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ウィリアム・アーガイルの憂心 ~脇役貴族は生き残りたい~  作者: エノキスルメ
第一章 偉大な王国、崩壊間違いなし

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第36話 決着

 会戦に敗北した後、クリフォード・レスター公爵は生き残った自陣営の将兵を引き連れ、本格的な逃走を開始した。それを、敵の軍勢は容赦なく追撃してきた。

 千単位の軍勢による退却と、その追撃。それは必ずしも激しい戦闘を伴うものとはならないが、しかしそこには確かな緊張感が漂う。少しでももたつけば敵に追いつかれかねない状況の中で、クリフォードたちは気を抜くことを許されない逃避行に臨んだ。

 ゆっくり眠ることもできず、温かい食事をとることもままならず、心身を疲弊させる過酷な行軍を余儀なくされながら。一週間近くに及ぶ逃避行をクリフォードは成し遂げ、レスター公爵領の中央よりやや東側、第二集結地点と定めていた古城にたどり着いた。

 ようやくまともな食事と睡眠をとり、その翌日の午後。アルメリア家の陣営の軍勢が、明日にもこの第二集結地点を襲撃できる距離まで迫り、そこに野営地の設置を開始したという報告が、クリフォードのもとに届けられた。


「現時点で集結している兵力は、レスター軍がおよそ四千。その他の各貴族家の軍がおよそ一千。合計で五千ほどとなっております」

「……そうか。結局、それだけしか集まらなかったか」


 敵の接近を受け、クリフォードは第二集結地点に辿り着いた兵力について、最新の状況を参謀の領軍隊長に尋ねた。隊長の返答を聞き、浮かべたのは穏やかな微苦笑だった。

 クリフォードと前後してこの集結地点に到着したのは、レスター軍の生き残りと、政治的・血縁的にレスター家と近しい貴族家の軍だけだった。その他の貴族たちはレスター家を見限り、残存兵力を連れて自領に帰ってしまったものと思われる。

 分かっている。全力を尽くした会戦で無様に大敗を喫した自分に、なおも付き従う貴族などそうそういないことは。


 集まった兵力の内容を見ると、特に徴集兵が随分と減っている。明らかに、戦場で死傷したと思われる人数以上に減っている。単にはぐれただけの者もいるだろうが、故郷に逃げ帰ってしまった者もおそらく多い。この集結地点にいる者たちも、様子を見るに大半は、戦う意思があって留まっているわけではない。周囲に流されて逃げた末、比較的多くの友軍がいるこの場所にただ何となく寄り集まっているだけ。

 結果として、クリフォードの手元に残っている将兵は五千のみ。後方に残っていたレスター公爵領軍の一部部隊を、領内東部から急ぎ呼び寄せた上でもこの数。野営地に漂う空気は重く、将兵たちの士気は落ちこんでいる。大敗の後では無理もあるまい。


 対するアルメリア家の陣営は、斥候の報告によれば追撃に臨んでいる兵力だけでもこちらの二倍以上に及ぶ。勝利の余勢を駆り、士気は未だ高いという。

 第二集結地点と定めたこの古城はあくまでも目印であり、収容できる兵力は千人に満たない。食料も乏しく、ここで籠城戦などはできない。かといってまた会戦に臨んでも、逆転勝利の可能性は極めて低い。将兵を無駄に死なせて終わるのはほぼ間違いない。

 諦めずに最後まで足掻くべきか。それとも、レスター家と領地領民、未だ付き従ってくれる少数の貴族たちのため、現状で選び得る最もましな敗北をここで選ぶべきか。


「閣下、お話し合い中に失礼いたします」


 司令部として使っている一室に重苦しい空気が漂う中、一人顔を伏せて思案していたクリフォードへ、新たに声をかける者がいた。戦場においてクリフォードの身の回りの世話を任せている、傍仕えの家臣の一人だった。


「どうした?」

「……軍馬クローイのことで、少々お話が」


 傍仕えの言葉にクリフォードはしばし沈黙し、そして立ち上がる。


・・・・・・


 亡き妻の忘れ形見であるクローイは、ここまでの過酷な逃避行の中で衰弱し、さらには足を負傷した。行軍中はそのような素振りも見せなかったにもかかわらず、第二集結地点に辿り着いてクリフォードを下ろした途端に倒れた。随行している厩番が調べたところ、足の一本の骨にひびが入っている様子だという話だった。

 クリフォードが傍仕えと共に古城の厩舎を訪れると、ここへ来るまでに受けた報告通り、クローイの容体は昨日と比べて明らかに悪化していた。白い毛並みの美しい愛馬は、苦しげに息をしながら、しかし頭を動かしてクリフォードの方を向いた。


「このまま横になっていては、体力が回復して足が治るよりも早く内臓が悪くなり、苦しみの中で最期を迎えることになるでしょう。力及ばず誠に申し訳ございませんが……」

「いや、いい。よく面倒を見てくれた……最期は自分で看取る。クローイと二人きりにしてくれ」


 クリフォードは厩番に答え、彼から小瓶を受け取り、クローイの頭の横にしゃがみ込む。厩番と傍仕えは一礼し、厩舎を去る。


「……クローイ。私と共に、クリスティアナのもとに行くか」


 愛馬の顔を優しく撫でてやりながら、クリフォードは語りかける。

 妻と共に歩んだ人生は幸福だった。満ち足りていた。自分たちは二人支え合いながら、ひとつの時代を一緒に築き上げた。

 妻は世を去り、妻が遺してくれた愛馬も、これから逝く。この上で自分だけが命にしがみつき、何になると言うのだろうか。

 自分たちの時代は終わったのだ。きっと、亡き妻が天国からそう告げている。

 自分たちの時代が終わっても、世界は続き、妻との愛の結晶である子供たちの人生は続く。であれば、これから自分の時代を築く子供たちのためにこそ、残された時間と力を使うべきだ。


「お前は先に逝き、クリスティアナに伝えてくれ。私ももうすぐそちらへ向かうと……大丈夫だ。痛みは全くない」


 クリフォードはそう語りながら、厩番から受け取った小瓶の蓋を開ける。それをクローイの口元に近づけると、彼女はいつもクリフォードがくれる蜂蜜だと思ったのか、自ら進んで小瓶から垂れる薬を舐めた。

 それから間もなく、クローイの荒い呼吸が静かになる。強力な睡眠薬で眠りに落ちたクローイの前脚の間、心臓のある位置に、クリフォードは懐から抜いた短剣を刺す。

 クローイの身体が一度小さく震え、そして永遠に動かなくなった。


「……」


 不思議と、涙は出なかった。安らぎが心の内を満たした。

 心地よい安らぎにしばらく浸った後、クリフォードは立ち上がる。最後の仕事に臨むために。


・・・・・・


 アルメリア家の陣営は、負傷者や捕虜の管理、補給線の警備を担う兵力を後方に残し、総勢一万二千ほどの軍勢をもって追撃を続けた。

 逃走するクリフォード・レスター公爵たちを追い、東進。一週間近い追走劇の末、再集結した敵軍の残存兵力、総勢およそ五千に追いついた。

 心身ともに疲弊した将兵ばかりの敵軍。規模はこちらの半数以下。後は撃滅するばかりとなったこの状況で――敵の総大将クリフォード・レスター公爵より、敗北を認めてアルメリア家に降伏する意思がある旨が伝えられた。


「……名家としての権勢は捨て、己の命も捨て、ただ家の存続と一族郎党の安全を優先するか。レスター卿も随分と思いきった決断をしたものだな」


 陣営の司令部天幕。アルメリア家の側近たちに囲まれながら使者より届けられた書簡を開き、クリフォードからの提案を確認したミランダは、少しの驚きに片眉を上げながら呟く。


 降伏の証としてクリフォードが提示してきたのは、レスター公爵領の南側半分。レスター公爵領の都市や村落は南に偏重しているため、面積の上では半分でも、人口で言えばおよそ四分の三、経済力で言えば八割以上をアルメリア家に差し出すこととなる。権勢の土台となる領地をこれだけ手放せば、レスター家はもはや動乱の主役を担う大貴族家ではなくなる。

 そして、クリフォードは自らの首も差し出すと言ってきた。これまでの因縁についてレスター家の非を全面的に認め、当主として自らの命をもって責任を取る意思があることを示してきた。

 領地の南側半分と自らの命。それに加えて、アルメリア家に対する今後の臣従も、降伏に際して誓うと書簡には記されている。

 それらと引き換えにクリフォードがミランダに求めたのは、レスター家の降伏と謝罪をアルメリア家として受け入れ、クリフォード以外のレスター家一族や家臣たちの身の安全を保障すること。領主貴族家としてのレスター家の存続を認めること。そして、この二点を他の貴族たちに向けて公式に宣言すること。


 これら書簡に記された内容をもとに、ミランダは思案する。

 クリフォードの示した降伏条件は、アルメリア家に大幅に有利な内容。降伏する側からの提案としては破格と言っていい。レスター家の没落を当主自ら受け入れ、さらには己の死をもって謝罪するというのは、おそらく彼にとってこれ以上の譲歩があり得ない最大限だろう。

 それほどまでの条件を示して降伏しようとするのは、一族と家臣たちを確実に生かし、レスター家を確実に存続させるためか。クリフォードは己の差し出し得る全てを差し出す代わりに、何が何でも守りたいものを守ろうとしている。


 そしてミランダとしては、クリフォードの示した降伏条件を十分に受け入れられる。

 レスター公爵領の南側半分。得られる戦果としては十分以上。大規模な戦争で勝利を飾ったことへの対価として事足りる。

 それに加えてレスター家当主の首が差し出されれば、この大陸東部の誰もが、アルメリア家をこそ長年の対立の勝者と見なすだろう。大貴族家の当主の首ともなれば、謝罪の証として重くないはずがない。これだけの対価を示されることで、アルメリア家は初めてレスター家を許し、これまでの因縁を水に流し、レスター家の存続を認めることができる。周囲から弱腰で甘いと思われることなく、そのように公言することができる。

 ミランダは名実ともに勝利を得ることができ、一方のクリフォードは、アルメリア家による公式な宣言という保証を得た上で守りたいものを守ることができる。


 もし、クリフォードの降伏を拒絶すれば。明日の戦いには勝てるだろうが、その後も戦いは長引き、時間も金もさらにかかり、将兵たちの血がさらに流れる。陣営の勢力圏から離れたレスター公爵領東側で戦い続ければ、負う損害はこれまでとは比較にならないだろう。

 そこまでしても、得られるのはレスター公爵領の残り半分と、レスター家の人間の命のみ。

 やや寒冷な上に、敵対的な部族への対応も必要なレスター公爵領北側などは、本音を言えば得たところで大した利益もなく、むしろ統治の手間がかかって面倒なばかり。そして、レスター公爵家の完全な滅亡というのはあまり現実的な目標とは言えず、達成したところで何か具体的な利益があるわけでもない。因縁の決着に足る謝罪の意思を示されている以上、それを蹴ってまでレスター家滅亡を目指しても、アルメリア家の自己満足以上のものにはならない。


 動乱の時代は、レスター家に勝利した後もまだ終わることはないだろう。ヴァロワール家やレグリア王家といった潜在的な敵を多方面に抱えている現状で、得る利益の少ない領地や自己満足のために疲弊している余裕は、現在のアルメリア家にはない。

 これ以上の継戦がアルメリア家にとっても不利となることは、おそらくクリフォードも理解している。レスター公爵領の南側半分と賠償金、自分の首とレスター家の臣従をやるから満足してくれと、泥沼の戦いに陥ってお互い不幸になるのは止めようと、彼はこちらに訴えている。


「……」


 ミランダは書簡の最後に記された几帳面そうな字での署名を眺めながら、これを書いたクリフォードの心情を思う。

 レグリア王家の主催する社交の場や式典などで何度か顔を合わせたので、彼のことはある程度知っている。挨拶と軽い雑談程度の言葉を交わしたこともある。レスター家とは根深い因縁を抱えているが、それはミランダたちの生まれる前に始まった話。クリフォード個人に恨みがあるわけではなく、むしろ彼は一人の人間としては、穏やかで親しみやすい人物なのだろうと思った。

 その彼が、先祖代々の領地の多くと、そして自らの命を引き換えとして、一族や家臣を守り、家名を保とうとしている。


 もし、あの会戦で敗北したのがアルメリア家の陣営で、クリフォードではなく自分が同じ立場に置かれていたら。最終的には彼と同じような条件を示して降伏交渉に臨むだろうが、しかし何の躊躇いや葛藤もなくこのような結論に達することができるとは思えない。

 彼の内心では、どのような戦いがくり広げられたのだろうか。彼が決断する上で、何が決め手となったのだろうか。

 彼は今、何を思っているのだろうか。


「……クリフォード・レスター公爵の覚悟や見事。彼の求めに応え、レスター家の降伏を受け入れる。まずは同志である貴族たちに伝えなければ。皆を集めてくれ」


 無言で長考した末に、ミランダはそう言った。

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