第3話 領主の帰還【王国地図再掲】
レグリア王家の直轄領たる王領は、エルシオン大陸東部の中央東側に位置する。王家の旧来からの領地に加えて、前回の動乱の時代に征服した隣国の領地――レグリア王国による統一前、大陸東部には六つの小国が存在していたが、そのうち一国の王家はレグリア家に敗北し、没落した――も一部が王領に含まれている。
面積でも人口でも他の四家に勝る王領とは小山脈を間に挟み、大陸東部の西側にあるのが四大貴族領のひとつ、ヴァロワール侯爵領。この二領の南、大陸南部との境界の辺りに位置するのがキルツェ辺境伯領。
そして、大陸東部の北側に位置するのが、レスター公爵領とアルメリア侯爵領。
これらの大領の間や周囲には、いくつもの中小貴族領が存在する。アーガイル伯爵領もそのひとつだった。
王国の北西部、レスター公爵領とアルメリア侯爵領に挟まれる位置にあるアーガイル伯爵領の人口はおよそ十二万。そのうち二万が暮らす領都フレゼリシアは、大陸東部と西部を隔てる大山脈の麓に位置している。名を同じくするフレゼリシア鉄鉱山からほど近くにある都市として、繁栄を遂げてきた。
都市の北側に位置し、やはり名を同じくするフレゼリシア城へとウィリアムが帰還したのは、国葬から数週間後、東部統一暦九八四年の夏のことだった。
城壁に囲まれた都市内で、さらに城壁に囲まれた敷地の中央に位置する三階建ての主館。その正面で停まった馬車から下りたウィリアムは、領地運営の中核を担う家臣たちや、主だった使用人たちの出迎えを受ける。数十人が整列し、自分に向けて一斉に礼をする光景を、この城と領地の主であるウィリアムは当然のものとして受け取る。
彼ら家臣や使用人の列を従えるように先頭に立っていたのは、ウィリアムが留守の間の領主代行を務めていた妻、ジャスミンだった。
彼女は長く伸ばした艶のある黒髪を揺らし、猫のような目を細め、血色の良い唇をニッと広げ、満面の笑みで両手を広げながら夫に歩み寄る。
「おかえりなさぁい、私のウィリアム」
「ただいまぁジャスミン……はぁ、やっと帰ってこれた」
我が家にたどり着き、愛する妻に抱き締められて安堵を覚えながら、ウィリアムは息を吐く。男性にしては背の低いウィリアムは、女性にしては背の高いジャスミンの胸に頭を抱かれるような体勢になる。
二人が公然と触れ合うのはいつものことなので、後ろに並ぶ家臣や使用人たちは何も言わない。
二人が結婚したのは今から二年前、共に成人して間もなくのこと。とはいえ、このフレゼリシア城で一緒に暮らしている期間そのものは、実に八年に及ぶ。
ジャスミンの実家は、王都のトリエステ城で官僚として働く宮廷貴族、モンテヴェルディ子爵家だった。アーガイル伯爵領に来る前、当時十二歳だった彼女には、同じく宮廷貴族のとある伯爵家より、婚約の話が持ちかけられていた。
他部門の上級官僚であるモンテヴェルディ家と接近し、自家の影響力を高めることを目的としたのであろう、政略婚約の誘い。とはいえ、その相手――宮廷伯の嫡男は、ジャスミンとはかなりの歳の差があった。それこそ、他人が聞いたら眉を顰めるほどの。だからこそ相手側もまずは内々の提案をしたのだろうが、ジャスミンの父――モンテヴェルディ子爵は当然ながら難色を示した。
しかし、相手側の家長である宮廷伯は、さして重要な部門ではないとはいえ、国王より大臣職を賜っている立場。両家の力の差は明白で、宮廷内の派閥争いにおいて中立派であるモンテヴェルディ家にはこれといった後ろ盾もおらず、子爵が断りきるのはなかなかに難しかった。
そこへ割り込むかたちで、しかし正式なものとしては最初に縁談を持ちかけたのが、アーガイル伯爵家だった。当時のアーガイル伯爵――つまりウィリアムの父は、自身の嫡男とジャスミンの婚約をモンテヴェルディ家に提案した。
宮廷貴族に強力な伝手を作り、王国中央の情報収集能力を高めたいアーガイル伯爵。あまりにも歳の差の大きい婚約話から娘を逃がしたいジャスミンの父。両者の利害は一致した。また、モンテヴェルディ家は先代の作った借金のせいで経済的に苦しかったため、経済力で言えば宮廷貴族に遥かに勝る領主貴族、それも裕福なことで知られるアーガイル家の援助を受けられることは非常に都合が良かった。そしてアーガイル家としては、王子王女たちの派閥のどちらにも属さない中立派のモンテヴェルディ家を姻戚に選ぶことで、王国中央の派閥争いに下手に首を突っ込まずに済む点でやはり非常に都合が良かった。
加えて言えば、ウィリアムとジャスミンは同い年であり、その点でも縁談としては至極真っ当なものだった。
即座に縁談は成立し、ウィリアムとジャスミンは婚約者となった。さらに、モンテヴェルディ子爵は件の宮廷伯家からジャスミンを遠ざけ、娘には政治的なしがらみの少ない地で平穏に育ってほしいと考えたため、縁談が成立して間もなく、ジャスミンはフレゼリシア城に居を移した。
以降、双方の家も、ウィリアムたち婚約者同士も、良好な関係を築いてきた。
アーガイル家は王国中央の最新の情勢を、いち早く詳細に知ることができるようになった。そしてモンテヴェルディ家は、令嬢を穏やかな環境に送り出すことが叶い、アーガイル家からの経済的援助によって苦境からも救われた。件の宮廷伯家はジャスミンにそこまで強い執着はなかったようで、王国北西部の有力貴族家であるアーガイル家の親類となったモンテヴェルディ家に、下手な嫌がらせなどはしてこなかった。
ジャスミンは定期的に家族とも会っていたので、あまり故郷を恋しがることもなく、アーガイル家に馴染んだ。複雑な宮廷政治の世界から遠く離れたことは本人にとって幸いだったようで、当初はあまり笑わない子供だったのが、次第に笑顔を見せるようになった。
ウィリアムとジャスミンは、幸い性格面の相性も良かった。年上のアイリーンやギルバートを遊び相手として育った一人っ子のウィリアムにとって、同い年のジャスミンが城に来てくれたことは喜ばしく、二人はすぐに仲良くなり、四六時中一緒に過ごしながら育った。
少年少女から大人へと成長するにつれて、二人の親愛は情愛へと育ち、成人する頃には互いに相手のいない人生など想像もできないと考えるほど親密になった。
十八歳で成人すると、即座に結婚。不幸にもその数か月後にウィリアムの父が肺炎で、さらに翌年にはジャスミンの父が熱病で世を去ったが、二人はそれぞれ父親に、少なくとも無事に結婚を果たした姿を見せることは叶った。
縁談を成立させた当主から代替わりした現在も、両家は何ら変わることなく協力関係にある。ウィリアムとジャスミンは時に周囲が呆れるほど仲の良い夫婦として知られ、貴族社会では「頼りない当代アーガイル伯爵と美しく優雅な夫人では釣り合わない」などという陰口が囁かれることも少なくない。
「領主代行ありがとうねぇ。大変なことはなかった?」
「全然平気よ。この平和な領内で事件なんて起こらないし、徴税作業は家臣の皆がしっかり実務を担ってくれたもの。仕事よりも、愛するウィリアムに会えないことの方が辛かったわ……あなたの方は大変だったみたいね? 顔がすごく疲れてるわ」
そう言って、ジャスミンはウィリアムの頬を両手で挟み、ウィリアムの顔を間近で見つめる。
「大変だったよぉ。国葬の場は緊張感があるっていうか、もはやちょっと殺気立ってたし。国葬の直後ともなれば気楽に王都観光もできないから、向こうでろくに気分転換もできないまま帰路はまた馬車に揺られるし……楽しいことなんて何もなくて、ただ疲れるばっかりだったよ」
「そうなのね、何て可哀想なウィリアム……私が癒してあげるから、ゆっくり休みましょうね」
「うん、もうへとへと。これから一週間くらいのんびりしたいなぁ」
「閣下、そうはまいりません」
ウィリアムの呟きに答えながら歩み寄るのは、行政を統括する家令で、アイリーンの父でもあるエイダンだった。威厳ある老齢の家令の傍らには、領内の軍事を統括する領軍隊長ロベルトも並んでいる。
「長旅でお疲れのことと存じます故、せめて今日明日はどうぞゆっくりとお休みください。ですが明後日以降は、アーガイル家当主としてのお務めにお戻りいただきます。領主代行のジャスミン様ではお代わりになれなかった政務が溜まっておりますし、今後に向けて話し合い、対策を講じるべきことも多くございます」
「……はぁい。分かってるよぉ。冗談だよぉ」
穏やかに、しかし断固とした態度で言う生真面目な老家令に、ウィリアムは半ば嘆くような情けない声で答える。さすがにこの情勢の中、領地を一か月半も空けた上に、さらに一週間も休めると本気で思っていたわけではない。あくまで願望を口にしただけだった。
「ははは、ご当主ともなると大変ですなぁ。若様と呼ばれながら暮らしていた頃がお懐かしいのでは?」
齢五十に近づいてもまったく衰えていない、いかにも軍人らしい筋骨隆々の身体を揺らして笑いながら、領軍隊長ロベルトが言う。
ウィリアムが家督を継いでまだ二年。平和な領地の、今よりもよほど気楽な嫡男だった日々は、まだまだ記憶に新しい。
「そりゃあ懐かしいし、戻れるなら戻りたいけどぉ……仕方ないよ。もう僕が当主になっちゃったんだから」
ため息交じりに言い、ジャスミンに寄り添われながらとぼとぼと主館に入るウィリアムの背に、ロベルトは、そしてエイダンも、優しい眼差しを向けていた。
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