第24話 ジャスミン・アーガイル
ジャスミンに寄り添われながら部屋を出たウィリアムは、待っていたアイリーンとギルバートも連れて、主館を出る。
城内で待機していたアーガイル伯爵領軍の出征部隊、総勢五百と共に城を発ち、沿道に並ぶ領都住民たちの盛大な見送りを受けながら、いよいよ領都の城門からも出る。
城壁外で待っていた任期制兵士や徴集兵の部隊、総勢二千。そして領軍騎士たちの従者や、補給を担う酒保商人の集団。非戦闘員も合わせれば三千を優に超えるアーガイル軍を率い、ウィリアムは街道を南へ進む。
エイダンやその他の家臣たち。留守を守る親衛隊騎士たちに囲まれながら、ジャスミンは夫の率いる軍勢が旅立っていく様を見守る。城門の上の見張り塔に移り、遠くなっていくアーガイル家の家紋旗を見つめる。新たな命の宿る腹部をそっと撫でながら、旗を見つめ続ける。あの旗の下に、愛する夫はいる。
「……」
子供の頃、ジャスミンは未来に希望を見ることができなかった。
両親や兄は優しく、モンテヴェルディ子爵家の家臣たちからも可愛がられた。しかし、そうした周囲の人々の庇護があったとしても、トリエステ城を中心とした宮廷社会はジャスミンにとって忌むべき場所だった。レグリア王家の躍進と大陸東部統一の過程で領地なしの爵位が気前よく振る舞われ、頭数が激増した宮廷貴族たちの巣は、恐ろしい顔を持つ場所だった。
平民である中級下級の官僚たちも巻き込みながらの、駆け引きと蹴落とし合い。友情は利害の裏返し。笑顔で握手を交わす裏で互いの腹を探り合い、政敵同士で悪評を広め合う。
もちろん領主貴族の世界にもそうした一面はあるのだろうが、地縁が存在せず純粋に政治のみを財産や武器とし、目まぐるしく状況が変わっていく宮廷には、そのような殺伐とした空気がより色濃く漂う。それだけが宮廷の全てではないが、宮廷には間違いなくそうした汚い一面がある。
宮廷貴族家の令嬢として、ジャスミンも幼い頃からその空気を吸った。歩き話せるようになったら社交の場に顔を出すようになり、他家の子女たちとの交流を余儀なくされた。王都では社交が多い。毎週のように、下手をすれば週に何度も、ジャスミンは父や母に連れられて茶会やら晩餐会やらに赴いた。
あのような世界で生きることが性に合っており、それを好み、得意とする者もいるのだろう。しかしジャスミンには合わなかった。ジャスミンはあの世界が嫌いだった。できることなら、あんな殺伐としてややこしくて息苦しくて気疲れする世界からは離れたかったが、出自がそれを許さないことは、十歳になる前に理解していた。
次子である自分は、いずれきっと他の宮廷貴族家に嫁ぎ、一生このような世界で生きる。そんな運命に諦念を抱きながら、だからジャスミンはあまり笑わず、あまり話さない子供だった。
あの宮廷伯家から内々に婚約の打診があったのは、十二歳の頃。相手である宮廷伯家嫡男のことはジャスミンも一応知っていた。彼と社交の場で顔を合わせ、話したこともあった。
ジャスミンの父よりも少し年下なだけの彼は、ジャスミン個人に下卑た欲求を寄せている様子ではなかった。むしろその逆。彼が興味があるのは「モンテヴェルディ子爵令嬢」であり、ジャスミン個人には何らの関心もない様子だった。
それはジャスミンにとって幸いであり、そして大きな不幸でもあった。
いずれ宮廷伯家の家督を継ぐあの嫡男は、宮廷社会の上位にはいるが主流には立っていない自家の権勢を、今より一段強めたいのだろう。そのために、別部門の上級官僚職を代々拝命しているモンテヴェルディ家との姻戚関係を欲しているのだろう。
だから、自分との婚約を――モンテヴェルディ家令嬢である自分の人生を買うことを狙っているのだろう。ジャスミンはそう理解した。そして悲観に暮れた。
健全とは言い難い婚約の打診に対し、父は精一杯に抵抗してくれた。先代の作った借金のせいで屋敷の維持費にも苦労するモンテヴェルディ家の窮状を、全て解決してやる。宮廷伯家のそんな提案にも、首を縦に振らずにいてくれた。
それでも、宮廷伯家のしつこい提案は強い圧力となり、父がいつまで耐えられるかは分からなかった。他に縁談を取りつけて逃げ道を確保しようにも、宮廷の派閥抗争では中立派な上に、借金のあるモンテヴェルディ家の令嬢を迎えたがる家はなかなか見つからなかった。
そこへ助けの手を差し伸べたのが、王国中央部における強力な情報収集手段を自前で持ちたがっていたアーガイル伯爵家。モンテヴェルディ家との利害が見事に一致するかたちで即座に縁談がまとまり、結果的にジャスミンはあの宮廷伯家から救われた。
家格と役職以外にはさしたる力もない宮廷伯家は、モンテヴェルディ家と姻戚関係を結ぶ手がなくなると、現金なことに今度は別の宮廷貴族家に接近を試み始めた。モンテヴェルディ家とアーガイル家は、それぞれ欲しいものを手に入れ、良好な関係を築いた。
そしてジャスミンの父は、元より宮廷社会を好いていなかった愛娘を、件の宮廷伯家とも引き続き交流せざるを得ない王都の社交界から離すため、早くからアーガイル伯爵領に移住させることを考えた。父の提案に、ジャスミンも迷いなく頷いた。家族のもとを離れるのは寂しかったが、絶対的に親兄弟を必要とするわけでもない十二歳。不愉快な宮廷社会を今すぐに去ることができる魅力の方が大きかった。
アーガイル伯爵領、領都フレゼリシアに居を移したジャスミンは、そこで初めて婚約者であるウィリアムと顔を合わせた。そしてこの日から、今までよりもずっと穏やかで平和な、ジャスミンの新たな人生が始まった。
貴族家に生まれれば、個人ではなく生家の一員として見られるのが当たり前。ジャスミンという一人の人間ではなく「モンテヴェルディ子爵令嬢」と見られるのが当たり前。そんな人生を送ってきたジャスミンに、しかしウィリアムは、違う接し方をしてくれた。
出会った頃は、ただ同い年の友人として。次第に、幼馴染として。ジャスミンの持つ家格や政治的価値の話を一度もすることなく、ウィリアムはただジャスミン個人に接し続けてくれた。自分自身も、ただ読書と領内社会を愛する一人の少年として、ジャスミンに向き合ってくれた。おそらくは、彼も貴族家嫡男としてジャスミンと同じような境遇を生きるからこそ。
ウィリアムと二人でいるときは、ジャスミンはただのジャスミンでいることができた。ただ自分自身でいられる時間を持つことは、貴族にとってこれ以上ないほどに贅沢なこと。謀略が渦巻き政争がくり広げられる宮廷社会を遠く離れ、ただのジャスミンとしてウィリアムと過ごす日々は穏やかだった。ここが自分の本当の居場所なのだと思った。ウィリアムの隣こそが。
だからこそ、ジャスミンはウィリアムのことが好きになった。臆病で、心配性で、物事を悲観しがちで、だけど努力を惜しまず庇護下の者たちを愛する。そんな等身大の彼を愛した。彼に欠点があるのなら、自分が支え補ってあげればいい。そう思いながら、友人として、次第に幼馴染として、そして恋人として伴侶として、彼に寄り添ってきた。
彼はいつも言ってくれる。ジャスミンが伴侶として支えてくれるからこそ、自分は領主として立ち続け、義務を果たし続けることができるのだと。
アーガイル伯爵家と、その家臣と領民たち全ての運命を背負う彼が、私に支えられるからこそ義務を果たし歩んでいけると言うのなら。私の人生には意味がある。私の中に流れる貴族の血統ではなく、ウィリアムと愛し合いながら人生を歩む私個人に意味がある。アーガイル伯爵夫人として彼を支えることは、貴族として運命づけられた義務である以前に、他の誰にも奪うことのできない私だけの意味になった。
ウィリアムが私に居場所をくれた。彼との愛が私の人生に特別な意味をくれた。
愛するウィリアム。あなたが生きて帰ってくることを心から願ってる。これまで通りでも、敗北して没落しても、たとえ貴族でなくなったとしても、あなたと一緒に生きていけることを心から願ってる。
だけどもし、この願いが叶わないのなら。理不尽な死が訪れるのだとしたら。私はあなたと一緒に死ぬ。
叶うのであればお腹の子を産んで、信頼できる家臣たちに託して、そして私は死ぬ。たとえ私が死ぬ必要がなかったとしても、あなたを一人寂しくあの世で待たせたりはしない。私は永遠にあなたの傍にいる。
だから安心して。私のウィリアム。




