キアラと体の弱いお母さん
「はぁっ、はぁっ!」
帝都から遠く離れた、とある小さな村のはずれにある森の中。
トーアという一人の幼い少年が息を切らし、涙目になりながら、自身の命を脅かすものから逃げようと、必死で足を動かしていた。
彼は一心不乱に逃げながらも、状況を確認するために、少しだけ振り返ってみた。後ろからは、巨大な魔獣が獲物を仕留めんとする鋭い眼差しで、彼を追いかけてきていた。
「ひぃっ!」
クレーターベアと呼ばれる、巨体の魔獣だ。その大きくて硬い拳は、たった一振りで地面にクレーターのような痕跡を残すという、肉食の魔獣である。
トーアは再び前を向き、森の奥の方とはいえ、なぜこんな人里付近にクレーターベアがいるのかと心の中で悪態をつきながらも、一人でここまで来てしまったことを後悔していた。
薬師を志す彼は、珍しい薬草を求めて、ついつい、いつもより遠くまで森へ入り込んでしまった。そして、そこでこの巨大な魔獣に出くわしてしまったのだ。
「く、来るなぁーっ!」
彼をはっきりと視界に捉えたクレーターベアが、獲物を逃すまいと、一直線にその姿を追う。
大人でさえ、速さでクレーターベアに敵う者はいない。
あっという間に距離が縮まり、思わず振り返ったトーアが、振り上げられた魔獣の前足を見て、自身の死を覚悟した時。
「よっせーいっ!」
そんなおかしな掛け声とともに現れた、彼と同い年ほどの幼い少女が、彼女の身長の三倍はあろうという大きさのクレーターベアを、いとも容易く横から殴り飛ばした。
「……へ?」
ズザザザザ、と激しい音を立てて飛んでいったクレーターベアを、トーアが呆然と見つめる。
クレーターベアはかなりの距離を飛ばされていった。一体どれほどの力を加えれば、あの巨体があのようなことになるのか。
トーアは、いきなり現れた少女をまじまじと見つめた。
意外なことにその少女は、見たことがないほど可愛らしい見た目をしていた。
柔らかく波打つ、燃えるような赤い髪。眩しいほどきらめく、金色の大きな目。白い肌に、ピンクの唇。目鼻立ちは驚くほど整っていて、思わず見惚れてしまうほどであった。
先ほどの怪物のような所業が、この愛らしい少女の引き起こしたことであるなど、彼はその目で見ていても、とても信じられなかった。
……もしかして、彼女は獣人族だろうか。
トーアはそう考えたが、すぐに首を左右に振った。
獣人族は、人間族では考えられないほど強い力を持つというが、必ずどこかに、動物の身体的特徴を持つらしい。目の前の少女は、どこからどう見ても人間族だった。
魔法であんなに強くなれるなんて聞いたことがないけれど、もしかしたら、精霊族が得意だという、不思議な魔法を使っているのかもしれない。
そうとも考えたが、精霊族は排他的で、ほとんど集落から出ることはないらしい。それに、彼らは耳が尖っていると、本には書いてあった。少女の耳は人間族の自分と同じく丸いので、それも違うだろう。
トーアはそんな風に思考を巡らせつつ、驚愕と恐怖に目を見開いたまま、少女とクレーターベアを交互に見ていた。
「グオォォォ!」
「ひえっ!?」
あれほど派手に飛んでいったクレーターベアだが、一撃でやられはしなかったらしい。怒りの咆哮をあげたクレーターベアが、自分を攻撃してきた少女へと、完全に狙いを定めている。
「むぅ、さすがはクレーターベア。なかなかやるわね。じゃ、もう一発いくわよ!」
少女は迎え撃つも、魔獣の方が初撃は早かった。
幼い少女の柔らかい体など一撃で壊してしまいそうな魔獣の前足が、彼女を襲う。
しかしクレーターベアの素早い攻撃をひらりと躱した彼女は、地面を蹴り、信じられないほど高く飛び上がった。
――ドゴーン!!
その後、彼女は軽やかな身のこなしでくるりと身をひねると、その遠心力と重力を加えた重い足蹴りを、熊の脳天へとお見舞いしたのである。
「グオッ……」
ドォン、と大きな音をたてて倒れたクレーターベアは、それきり動かなくなった。
少女はグッと拳を握る。
「よーし! やったぁ、クレーターベアのお肉ゲットよ! こんなところでこんな大きな獲物に出会えるなんて、なんて運がいいの! これで、しばらくお肉には困らないわね!」
そう言うと、彼女はトーアの方に目を向けることなく、あっという間にクレーターベアの元へと駆けていき、ズルズルと引きずりながら、動かなくなった獲物を持ってどこかへ行ってしまったのだった。
「……な、なんだったんだ……?」
一人残されたトーアは思わずそう呟いたが、答えてくれる者は、誰もいそうになかった。
◇
小さな村のはずれにある、小屋と呼ぶべき小さな家。
そこで、わたしは今、母と二人で暮らしている。
「お母さん、ただいま!」
「キアラ、お帰りなさい」
わたしはそっとドアを開けて、母に声をかけた。あまり乱暴にすると、この古びたドアは、すぐに壊れてしまうのだ。
この家は、かなりボロボロだし、とても狭い。雨漏りやすきま風はひどいし、水場と台所と、小さな部屋がひとつしかない。
だから、玄関のドアを開ければすぐに、ベッドで横になっている母の姿が見える。
わたしは母に駆け寄ると、ベッドにボフッと上半身を預けて、母を見上げた。
「お母さん、体調はどう?」
「今日はずいぶん調子が良いの。昨日、キアラが薬草を採ってきてくれたからかしらね?」
わたしと母は、顔立ちはよく似ているのに、その他はあまり似ていない。わたしは魔獣を素手で倒せるほど元気で力持ちなのに、母はすぐに体調を崩すし、たまにしかベッドから起き上がれないほど、体が弱いのだ。
髪や目の色も、全然違う。わたしは赤い髪に金色の目だけど、母は綺麗な亜麻色の髪に、緑の目だ。会ったことはないけれど、わたしは色々と、父に似たのだろう。
一度だけ、父のことを尋ねたことがある。
「どうしてわたしには、お父さんがいないの?」と。
母は困ったように笑って、「お母さんはお父さんのことがすごく好きだったけど、お父さんはそうじゃなかったみたいなの。だから、仕方なくお別れすることにしたのよ」と答えてくれた。
どうしてそう思ったのか聞こうとも思ったが、母の辛そうな顔を見てやめた。母をこれ以上悲しませたくはなかったし、母がいてくれるなら、父がいなくても別に平気だったからだ。
実際、父などいなくても、何も問題はなかった。
母と二人で、これからもきちんと暮らしていける。
そう思っていたのだが、数年前から、母の体調が悪くなり始めた。
……それもこれも、あのすかぽんたんの領主のせいよ!
わたしは領主の丸い顔を思い浮かべて、奥歯を噛み締めた。
元々わたしと母は、もっと広くて清潔な、村の中心部にある一軒家に住んでいたのだ。
母は食堂で女中仕事をしていて、忙しい時期になるとたまに体調を崩していたけれど、今みたいに寝たきりになるほどではなかった。
……それなのに、あのへっぽこ領主が、お母さんに目をつけたから。
村で美人だと評判だった母の噂を聞きつけて、わざわざやってきたという領主は、母を一目見るなり気に入ったのだそうだ。
母へ愛人になるよう迫ったけれど、母はすぐに断った。それに腹を立てた領主は、母を解雇するよう店主に命令したのだという。そして、自分のもとへ来るなら養ってやると、吐き捨てたらしい。さらには、母が自分を頼ってくるように、村の人たちにまで働きかけたのだとか。
その時わたしは六歳で、正直、当時は何が起こっているのか全くわからなかった。
でも、母が落ち込んだ様子で仕事を続けられなくなったと言ってきた日から、住んでいる家を出なければならなくなったことや、ごはんがたくさん食べられなくなったことは嫌でもすぐに理解した。
しばらくは、どうして暮らしが悪くなったのかわからなかったけれど、誰のせいでそうなったのかはすぐにわかった。
それは、古びたこの狭い小屋に引っ越してきたばかりの夜。
初めてあの男が、この家を訪ねてきた時のことだ。
◆
ドンドンドン!
その夜は、部屋の中なのにとても寒かった。
母と二人でくっついて、毛布にくるまっていた時、激しくドアを叩く音がした。
「おかあさん。夜なのに、誰かきたのかな?」
「……そうね。お母さんが出てくるわ。キアラは、ここから出ちゃダメよ」
わたしをベッドへ寝かせて毛布をかぶせると、母は上からポンポンと叩いてくれた。けれど、わたしは起き上がって質問する。
「どうして出ちゃダメなの?」
「危ないかもしれないからよ」
母が不安げな笑みを浮かべながらそう言った。
でも、危ないなら、母が一人で出るのもダメだと思うのだ。
「じゃあ、わたしがおかあさんを守る!」
「……キアラ」
……だって、おかあさんは体が弱いんだもの。わたしの方がずっと強いわ。だから、わたしがおかあさんを守ってあげるの!
でも、母はそれを許してくれなかった。
「ありがとう、キアラ。でも、今日はお母さんに、キアラのことを守らせて」
そう言って優しく笑うと、母はわたしの額に軽くキスを落とし、一人でドアの方へ向かっていった。
わたしはすごく心配だったけれど、きちんと母の言うことをきいて、毛布にくるまってじっとしていることにした。
「やあ、サーシャ。ここへ引っ越したと聞いて、挨拶に来たよ」
聞こえてきたのは、知らない男の人の声だった。
……誰だろう。でも、挨拶に来てくれたなら、悪い人じゃないよね?
わたしは少しだけ毛布から顔を出して、訪ねてきた人を一目見ようとした。
……わぁ。ブーゴンみたいな人だわ。
思わずそう思ってしまうほど、彼はブーゴンに似ていた。
ブーゴンとは、食用として知られる小さめの魔獣だ。大人しくて頭も良くないので、家畜として飼育されることも珍しくない。
母より背が低くて丸々とした体もそうだし、小さくてつぶらな目も、ちょっとひしゃげて潰れたような形の鼻も、全てがそっくりである。
「こんな所に住まないといけなくなるなんて、可哀そうになぁ。今からでもボクのものになると言えば、娘と一緒に広くて快適な家に住まわせてやるぞ? ん?」
……なにあいつ。何を言っているの?
ボクのものになるって、どういうことだろう。
よくわからないけれど、なんだかとてもイヤな感じだ。
わたしは一瞬で、あのブーゴンのような男が嫌いになった。
あいつのいいなりになるくらいなら、広くて快適な家なんていらない。
ここで母と暮らす方が、百倍はいい。
わたしはすぐに毛布をはねのけて母のもとへ行きたいと思ったが、母の言いつけを守ってじっとしていた。
でも、あのブーゴン男が母に何かしたら、すぐに飛んでいけるよう、二人から目を離さなかった。
◆
ブーゴン男は領主なのだと、母は後で教えてくれた。
領主とは、この辺りで一番偉い人なのだそうだ。その人の言うことをきかなかったから、母は仕事を辞めさせられて、住んでいた家を出なければならなかったらしい。
そう聞いても、わたしは母が悪いなんて、全く思わなかった。
自分のものになれと言って母を見るあいつの目は、とても気持ち悪かった。あんなやつの言うことをきかないといけないなんておかしい。
それからブーゴン男は、週に一度、必ずうちへやってくるようになった。
そうすると、小さな村では、噂が瞬く間に広がった。誰も彼もが領主と母の話を口にしていたので、内容は勝手にわたしの耳にも入ってきた。
わたしがようやく母に何があったのか理解できたのは、一年くらい経ってからだったと思う。
……つまりあの人は、お母さんにふられたからって、こんな風にやつ当たりしてるってこと!?
すでに結婚していて奥さんがいるくせに、母を無理矢理恋人にしようだなんて、バカなのだろうか。
その頃にはすでに母より力があったわたしは、すぐに領主を一発殴りに行こうとした。
「お母さん。わたし、ちょっと領主をぶん殴って、もうやめてって言ってくる!」
「やめなさいっ!」
けれど、青ざめた母にすごい剣幕で止められてしまった。
わたしが領主を殴ると、ものすごく強くて偉い人たちがやってきて、母とわたしは二人とも牢屋に入れられてしまうらしい。
「……蹴るのもダメ?」
「ダメですっ!!」
殴るのがダメなら蹴ればいいのではないかと思ったが、どうやら攻撃すること自体がダメらしい。とても残念である。
領主が家主にわたしたちを追い出せと言ったせいで、森の中にあるこのボロ小屋へ移り住むことになった。
すきま風が吹く寒い家のせいか、心労がたたったせいか、母は体調を崩しがちになったのだ。
それもこれも、全部あのうすらとんかちの領主のせいなのに。
……くっそおぉ、いつか絶対にぶん殴ってやるんだから。あのおたんこなす領主め!
わたしは、領主のブーゴンのような丸い顔を思い浮かべて、グッと拳に力を込めたのだった。
ブーゴンは、ブタのような魔獣です。




