聞こえた声 サーシャ視点
キアラやロドルバン様が出ていったことにも気づかず、私はしばらくの間、ディオが眠るベッドのそばでひたすら涙を流していた。
まるで死人のように冷たい彼は、まだ生きていることが信じられないくらいに生気を感じない。私に柔らかい微笑みを向けてくれていた彼の精悍な顔は、土気色に染まっており、今は目を開けることさえないのだ。
「ディオ、ねぇディオ……目を開けて」
毛布の上から軽く揺すってみても、彼が目を覚ますことはなかった。
「ねぇ、どうしてあなたはこんなふうになっているの? ……私が、あなたのつがいだったから? 私があの時あなたの前から去ったから、それがこんなふうになるほど悲しかったっていうの?」
……でも、あなたは私よりも、あの人との結婚を選んだじゃない。そうじゃなかったの……?
「わからないの。あなたと話したい。お願いだから起きてちょうだい……」
そう懇願しても、彼はピクリとも動かなかった。
それでも、今は彼のそばを離れる気にはなれない。
私は彼が眠るベッドへ腰掛けて、彼の大きな手を握った。毛布の中にあったというのに、彼の手はとても冷たかった。
私は、勝手に自分の話をすることにした。十年前に言えなかった、彼への気持ちを今度こそ伝えたい。
「ディオ。私ね、十年前……本当はあなたと離れたくなんてなかったわ。あなたとの約束通り、ずっと一緒にいたかったの」
彼の冷たい手を、強く握る。少しでも、私の熱が伝わればいいと願って。
「でも、あなたには婚約者がいたでしょう? あの綺麗な、金髪の竜人族の方よ。いつだったか、ここであなたと二人でお茶をしていたわ。すごく仲が良さそうで、人間族で身分も低い私とは違って、遠くから見ても、とてもお似合いだった」
また涙が出てきそうになるが、グッと堪えて話を続けた。
「皇太后陛下に婚約者の存在を聞かされて、いつまでも愛人の立場にしがみついて彼女を悲しませるなと言われたわ。……あなたに婚約者がいることさえ受け止められていなかったのに、その上ある日突然婚約者の彼女が家に来て、あなたと結婚することになったって言ったのよ。だからもう、あなたの前から去るようにって。あなたが私に何も言わずに誰かと結婚するなんて信じられなかったけど、すぐに街中の噂になっていたわ。あなたが、竜人族の姫君と結婚するって……」
堪えきれずに、涙がポロリとこぼれた。
グイッと手で目元を拭うが、次から次へと勝手に涙が溢れてくる。当時のことを思い出すと、まだこんなにも苦しいのだと改めて知った。
「あ、あなたに、きちんと確認しなきゃと思っていたけど、なかなか会えなくて……私は自分からあなたに会いに行くことさえできないのに、どうして自分があなたに選ばれているなんて思っていたんだろうって、考えたりもしたわ。全部私の独りよがりだったんじゃないかって。あなたは私を愛していると言ってくれたけど、皇帝として別の人との結婚を決めたあなたの考える愛は、きっと私の考える愛とは違うものなんだって……」
痛いと言って起きるんじゃないかと考えてしまうほど、精一杯強く彼の手を握った。震える私の手では、それほど力は強くなかったかもしれないけれど。
「それなのに……どうして、あなたはまだ独りでいるの? 私よりも、国のための結婚を選んだんじゃなかったの? こんなふうに、眠ったまま起きられないほど弱ってしまうなんて、一体どうして……?」
滲む視界で、ディオの顔を見る。記憶の中の彼と同じ顔のはずなのに、土気色の顔をした彼は、まるで違う人のようだった。
「ディオ……っ」
再び彼の頬に触れた。
やっぱり驚くほど冷たくて、悲しくて苦しくて、またまぶたが熱くなってくる。けれど、その頬をそっと撫でた時、ふと違和感に気づいた。
「……え?」
ディオの頬へ伸ばした手に、水が触れている。
ディオの閉じた目元から、ひとすじの涙が流れていた。
「……ディオ? ねぇ。もしかして、聞こえているの?」
その呼びかけに、反応はなかった。
でも、きっとそうだ。彼には、私の声が届いているのだ。私は、今一番彼に伝えたいことを口にした。
「……愛しているわ、ディオ」
彼のまぶたが、わずかに動いた気がした。私はもっとしっかり自分の気持ちを伝えようと、さらに言い募る。
「私は、他の人と結婚するあなたのそばにいることなんてできないと思ったから、皇太后陛下がくれた魔道具を使って、あなたから離れようと決めたの。最後に会った時、あなたとあの人の結婚を受け入れると私は言ったけど、本当は、ずっと私だけを見ていてほしかった。お似合いの竜人族の女性と結婚するあなたのそばにいることなんて、とてもできなかったの……」
彼の目からこぼれた涙を、そっと指で拭う。
冷たい頬を伝う涙なのに、それは不思議と温かかった。
「約束を守らなくてごめんなさい。この十年、あなたを忘れたことなんて一日もなかった。あの時からずっと、今でも、あなただけを愛しているわ」
彼の目から次々と涙はこぼれてくるのに、その目が開くことはなかった。でも、これ以上何を言えばいいのかわからない。
どうすれば、この気持ちが伝わるだろう。
「……お願い。起きて、ディオ」
私は、そっと身を乗り出して目を閉じ、彼の唇に自らのそれを触れ合わせた。
すると、ずっと握ったままだった彼の手が、ピクリと動くのを感じた。
「……ディオ?」
目を開けると、わずかに開いた彼のまぶたから、金色の目が覗いていた。
「サー……シャ」
「ディオ……っ!」
ガバッと、彼に抱きついた。
目が痛いくらいに涙が出てきて、彼の毛布に染みを作っていく。
「サーシャ……」
「ディオ、ディオ……! 起きっ、起きたのね。もう大丈夫なのね? ディオ!」
「サーシャ……もっと、顔をよく、見せて。……本当に、戻ってきて……くれたんだね」
温かみを取り戻し始めた彼の指が、私の頬を撫でた。存在を確かめるかのように、ゆっくりと。
私はその手に手を添えると、自分から頬を擦り寄せた。彼の大きな手が、徐々に熱を取り戻していくのをしっかりと感じる。
「……信じられない。サーシャ、君にまた会えるなんて。愛していると、言ってもらえるなんて」
「私はあの時からずっとずっと、変わらずあなたを愛しているわ。……ねぇ、あなたも、本当は同じ気持ちだったの?」
彼と額を合わせながら、そう尋ねた。彼の金色の目から、またひとすじ涙がこぼれた。
「同じどころか……この通り、私は君がいないと生きていけないほど、君を愛している。私の、生涯ただ一人のつがい。もう決して、離れないでくれ」
そう言って、ディオは私を抱き寄せた。
まだ力が入らないのか、背中にまわされた彼の腕に込められた力は、それほど強くない。
ディオは少し顔をしかめると、すぐに私から手を離した。
「ディオ! まだ起き上がっては……」
ディオが体を起こそうとするので、心配になって止めるけれど、彼はフッと笑った。
「もう……これくらいなら、大丈夫だよ。それに、横になったままじゃ、君をちゃんと抱きしめることもできないじゃないか」
「……バカね」
そう言って体を起こしたディオが、私を両手で強く抱きしめた。まだ少し冷たい彼に、私の体温が移ればいい。そう思って、私も強く彼を抱きしめる。
「サーシャ……大人っぽくなったね。十年も経ったんじゃ、当然だけど」
「えっ! わ、私、老けたかしら……?」
竜人族の彼とは違い、私は年相応に年を取っている。優しい言い方をしてくれたが、彼の記憶にある十六歳の私と比べたら、かなり見た目が変わっているのは間違いない。
思わず身を離そうと少し彼を押し返すが、ディオはしっかりと私を腕の中に閉じ込めて離さなかった。
「まさか。さらに魅力的になっていて驚いたよ」
「ディ、ディオ……」
カァっと顔に熱がともる。
ディオは今でも、いとも簡単に私をドキドキさせてしまうのだ。
「あの、ひ、人を呼んできましょうか? さっきここまで案内してくれたロドルバン様はあなたをとても心配していたし、あなたはまだ休んでいた方がいいんじゃ……」
「大丈夫だから、もうしばらくこうさせてくれ」
「ディオ……」
首元に感じる、彼の息遣いさえも愛しい。
彼が生きて話をしていることが嬉しくて、私も再び強く彼を抱きしめた。
「……それに、君とちゃんと話をしたい。十年前の、あの時このとを」
ディオが固い声でそう言った。
私は彼の腕の中で、しっかりと頷いたのだった。




