第2話 王国崩壊の序曲②
それからさほど時間もかからず、馬車は王都の貴族街の一角、アーガイル伯爵家の王都別邸に到着した。
領都の居城とは比べ物にならないほど小さいが、家格に見合う程度には大きく豪奢な屋敷の前で馬車が停止すると、ギルバートが扉を開いて先に下車し、扉を支える。
「はあぁ~疲れたぁ~」
「お帰りなさいませ、ウィリアム様」
息を吐きながら馬車を下りるウィリアムを、出迎えたのは一人の女性。ウィリアムの政務の補佐から身の回りの世話までを務める傍仕えの家臣だった。国葬の参列者たちは護衛一名までしか帯同できなかったため、今回彼女はこの王都別邸で留守を守っていた。
「ただいまぁアイリーン。きつかったよぉ~」
「お疲れさまでございました。ひとまずご休憩なさいますか?」
アイリーンと呼ばれた傍仕えは、情けない表情で訴えるウィリアムに微笑を返す。
「そうしようかなぁ。ずっと緊張してたから、とりあえずひと息つきたい……」
「では、お茶をお淹れしましょう」
「いつもより甘めにお願い。何かお菓子も欲しいなぁ」
「かしこまりました」
屋敷に入るウィリアムに付き従いながら、アイリーンは答える。
貴族の傍仕えは、ただの雑用係ではない。貴族に最も近しい位置で仕事をするため、側近の一人と見なされる。アイリーンは現在のアーガイル家家令の娘であり、将来的には父親の地位を継ぐ予定となっている。
年齢はウィリアムの六歳上、現在は二十六歳。ウィリアムにとっては、幼い頃から面倒を見てくれている姉のような存在だった。
・・・・・・
王都別邸の居間でソファに腰を下ろしたウィリアムは、話し相手としてアイリーンとギルバートも同席させ、お茶休憩をとる。
「まさかこんなに早く、僕が当主になって間もないうちに王国崩壊が始まるなんて。国王陛下も間が悪すぎるよ。何も今崩御しなくてもいいのにぃ……」
「まあ、王も人間ですから致し方ないでしょう……確かにひどく間が悪いとは思いますが」
もそもそと焼き菓子を頬張り、蜂蜜を入れたお茶を飲みながらウィリアムが呟くと、ギルバートは微苦笑しながら返す。隣ではアイリーンも同じような微苦笑を見せる。
元より、レグリア王国は不安定な統一国家だった。その原因は東部統一の背景にある。
かつて、大陸東部の勢力図はもっと細かく分かれ、十以上の名家がそれぞれの勢力圏を作っていた。しかし、統一と分裂をくり返す歴史の中で、次第に力がいくつかの家に集約されていった。その結果が、王家を含む五大名家を中心とした現在の勢力図だった。
今より六十余年前、レグリア家が新たに大陸東部の統一を果たしたとき、その力は他の四家と比べてもはや圧倒的ではなかった。かつての統一国家では、数が多いが故に一家ずつの勢力が小さい他の名家を、ずば抜けて勢力を拡大した王家が強く支配していたが、レグリア王国はそのような状態にはならなかった。
結果としてレグリア王国は、弱い王権を握る王家と影響力の強い四大貴族家、その他の中小貴族家の連合のような形で秩序を維持していた。王家の軍事力や経済力は他の四家と比べて圧倒的とはいかずとも、頭ひとつ程度抜けていることは確かであり、もうしばらくはこの秩序が保たれるとウィリアムは予想していた。おそらく他の貴族たちも、大半が同じ予想を持っていた。
が、東部統一から三代目の王にあたるヴィットーリオは、堅実な統治を成していた最中、突然に崩御してしまった。話によると、傍仕えが朝起こしに行ったところ、眠るように息を引き取っていたという。
おまけに彼は、よりにもよって後継者を正式に指名しないまま逝った。
王太子とされていた第一王子は、父ヴィットーリオとの確執や、自身肝入りの国営事業の失敗――その背景には対立派閥による工作もあったと噂されている――などが原因で、その地位を剥奪された。
それが今から僅か半年前のこと。以降、新たな王太子や王太女は未だ指名されていなかった。
第一王子が王太子の地位をあと半年以上保っていたら。せめて、国王がすぐに次の後継者を指名してくれていたら。先代からの指名という絶対的な大義名分を持つ王太子あるいは王太女へと迅速に王位継承がなされ、レグリア王国は未だ秩序を保っていただろう。万事問題なしで国内安泰とはいかずとも、王族たちが戦争上等で直ちに派閥争いを激化させるようなことにはならなかっただろう。そう思わずにはいられない。
第一王子は長子である自身が次期国王となることの正当性を周囲に語っており、そして対立派閥を率いる第一王女は、王太子の地位を剥奪された第一王子には王位を継承する資格がなく、彼を除いて最年長であり第一王妃の長子でもある自分こそが次期女王だと主張しているという。
どちらの言い分にも一定の大義名分がある。王子と王女たちの対立が、そのまま派閥の対立となり、王国の中央を二分する争いを巻き起こすことはもはや疑いようもない。
王家に隙ありと見たからこそ、四人の大貴族たちも独立に向けて乗り出す気満々。そうなれば始まるのは動乱の時代。王家が安定していれば未だ起こらなかった動乱が、突如として巻き起ころうとしているのは、ある意味ではヴィットーリオが間の悪い死を遂げたせいだと言える。
甘く温かい蜂蜜入り紅茶でお茶菓子を流し込んだウィリアムは、ふと壁にかけられた一枚の絵画に視線を向ける。
「……せめて、父上がまだ生きていてくれたらなぁ」
それは二年ほど前に死んだ父の肖像画だった。母は幼い頃に病死し、父も肺炎によって世を去ったために、ウィリアムは成人して早々に、十八歳の若さで家督を継いだ。
領地運営に関しては、アイリーンや彼女の父である家令、ギルバートや彼の叔父である領軍隊長など重臣たちが支えてくれるので、これまで何ら心配はなかった。ウィリアムの妻も、政務をいつも手伝ってくれる。現に今は、彼女が領主代行として留守番を務めてくれている。
平時はそれでいい。が、大陸東部が動乱の時代に突入するとなれば、領主としての責任はこれまでと比較にならないほど重大になる。自分の人生や命そのものはもちろん、家族と家臣たち、そして領民たちの運命が、自分の判断ひとつで激変してしまう。
二十歳のこの身に不意にのしかかるには、あまりにも重い。家督を継いでそれほど年月も経たないうちから臨む仕事としてはあまりにも大きい。領主として経験豊富な父にこの重責を負ってもらいながら、自分は世継ぎとしてあくまで補佐に回れれば、気持ちはよほど楽だったはず。
「大丈夫です。世継ぎとして先代様よりご指導を受けたウィリアム様なら、どんな難局もきっと乗り越えられます」
「ウィリアム様は努力家でいらっしゃいますし、幼い頃から才児として知られてきましたから。ウィリアム様に導いていただけるのであれば、私たちも安心できます」
「買いかぶりすぎだよぉ。僕はそんな大した人間じゃないって……はぁ、ちょっとお手洗い行ってくるね」
ギルバートとアイリーンの励ましに浮かれる素振りも見せず、ウィリアムはため息交じりに言うと、立ち上がって居間を出ていく。
主人が去って一時的に二人だけになった室内で、ギルバートとアイリーンは顔を見合わせる。
「相変わらずだな、ウィリアム様は」
「ふふふ、そうね。あの方らしいけれど」
小さく息を吐くギルバートに、アイリーンはクスッと笑いながら返す。
「動乱の時代か……たとえそうなるとしても、ウィリアム様が領主として俺たちの上に立ってくださるなら、何も恐れることはないと思うんだがな」
ギルバートが呟くように言うと、アイリーンは静かに首肯した。