第33話 奮戦と観戦
トレイシー・ハイアット子爵が自ら率いるハイアット軍、総勢およそ一二〇〇は、中央主力の後衛左側に置かれて開戦を迎えた。
中央主力の前衛を担うアルメリア軍が敵の中央主力を突破したら、その後に続いて突撃し、敵陣の只中で暴れ回る。それがハイアット軍に与えられた役割。後衛にいるため未だ戦闘には直接参加せず、自分たちの出番を待っていた。
そこで状況が動いた。このままでは敵の中央突破が難しいのか、あるいは他に何か予想外の事態が起こったのか、トレイシーのいる位置からはよく分からないが、総大将ミランダ・アルメリア侯爵は第二案の実行を決意したらしかった。こちらの陣営の左翼を守るアーガイル軍が、偽装退却を行って敵右翼を戦場の北西側に釣り出し始めた。
この第二案が発動した場合、敵右翼の左側面と、ハイアット軍もいるこちらの中央主力の左側面とが、距離を空けて互いに曝されることになる。敵右翼としては予想外の状況となるはずで、おまけにあちらはアーガイル軍に対する追撃戦の最中。すぐにこちらの中央主力へ方向転換して側面攻撃を敢行することはできない。
この隙を突き、敵右翼の左側面を攻撃するのが、ハイアット軍に与えられたもう一つの役割だった。この役割を果たすため、ハイアット軍は初めから隊列左側に領軍などの精鋭を置いている。
アーガイル軍の動きと並行して、本陣からハイアット軍に対しても合図があった。
機を見て突撃せよ。総大将ミランダは、トレイシーにそう伝えていた。
「敵の左側面はがら空きだ! この好機を逃すな! ハイアット軍、総員突撃用意!」
トレイシーは命じながら、自身も剣を抜き、ハイアット軍の陣形の最前列左端に移動する。突撃の先頭を担うために。
ハイアット家は、宗主家たるレスター公爵家ではなくアルメリア侯爵家の陣営についた。その裏には、少しばかり複雑な政治的事情がある。
前回の動乱の時代に滅亡したポズウェル伯爵家。その領地は三分割され、動乱の中で目覚ましい活躍を見せたレスター家の譜代の家臣たちにそれぞれ与えられた。
人口三万の領地を賜ったハイアット家は、しかし間もなく、人口四万の領地を賜ったマスグレイヴ伯爵家と険悪な関係になった。動乱の時代にどちらが活躍したかで当主同士が揉めたことがきっかけだった。
一万の人口を擁する残りの一家は、マスグレイヴ家に肩入れ。ハイアット家とこの二家との確執は、代を重ねても和らぐことはなく、むしろ深まった。
領主家の確執は家臣たちの間にも伝わり、ハイアット家の家臣団や領軍も、マスグレイヴ家の家臣団や領軍とやはり対立した。政治的・経済的な衝突が止むことはなく、領境での睨み合いも頻発した。負傷者や、時には死者が出ることもあった。次第に繋がりの薄まっていくレスター家の仲裁も、あまり効果は発揮しなかった。
相手は二家で、総合的な領地規模でも上。対立は概ね常にハイアット家が劣勢だった。トレイシーも、家督を継いでから何度も悔しい思いをした。
そんな状況で、国王ヴィットーリオの崩御と王国の情勢悪化が発生。近隣の中小貴族たちと同じく、ハイアット家もレスター家とアルメリア家のどちらを選ぶか決断を迫られた。
ミランダ・アルメリア侯爵から提示された臣従の対価は、旧ポズウェル伯爵領の全域をハイアット家のものとし、伯爵位を与える、というもの。この話を聞いたトレイシーは、当代ハイアット子爵として考えた。
これは好機だ。憎きマスグレイヴ家を打倒し、かの家に苦汁を飲まされてきたハイアット家を躍進させるまたとない機会だ。
奇しくも、ハイアット家の家臣団は多くが代替わりした頃で、その平均年齢は若かった。未だ三十代前半のトレイシーと共に皆が活力に満ち、マスグレイヴ家に対する憎しみを生まれたときから抱いていた。
だからこそ、トレイシーと家臣たちは賭けに出ることを決めた。勝てば領地はおよそ三倍増。敗ければおそらく領主家は一族皆殺しで、家臣や軍人たちもろくな目に遭わない。それを覚悟で、アルメリア家の陣営につくことを決断した。
そして今、ハイアット軍はこの戦いの勝敗を左右する重要な役割を果たそうとしている。
「この突撃を成功させれば、栄光の未来が訪れる! 失敗すれば地獄が訪れる! 今こそ人生最大の奮起を成すべきときだ! 総員突撃! 突撃! 突撃ぃ!」
トレイシーは絶叫しながら馬を走らせる。見開いた目は瞳孔まで開き、息は異様に荒く、剣を握る手には過剰に力が籠る。
続く領軍の将兵およそ二百人も、トレイシーほどではないが皆一様に興奮している。これでレスター家の陣営が勝利してしまったら、宗主家を裏切ったハイアット家の家臣である自分たちも最悪処刑されてしまうという危機感があるからこそ。
そして領内からかき集められた徴集兵たちも、懸命に後に続く。自分たちが敗けたら敵軍はハイアット子爵領まで進軍し、領内を蹂躙し、暴行や掠奪の限りを尽くすだろうと聞かされている彼らは、家族や財産を守るために必死になっている。勝利してハイアット家の領地が増えれば、その恩恵を領民たちも受けられるようにするとトレイシーから約束されていることも、士気高揚に幾らか貢献している。
兵力一二〇〇のハイアット軍は、不気味なほどの戦意を纏いながら、敵右翼前衛の左側面へと突入していく。
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偽装退却するアーガイル軍に釣られて追撃し、隊列が乱れた敵右翼。その前衛左側面にハイアット軍が突撃する。何らの備えもしていなかった敵の横腹へ、苛烈な側面攻撃を敢行する。それに合わせてアーガイル軍も後退を止め、再び正面への攻勢を強める。
二方向からの攻撃に、ただでさえ隊列が乱れて烏合の衆と化していた敵右翼の前衛は、脆くも崩れ去った。およそ二〇〇〇の敵右翼前衛は、大半が連係も何もなく、無秩序に逃げ出した。
敵の中には周辺の兵士を集めて抵抗を試みる有能な士官も少数いたようだが、たかだか数十人規模の小部隊がいくつか作られたところで、千単位の兵力がぶつかり合う戦闘の大勢を変えるには至らない。そうした敵の動きは、せいぜい逃走の成功率を幾らか高める程度の効果しか発揮せず、全体としては敵右翼前衛は壊走していく。
「おお、ハイアット軍の戦いぶりは目を見張るものがありますね。先ほどのアーガイル軍に勝るとも劣らない獅子奮迅の活躍だ」
本陣からその様を眺めながら言ったのは、ルトガー・バルネフェルト伯爵。彼の連れてきたバルネフェルト軍三百は中央主力の後衛に置かれているが、彼自身はこうして本陣で観戦を決め込んでいる。
その立ち位置は、本陣の中でも中心近く。総大将ミランダ・アルメリア侯爵と会話できる程度の距離。本陣においてミランダはルトガーに何か仕事を任せているわけでもなく、戦闘中は特に用もないが、彼の家格や陣営への貢献を考慮してこの位置に置いている。
「確かに、ハイアット軍の働きは、アーガイル軍のものと並んで素晴らしい。それに、ハイアット卿とアーガイル卿も、それぞれ自軍の将兵たちを率いて自ら戦場の只中に立っている。称賛すべきことだな」
ミランダがルトガーに言葉をかけると、ともすれば彼への揶揄ともとれるその言葉に対し、しかしルトガーは気まずそうな顔をすることもない。逆に深く頷いて同意を示す。
「ええ、まったくです。危険を恐れず将兵たちを鼓舞しながら戦う彼らは、まさしく勇者と呼ばれるべきでしょう……何か役割があるわけでもないのに本陣に留まっている私には、恥ずかしながらとてもあのような勇気は出せません。もし私の為すべき貢献の形が違っていれば、私は閣下にとって無能な味方になっていたかと思います」
ルトガーの言葉を聞いて、ミランダは微苦笑を零す。
彼は戦場で最も安全な本陣に留まることを選んだが、それについて何か言い訳をするわけでもない。己が戦闘に不向きであることを認め、己の貢献の方法は戦闘ではないことを認め、そして勇敢に戦う者たちを素直に称賛している。そんなルトガーに対して、ミランダは少なくとも悪印象は抱いていない。
ミランダは、決して陣営の貴族たち個人に戦闘員としての働きを求めているのではない。何人かの貴族が戦闘の只中に身を置こうが、死の危険を避けて本陣に留まろうが、勝敗には関係ない。
貴族たちが自ら前に出て戦う勇気を持つのであればそれは良いことだが、勇気のない貴族が無理をして、あるいは無理を強いられて戦闘に臨んでも利はない。血だけは尊いが戦うつもりのない人間など、周囲からすれば足手まといの護衛対象にしかならない。むしろ前に出ない方が皆のためになる。
領地規模に見合った兵力の供出。政治的、経済的な協力。陣営の貴族たちがそうした妥当な貢献を示してくれるのであれば、ミランダはそれ以上を無理に求めはしない。
実際、ルトガーは今回、その立場にふさわしい貢献をしてくれている。バルネフェルト伯爵領の農業生産力を発揮し、アルメリア家が今回の戦争で消費する莫大な量の備蓄食料を戦後すぐに補填する契約を交わしてくれた。だからこそ、ミランダは溜め込んだ余力をレスター家との戦いに惜しみなく投じることができている。
「では、その勇者たちが勝利の起点を作り出す様を見届けるとしようか」
「はい閣下、よろこんで」
ミランダとルトガーが見守る中で、ハイアット軍とアーガイル軍は、敵右翼を押し崩していく。




