輝き町友愛銀座商店街
母親は出かける時はタノちゃんの手に届かない所に置くようにしていたのだが、買い物から帰ってみるとタノちゃんがリモコンを握っていたことが度々あった。
どうせお母さんがうっかりして、タノちゃんの側に置き忘れたのだろうと庭子は思うのだが「婆さん、根性で掴んだか!」と、父親は毎回タノちゃんの根性説を唱えた。
「そんなにリモコンが好きなら、渡しておいたらどうだ?」
そんなタノちゃんは百三歳と二日でこの世から去ることを決めた。
タノちゃんはいつものように見舞いにきた建に、今夜主治医の麹町先生が往診にきてくれるだろうかと尋ねた。
「今日は水曜日だから夜に来てくれるよ」
夜麹町先生が来ると、タノちゃんは
「長い間お世話になりましたねえ。こんなに長生きができたのも先生のお陰ですよ」
と、いつもよりはっきりとした口調でお礼を言った。そして、
「私はこれからちょっと出かけるから、診てもらわなくていいわ先生」と続けた。
「出かける?どちらへ?」と麹町先生がのんびりした声で聞いた。
「月に行くから、バイチャね先生」
麹町先生の顔色が変わった。
付き添っていた母親に呼ばれて家族が集まり、タノちゃんに呼びかけた。
「タノちゃん、月なんかに行ったら帰って来れんぞ」父親がタノちゃんの耳元に口を近づけて言った。
「タノちゃん、お誕生日のケーキまだ半分残ってるんですよ」と母親が大声で言う。
タノちゃんは目を瞑ったまま
「うるさいねえ。聞こえてますよ!今いい所なんだよ。静かにして」と言った後、呼吸が穏やかに止まった。
百三歳のなんとあっさりしたお別れだろう。
「今いい所なんだよって、どんないい所だったんだろうな?」
ポツリと父親がつぶやいた。
空では一番高い所から身を沈める軌道へと移った月が、ゆっくりと西の空の雲の中に姿を消した。タノちゃんは月に辿り着いただろうか?
子供の頃、庭子が行きたかった月に。
庭子は友利家からタノちゃんがいなくなったことが不思議でかなわなかった。
居間にはタノちゃんが愛用していた一人がけのソファーがある。
「建、時々タノちゃんがこの椅子に座っているような気がするの」
「多分、座っているんだよ。姉ちゃんがそう思う時には」
庭子は建が、死んだ人はもういないんだよと言わなかったことが嬉しかった。
27歳になった庭子はある日、某ホテルに向かってトボトボと歩いていた。
この日は「20代ターニングポイントを2年過ぎちゃって、30代まっしぐらだぜ記念(誰が考えたのだ?)」と称した中学校の同級会があり、特に行きたくもなかった庭子だったが、ちょっとした好奇心に負けて出席してしまった。
到着したホテルの会場の同級生の中で、庭子は昔と変わらず特にどうと言う存在ではないままだ。白いシャツブラウスにデニムのスカートといった姿は、それでも庭子が出来る精一杯の女らしい格好なのだが、華やかな女子の中ではほとんど影のようなものだと庭子は思った。
だが影には、影だからこそ好きに出来ることがある。それは立食式のホテルの料理を食べまくることだった。
「中山?中山だろ?」
庭子の耳に会話が飛び込んできた。
中山君か。中山君てちょっといいなと思ったことを庭子は思い出した。
中学生で彼はもう大人だった。落ち着いていて、みんな彼を学級委員に選んだっけ。
男子の戯れあいみたいなことには参加せず、誰かが絡んでちょっかいを出してきても落ち着いた声で「よせよ」と言うだけ。ハンサムではないけれど、なんだか男っぽい顔をしていた。
「加藤か。どうしてた?」
加藤君というのは、うるさいの一言で片付く男だ。
「俺? 結婚してさあ、3人の子持ち。ちなみに嫁は一人」
えええ〜〜っ!加藤君3人の子供の父親?
「中山ぁ、子供3人持つことってわかるぅ? マジ大変よぉ。5歳、3歳、1歳よ。
真夜中1歳泣くだろ? 3歳、5歳起きるだろ? 1歳につられて3歳泣く。3歳につられて5歳泣くのよ。ママは癇癪気味。で、俺が3歳おんぶの5歳抱っこよ。時には三歳、五歳にミルクあっためて飲ませる。添い寝する。5歳意味なく蹴りを入れてくる。おいおい、この時間プロレスごっこは勘弁だぜ。2時間後、粘りに粘って無駄に眠気と戦っていた5歳寝る。時間はもう午前3時半。俺毎朝5時に起きてんのよぉ」
「すごいな」
「ああ、壮絶だよ。俺も昔はこんなだったのかと思うとなあ・・」
「赤ん坊はみんなそうだよ」
「俺が赤ん坊だったなんてさあ、覚えてないからさあ。俺も夜中に泣き叫んでいたのかと思うと可笑しくってさあ」
「おい、可笑しい方に行くんかい」
「どっち方面に行ったらいい?」
「お父さん、お母さん、ご苦労かけました、だろ?」
「マジ笑える」
「お前の感覚、俺わからん」
「おい、武田」加藤君が振り向いて庭子の横で皿に料理を山盛りにしていた武田君に声をかけた。
「武田はどうしてんの?カミさんは?」
「いるよ。子供も一人」
27歳で子持ちって結構いるんだ・・・と、庭子が建はまだまだだなと、あいつは一体結婚ができるのか?私が考えるのも何だがなどと思っていると、
「お前のカミさんて、藤間ちゃんか?」
「まさか!藤間さんは僕の淡い初恋の人さ」
ふ〜ん武田君は藤間さんが好きだったのか。男って見る目がないなあ。と庭子は思う。
藤間 鶴子、色の白いちょっと日本的な美人だった。