娘が可愛すぎる件について
「はぁ……」
世界の南方に位置する大陸において、最大の国土を誇るバルドゥーラ帝国。
その頂点であり最高権力者である皇帝、ディオルグ・ヴァン・バルドゥーラは、ある一枚の紙を見つめながら、執務室で思わず深いため息を吐いていた。
「どうかされたのですか、陛下?」
すかさず、腹心の部下であり弟でもあるオルディンが、隣から心配そうに声をかけた。
長い眠りから目覚めた皇帝の仕事は山積みではあるが、自分たち側近ができる細々としたものなどは常に対処していたため、重要な案件はここ数日ですでにあらかた片付いているはずだ。
それなのに、何がそれほど彼を悩ませているのかと、オルディンは皇帝の手元を覗いた。
「……え?」
しかし、仕事の書類があると思われていた皇帝の机上の真ん中には、何やら拙い字で書かれた、手紙のようなものがあるだけだった。
「こ、これは?」
「……キアラからもらった。字と文法の練習として書いた、私に宛てた手紙だそうだ……」
確かに、冒頭には『おとうさんへ』と書いてあるようだ。文字の大きさが所々異なり、バランスが悪くて少し読みにくい文字ではあるが、きちんと手紙の体は成している。
「……皇女殿下は、一生懸命勉強に励んでおられるようですね」
「そう思うだろう!? キアラはまだ教育を始めたばかりなのに、もうこんなに綺麗な文字が書けるんだ。しかもほら、ここを見てみろ。『おとうさんも、お仕事を頑張ってください』と書いてある。近ごろは慣れないことばかりで大変だろうに、私の心配までしてくれるなんて。あぁ、キアラはなんて優しい子なんだろう!!」
「お、落ち着いてください、陛下」
重大な事案に頭を悩ませているのかと思いきや、娘からの手紙が嬉しすぎて、思わずため息が出ただけのようだった。
そういえば、今日は朝からずっと機嫌が良かったが、どうやらこのせいだったらしい。
確かに、手習いを始めて間もないと考えればよく書けているとは思うが、綺麗かと訊かれれば、頷くのを躊躇ってしまう。どう見ても、親バカな父親目線であると言わざるを得なかった。
今まで見たことがなかった兄のそんな姿に、オルディンは多少困惑した。
「キアラは、本当に可愛くていい子だ。そう思わないか?」
「そうですね。さすが陛下のお子様です」
それでも、一切動揺を見せることなく、生涯仕えると決めた主の臣下として、しっかりと話を合わせるオルディンだった。
「全く、お前は。二人の時は畏まる必要はないと、いつも言っているだろう? 今は兄上と呼べ、オルディン」
「……はい、兄上」
苦笑して頷いたオルディンに、ディオルグは満足の笑みを浮かべながら、さらに言い募る。
「キアラは、本当にすごい子だ。あの小さな体で、サーシャをずっと守ってくれていた。それに、信じられないほど可愛い。お前も叔父として、そう思うだろう?」
「そうですね。皇女殿下は、兄上のつがい様に似て可愛らしい容姿をしていらっしゃいますが、色合いや雰囲気から兄上の面影をも感じさせる、しっかり者で魅力的な方です」
「感想が固いぞ、オルディン。だが、その意見には同意せざるを得ない。キアラは一体、どうしてあんなに可愛いんだ? 寝顔なんて、この世のものとは思えない愛らしさだったぞ!」
ディオルグはつい先日、娘と二人きりで話をするため、一日だけ一緒に寝ることにした。その時の娘の姿といったら、まさに天使だった。世界中のどこを探しても、あんなに愛くるしい子供は他にいないに違いない。
「しかも寝言で、お父さんの手は安心する、などとムニャムニャ呟くのだ。本当に、思考が数秒完全停止したぞ。あの時ならば、暗殺者も私を殺せたかもしれないな」
「縁起でもないことを言わないでください!」
「ははっ」
冗談だとわかっていても、肝が冷える言葉だ。やっと健康を取り戻したというのに、娘可愛さに動きが鈍って暗殺者に殺されるなど、目も当てられない。
「そうだな。少なくともキアラが一人前になるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。それに、私はその後も、まだまだサーシャと一緒に過ごしたいしな……」
そう言って緩めていた表情を、ディオルグがフッと引き締めた。
和やかな空気が一変する。
「……ところで、私の愛しいつがいと娘に害をなした愚か者の地方領主の処分が、ようやく完了したそうだな?」
「はい。滞りなく」
オルディンが、そう言って目を伏せ、数枚の書類を手に取った。そこには、領主が行った様々な悪事の証拠や、集まった証言、押収した品物などが詳細に記載されている。
「あの小物はかなり好き勝手していたようで、少し叩いただけで、余罪がいくつも出てきました。人身売買にまで手を出しており、証拠も発見されましたので処分は難しくありませんでした。本人は熱帯地域での強制労働、罰金により全財産を没収となっております。ちなみに、妻は事件後すぐに離縁し、逃げるように子供を連れて実家へ帰っておりました。彼女についても犯罪の関係性を調査し、厳正に対応する予定です」
「そうか、わかった。……本当なら、私が直接手を下してやりたいところだったんだけど」
「堪えてください。皇帝が私怨で動くのは良くありません」
「わかっているさ。だから、本人が一番嫌がりそうな処罰で妥協してやっただろう?」
調べたところ、親から領主の地位を受け継いだ後、彼はあの小さな世界で、まるで王であるかのように振る舞っていたらしい。
幼い頃から甘やかされて育ったせいか、わがままでかなりプライドの高い男だったようなので、自分が食い物にしていた奴隷たちのような扱いに身を落としてやるのが一番だと考えたのだ。
「通常の罰なら数十年も経てば出られるかもしれないところを、永久に釈放しないよう念入りに手を回していたのに、妥協ですか」
そう言って、オルディンが苦笑する。
「それくらい、当然だろう? あんなクズは、今すぐにでもこの世から消し去ってやりたいくらいなんだ。再び世に出すなどとんでもない。一発でいいから殴りに行かせてくれと頼んだのに、お前たち側近が許してくれなかったから、仕方なくこうしたんだろう」
「兄上が一発殴るということは、死刑となんら変わりませんよ……」
呆れたように言うオルディンに、ディオルグは「……手加減くらいはできる」と言って、そっと目を逸らした。
普段ならば力を調整することも容易にできるだろうが、つがいに手を出そうとした憎い相手に対してもそれができるかというと、はっきりとは言えないだろう。
竜人族はただでさえ強く、襲ってくる者たちを力によって制圧し、国土を広げ、帝国を築いてきた。
そのトップである皇帝が、私怨によって暴力を振るうと噂にでもなれば、多くの者たちに恐怖を与え、裏では反感を買うだろう。
彼らは、それを避けなければならなかった。
「脱走すれば竜人族が即処刑に向かうだろうと告げたら、顔を真っ青にして膝から崩折れていたと報告があったから、とりあえずそれで良しとするよ」
「それは重畳です」
そう話を結んで、オルディンは元領主に関する書類を元あった位置へバサッと投げ捨てた。そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、対応に向かっていた騎士が、子供を一人連れて来るそうですね。何でも、領主の下で利権を貪っていた関係者たちを捕縛した際、騎士ルーシャスがその子を庇ったとか……」
「あぁ。彼はサーシャとキアラをここへ連れてきてくれた功労者だ。きっと何か理由があるのだろう。詳細は戻ってきてから聞くことになっている」
ディオルグが、なぜか不満そうな表情で息を吐く。
「何か、問題でもありましたか?」
「いや、ううん……」
いやに歯切れが悪い。言いにくいような深刻な問題なのだろうかと、オルディンは息を呑んだが、次に返ってきた言葉に目を丸くした。
「その子供……キアラと同じ年の男の子らしいんだ」
「……はい?」
「いや、心配じゃないか? キアラは可愛すぎる。ルーシャスは唯一、辺境の村にいたキアラたちを知る竜人族だ。その子を連れ帰るのは、もしかして……その子はキアラと、その、特別仲が良かったからなんじゃないかと」
「……はあ」
オルディンは、思わず呆れたような声を出してしまった。キアラは、まだ九歳である。もしそうだとしても、言葉通り、ただ友達だっただけではないだろうかと思うのだが。
それに、そういう心配をするなら、もっと警戒すべき相手がいることも、わかっているはずだ。
「……兄上。ノアルード王子のことは、どうお考えで?」
「言うな。アイツのことは、今は考えたくない」
ノアルードの名前を出せば、ディオルグはガクリと項垂れた。執務机の上で握る手が、ギリッと不穏な音を立てる。
彼が何を握り潰そうとしているのかは、言わずもがなである。
「彼が相手ではご不満ですか。以前は、ずいぶんと彼を買っていらしたように思いますが」
オルディンはそう言って、からかうようにクスッと笑いながら兄を見る。
ノアルードが制御できないほど激しい魔力暴走を起こした時、ディオルグは率先して自ら現地へ赴いた。自分ならば安全だからと理由をつけていたが、皇帝がわずかでも危険な場所へ一人で行く必要などあるはずもない。竜気を扱える騎士は他にもいるのだから、その者たちに任せればいいだけの話だ。
それをわざわざ自分から鎮圧に向かったり、塔へ様子を見に行ったりしていたのは、目覚めてからノアルードに関する報告を聞いて、彼を気にかけていたからではないのだろうか。
「私も当時は、自分の命がもうそれほど長くないだろうと思っていたから、彼に多少共感するところがあっただけだよ。魔法使いたちの報告で、彼の謙虚な姿勢や、才能溢れる努力家だとかいう話を聞かされていたから、気の毒に思って少し気にかけただけだ。別に買っているとかではない」
ディオルグはフンと鼻を鳴らす。
「それに、儀式を許したのはキアラが泣くから仕方なくであって、キアラの相手として相応しいなどとは、私は全く考えていないからな!」
「フフッ、そうですか」
他の国であれば、王族の婚姻は政治的な材料であり、本人の自由など利かない場合が多いだろう。
だがバルドゥーラ帝国は、現在周囲に敵なし状態である。他国へ嫁いで情勢を安定させる必要もなければ、婚姻による金銭等の利益を求める必要もない。
圧倒的な強さを誇り国土を広げてきた竜人族だが、歴史上一度も、自分たちから戦争をしかけたことなどない。向かってくるならば容赦なく叩き潰すが、個人差はあれど基本的には穏やかで、利益よりも愛する者を大切にする種族なのだ。
そしてこの皇帝は、自ら選んだ平民の人間族の女性をつがいと決め、唯一の妻とした。
そんな両親を持つ娘が、相手を自分で選ぶことを止められるはずもないだろう。
そして、その少し考えればわかるはずのことを、ディオルグが理解していないはずもない。
もしかしたら、ただ見ない振りをしているのかもしれないと、オルディンは思った。
そう考えて、彼は薄く笑みを浮かべた。
そんな弟を、ディオルグは何か言いたげに睨んだ。
だが結局何も言うことはなく、「そろそろ仕事に戻るか」と言って、ディオルグはため息を吐いたのだった。




