場を弁えるようにという言葉を背に受けて、オリヴィエはリラと共に外へ出てしまった。
ソムニウム島は、今は4ヵ国に分かれてはいるが今から数百年前は、大戦乱の時代で国の奪い合いをしていたと聞く。
統治された時に活躍されたという魔法使い、魔法戦士達がいた。協会に残っている門外不出の文献には古い写真が載っており、そこには今と容姿が変わらないオリヴィエとリラが映っていた。
昔の魔法使いは長生きだと聞いている。でもそれは何故かはわからない。
この島の魔法使いで100年以上姿を変えず生きている人間は聞いたことがない。知っているのは司祭様と…ごく僅かな人達だけであった。