第59話 包囲
五月下旬。アーガイル伯爵領、領都フレゼリシア。
領主家の居城であり、領地運営の中心であるフレゼリシア城の領主執務室で、領主代行ジャスミン・アーガイルは家令のエイダンより報告を受けていた。
「旧レスター公爵領南部からの領民移住につきましては、現在起こっている戦争の影響で多少遅れが出ており、現時点で移住を完了したのは三割程度となっております。移住作業そのものは大過なく行われ、目立った問題は起こっておりません。移住者用の家屋建設については、移住の遅れに伴って相対的に余裕のある進行状況となっております。家屋建設、そして城壁の拡張とも、移住済みの者たちも技術者や労働者として作業に参加しており、彼らの領内社会への融和を促す効果も期待通り発揮されております」
「報告ご苦労さま。概ね順調みたいで何よりね……出征中のアーガイル軍の方からは何か新しい連絡はあった?」
「丁度、本日の午前中に定期報告の伝令がまいりました。小山脈を越えて王領に到達し、王都トリエステに向けて進軍しているとのことです。第一王子派の抵抗もないため、戦闘が発生しないまま順調に行軍が行われており、アーガイル閣下におかれましてもお怪我などなく、お元気に過ごされていると」
「……そう、よかったわ」
安堵の笑みを浮かべ、ジャスミンは呟いた。
当初、ヴァロワール家の陣営と睨み合って牽制を成すだけの役割を果たすはずだったウィリアムたち別動隊は、戦いが予想外の展開を迎えたために、遠く王国中央部まで進軍することになってしまった。
オクタヴィアン・ヴァロワール前侯爵の率いる軍勢を打ち破った以上、この先ウィリアムたちがそう大きな戦闘を行うことになるとは思えない。が、それでも遠方で軍務に臨んでいる最愛の夫の安否は、やはり気になる。不意の事故などで怪我をしていないか、長い行軍や野営で体調を崩していないか心配してしまう。
定期的に届く軍の現状報告、そこに添えられるウィリアムの様子の報告は、ジャスミンが心の平静を保つ上でありがたいものだった。
「また、閣下より奥方様へのお手紙を、伝令が持ち帰りました。こちらでございます」
そう言ってエイダンが差し出したのは、アーガイル家の封蝋がなされた書簡。
愛するジャスミンへ、と記されたその筆跡は、確かにウィリアムのもの。
「私からの報告は以上となります……本日は奥方様に急ぎご確認いただくべき事項も特にございません。よろしければ、少し早いですがご政務を終了なされては? 執務机の片付けは私が行っておきます故」
「……ありがとう。そうさせてもらうわ」
老家令の気遣いに笑顔で感謝を伝え、ジャスミンは執務机から離れる。愛する人からの書簡を手に執務室を出て、城の主館の奥、私的な空間である居間へ向かう。
居間のソファに腰を下ろし、乳母やメイドたちが世話をしてくれていた愛娘キンバリーを隣に座らせたジャスミンは、封蝋を割って書簡を開く。
「ほら、キンバリー。お父さんからのお手紙よ」
「ほー?」
ジャスミンが書簡を見せると、キンバリーは小さく首を傾げながら、彼女にはまだ理解できない文面を不思議そうに眺める。幼い娘の様子にジャスミンはクスッと笑い、ウィリアムらしい几帳面そうな字で書かれた言葉を読む。
ウィリアムが出征してから、これが三通目の書簡。そこには戦況の報告と共に、自身が元気であること、そしてジャスミンとキンバリーに会いたい旨が綴られていた。内容の半分近くが、二人を愛している、早く城に帰って二人とのんびり過ごしたい、という思いの吐露で占められていた。
何とも彼らしい書簡の内容に、ジャスミンはこらえきれず笑いを零し続ける。母が笑っているからか、キンバリーも楽しそうに笑う。
笑いながら、不意にジャスミンの目から涙が一筋零れた。
この幸せな空間に、彼もいてほしい。早く彼に会いたい。無事に帰ってきてほしい。
書簡をテーブルに置いたジャスミンは、キンバリーを膝の上に乗せ、そして優しく抱き締める。
・・・・・・
小山脈の回廊を越えて王領に侵入したアルメリア家の陣営の別動隊は、そのまま東進を続け、ついに王都トリエステに到達した。
「結局、最後まで敵の抵抗を受けることもありませんでしたねぇ」
「無理もない。ヴァロワール家の陣営が寝返ることなど、さすがに第一王子派もまったく想定していなかっただろうからな」
野営準備を進める別動隊の司令部天幕で、ウィリアムはフェルナンド・アルメリアと言葉を交わした。
回廊の王領側はヴァロワール侯爵領軍が制圧してくれたので、ウィリアムたちはただ素通りすることができた。そして王領に踏み入って以降は、偵察の騎士らしき姿を遠くに見かけた程度で、部隊と呼べる規模の敵と遭遇することはなかった。何らの抵抗を受けることなく、最終目的地たる王都へ到達することができた。
「東には第一王女派の軍勢、そして北には我らが陣営の本隊か……いやはや、第一王子派も万事休すだな」
「妹を捕えられ、三方から攻められて王都に追い詰められ、この上でキルツェ家の陣営からもまとまった兵力を送り込まれるのですから、ジュリアーノ第一王子にはさすがに同情しますね」
同じく司令部天幕にいるルトガー・バルネフェルト伯爵が言うと、それにトレイシー・ハイアット子爵が返す。
第一王子派の主力と行動を共にしていたヴァロワール家の陣営の援軍は、第一王女派の軍勢と事前に内通した上で、決戦の最中に寝返って動いたという。結果、正面と側面から攻勢を受けた第一王子派――レグリア軍は壊走。近衛隊に守られたジュリアーノは辛くも逃げ延びたものの、徴集兵は散り散りになり、王国軍も大損害を被った。王都に帰還を果たしたのは、ジュリアーノと少数の近衛隊、そして一千程度の王国軍将兵のみだと言われている。
主力の敗北と前後して、王都トリエステの北の都市で籠城戦をくり広げていた第一王子派の軍勢も、王都まで退却。その際にアルメリア家の陣営の本隊から追撃を受け、諸貴族軍や徴集兵が逃走し、王都に戻ったのは王国軍のみだったという。
また、南に置かれていた少数の王国軍部隊もキルツェ家の陣営の軍勢がやってくる前に王都まで下がり、現在王都に立て籠もっている王国軍と近衛隊――すなわちジュリアーノの擁する最後の正規軍戦力は、四千に届かない程度と推測されている。
キルツェ家の陣営が第一王女派に与することを表明して参戦してきたのは、ウィリアムたちが小山脈を越える直前のこと。おそらくは、ヴァロワール家の陣営が第一王女派に鞍替えしてアルメリア家の陣営と講和したという情報を掴み、もはや第一王女派の勝利が確実と見て勝ち馬に乗りにきたものと思われた。
端から見ればあまりにも都合の良い振る舞いだが、他の各勢力――第一王女派やヴァロワール家の陣営やアルメリア家の陣営から見れば、特に文句はない。キルツェ家の陣営は大陸南部に対する壁であり、独立してそこに存在しているだけで、国教紛争の続いている南の隣国との緩衝国として機能してくれる。
南に強敵を抱えている以上、戦後にキルツェ王国がレグリア王国やヴァロワール王国に牙を剥いてくる可能性は極めて低い。そして、伝統的に不和を抱えるアルメリア王国とは、間にレグリア王国やヴァロワール王国を挟んでいるおかげで直接国境を接して睨み合う心配もない。
そのため、キルツェ派の合流は他の三勢力からも受け入れられ、現在に至る。そう遠くないうちにキルツェ家の陣営からの援軍も王都に到達し、そうなれば第一王女派とその味方の各陣営は、総勢四万を超える兵力で王都トリエステを完全包囲することになる。
人口は十万を超えるトリエステだが、そのうち戦いに耐えうる成人男性を根こそぎ動員しても三万程度。現実にはそれほどの大動員は難しく、仮に何千もの民を強制的に徴集しても、王都民たちは追い詰められた第一王子のためにそこまで必死で戦おうとはしない。
そして、昨年から軍事行動の拠点となっている王都の食料備蓄は相当に減り、都市外からの食料輸入が途絶えれば籠城できるのはせいぜい数か月。実際は、食料が尽きる前に第一王子派が降伏して城門を開く可能性が高い。ジュリアーノが籠城を続けようとしても、宮廷貴族や王国軍人たちがもはや彼に従わない。
あまり包囲戦が長引くようなら、捕らえている第二王女リッカルダに降伏と開門を訴えさせるという手段などもある。
どう転んでも、ジュリアーノが敗北するのは確実と言える状況だった。
「とりあえず、本隊に送った伝令が帰ってくるまではここで待ちですねぇ」
「そうだな。どちらにせよ、今日はここで野営だ」
この別動隊だけでも七千以上の兵力。本隊や、第一王女派とヴァロワール家の陣営の軍勢は一万以上の兵力を擁する。これほどの規模の軍勢ともなれば、連係して移動するだけでも大仕事。どの軍がどう動いてトリエステの包囲を固めるのか、話し合いは必須。
もしかするとロゼッタ・レグリア第一王女とミランダ・アルメリア侯爵との間では既に話し合いがなされているのかもしれないが、ともかくアルメリア家の陣営の、あくまで別動隊に過ぎないウィリアムたちとしては、ミランダに今後の指示を仰がなければこれ以上は下手に動けない。
既に夕刻も近い以上、動くとしてもそれは明日以降の話。大軍の行動にはとにかく時間と手間がかかる。
ようやく戦いも終盤。早く愛する妻子のもとへ帰りたいと、ウィリアムは内心でぼやく。




