3,伝える言葉、届かぬ想い
一弥が由良の父、勇の訃報を知ったのは月曜日の朝のことだった。
一弥の朝は普通の学生より少し早い。朝食の用意に、洗濯物を干したりとやることが多いためだ。家事担当を始めて早半年。面倒くさいと思うことは時々あるけれど、朝のルーティーンとしてすっかり身体に染み付いている。
洗顔ついでに洗濯機をオンにし、それからマンションのポストに新聞を取りに行き、ちょうど階段で出くわした顔見知りの主婦にご挨拶。
「一弥くんの爽やかな声は元気もらえるわー」なんて少しくすぐったい言葉をもらって朝がはじまる。
部屋に戻ると、次はご飯の用意だ。
炊飯器は絶賛稼働中なので、お味噌汁とおかずを作ればいい。
まずは朝の食卓に欠かせない卵焼きだ。
オリーブオイルを引いたフライパンに、だしを混ぜた溶き卵を流し込む。
一弥は慣れた手つきで卵を丁寧に折りたたんでいく。一層。二層。三層。中はトロッと、表面は少し焦げ目が付くくらいに焼き加減を調整し、長方形に形を整えていく。完成した卵焼きをまな板に移し、包丁を入れると、湯気と共に甘い香りが立ちこめた。
「よし、今日も上出来」
一弥は完成した卵焼きを満足げに眺めて、皿に移した。サラダと味噌汁を用意して、テーブルに二人分の食事を並べる。
「ふあぁ、いっちゃんおはよー」
まだ寝たりないといった面持ちで欠伸をしながら一弥の姉、柚羽がダイニングに顔を出した。
「おはよ…って!?なんて格好してるんだよ!」
柚羽の無防備な姿を見た一弥が、びっくりして上擦った声をあげた。
「シャツはだけてる!アネキ見えてるから!!」
柔らかそうに揺れる二つの丘がっ!と心の中で叫びながら一弥はとっさに顔を背ける。戸惑う弟を余所に柚羽はシャツのボタンをはめ直しながらケラケラと笑って、
「いっちゃんもそろそろこういうのに興味が沸く年頃でしょう?だから、少しでもいっちゃんの欲求不満を解消できれば、と思ってやってみたの。あたしなりの愛する弟への気遣いなのよ♪テヘッ」
「意図的かッ。つか、俺はそれほど欲求不満してない!朝から変な気起こさせないでくれ」
年甲斐なく可愛く戯けてみせる柚羽に一弥はため息をつく。まったくこの姉ときたら。あんなものを見せられたら、余計に欲求が溜まるだけだ。
「……分かった。アネキがそう来るなら、この卵焼きはやらん」
そう言って、テーブルに置かれた卵焼きをさっと取り上げた。一弥なりのささやかな反抗だ。
「いやん、待って!あたし、いっちゃんの卵焼き食べないと一日仕事できない!」
柚羽は椅子から慌てて立ち上がり、抗議の声を上げた。
「じゃあ、俺の欲求を刺激するようなことは今後しないって約束してくれ」
「えー、つまんないじゃない?」
唇を尖らせる柚羽を一弥はジト目で睨むが、柚羽は満面の笑みで両手を突き出す。
「ちょうだい、いっちゃん」
「ふぅ……。イジワルなアネキを持つと苦労する」
自分でも甘いなと思いつつ、柚羽が機嫌を損ねると自分が更なる被害者になるだけなので渋々と卵焼きを手渡した。口も喧嘩も姉に勝った試しが無いのがその証明だ。
「いっちゃんは本当に優しいわ。さて、朝食にしましょ♪」
卵焼きを無事取り返して、鼻歌を歌いながら幸せそうに卵焼きをつまみ始める姉の無邪気な姿に一弥はやれやれと息を吐き、椅子に腰を下ろした。
朝の仕事を一通り済ませた一弥は、身支度を整えるために一旦部屋戻った。柚羽は会社の勤怠がフレックスタイム制なので時間を気にせず、ゆったりとモーニングコーヒーを飲みながら朝刊に目を通している。
一弥が制服に着替えてダイニングに戻ると、柚羽はいつになく深刻な表情で記事を見つめていた。
「どうしたんだよ、アネキ。マジな顔して……」
少しだけ胸騒ぎがした。気になって一弥が訊くと、柚羽は心を落ち着かせるのように深呼吸した。そして、
「由良勇って、奏ちゃんのお父さん、よね?確か」
「あぁ、そうだけど……」
突然出てきた由良の名に、一弥は困惑しつつも頷いた。
何度か由良から手作りのお菓子の差し入れをもらった縁があるので、柚羽も由良とは顔見知りだ。そんな縁もあって、由良の父の誕生日祝いに姉もアドバイザーとして叶市のレストランを紹介している。
だが、なぜこのタイミングで由良の父の名が出てきたのか?柚羽は記事のどこを見てそんなことを言い出したのか?
もしや――という不吉な答えが頭をよぎった。
柚羽は伏し目がちに、躊躇う仕草を見せつつも、こう言った。
「……奏ちゃんのお父さん、亡くなったそうよ」
「……えッ?」
一弥は耳を疑った。動揺に染まった瞳があてもなく宙を彷徨う。突然のことで息が詰まりそうになる。
由良は幼い頃に母親を亡くしている。家族は父親一人しかいなかった。
『父は、わたしの一番大切な人です』
誇らしげに父のことを語る由良の嬉しそうな表情が頭に浮かんだ。
「……そんな」
頭がクラクラした。信じられなかった。
由良は今、どれほどの悲しみを背負っているのだろうか。そう考えると、切なくてしょうがなかった。
誰しもいつかは必ず死ぬ。だが、そうと分かってはいても心のどこかではまだ大丈夫と安心しきっている自分がいる。だからこそ人の死はいつも不意打ちにやってくるのだ。
もし、自分の家族が死んだら、どんな喪失が自分を襲うのだろうか……。
そう、考えたときだった。
ズキリと、左手首に痛みが走った。
「――ッ」
一弥は顔を顰めて反射的に手首を掴んだ。締め付けるような痛み。同時に自分の身になにが起こっているのかに気づいた。
ケモノが暴れている……。
アリシアは悲しみや怒りといったマイナスの感情はケモノを抑制する力を弱め、ケモノが暴走する危険を高める行為だと言っていた。
だが、人は感情を自在にコントロールできるほど器用な生物ではない。まして心が未熟な思春期は感情表現も不安定で、簡単に状況に左右されてしまう危うさをもつ。アリシアはその未発達な部分がケモノに踏み越えられないように、制御補助の役割としてケモノ持ちに〈グレイプニール〉という秘術を施していた。
ケモノ持ちとなった一弥も例外なくその左手首には〈グレイプニール〉の効果が働いていることを証明する黒い鎖状のアザができている。
そのアザが痛むということは、一弥の感情に反応したケモノが暴れ、それを抑止するべく秘術の効果が発動しているということだった。
一弥は悲観的になっていた思考を振り払うと、足早にマンションを出た。
外に出て、人がいないことを確認し、一弥は制服の袖を捲った。腕に巻き付くように刻まれた鎖状のアザの周りは赤く腫れて、血が滲み出ていた。
□■□■
その後、いつも通り学校に登校した一弥だったが、気持ち的にとても授業を受ける気にはならず、無意識のうちに教室ではなく屋上に足を運んでいた。
まだ屋上の番人こと、梶眞綾の姿はない。
一弥は手摺りに背中を預けると、ぼーっと空を見上げた。ざわざわする心をどうにかして落ち着かせられないかと試みる。
とにかく気分転換がしたかった。少しでも油断すると、気持ちがマイナスに傾いてしまうからだ。
思考を放棄し、眼前に広がる景色に集中する。
どこまでも続く蒼穹。時間に追われる地上とは正反対にゆったりと流れていく雲。目が眩むほど燦々と輝く太陽がとても眩しい。
だが、期待していたリラックス効果はなかなか現れなくて、むしろ訳の分からない苛立ちを感じ始めた。
「……晴れの日は嫌いだ、か」
今は亡き友、桐生の言葉をふと思い出す。
――あの日も、緋武呂市は快晴の天気だった。
「悩みなんか吹っ切って、新しく何かを始めようって気分になる陽気だよな」
そう前向きな気持ちで言った一弥に、桐生は冗談じゃないと首を振った。心底嫌そうな顔で「オレは晴れの日は嫌いだ。この清々《すがすが》しさが能天気で、オレの神経を逆撫でする。能天気なお前には、分からないだろうな」と。
棘だらけで同情の余地は欠片もなく、吐き捨てた。人をバカした言い方でそのときはムッとしたが、今になって考えると、桐生なりの皮肉が込められていた気がする。
「晴れが嫌いなんて、一度も思ったことはなかったけど……。今は、アイツの気持ちが少し分かる気がするな」
空にはなんの罪もない。ワガママなのはいつだって、感情に振り回される人間だ。
屋上のドアが開いた。
一弥はちょうどドアの正面に立っていたので、来訪者とはすぐに目が合った。
「よう」
「おやおや、サボリとは珍しいですな。クラス委員長どの」
「たまにはそういう気分のときもあるさ。邪魔なら出て行くけど」
「構わないよ。そういう気分、なんでしょ?」
梶は目を細めて猫のように微笑むと、一弥の隣にしゃがみ込んだ。そして、悩ましげな表情を見せる一弥を不思議そうに見上げた。
「元気ないね?」
一弥と梶は桐生のことで結託した際にいくつかの約束を交わしていた。
一つは互いに隠し事はしない。二つ目は桐生に関する情報の交換。そして三つ目は桐生の死に関係する情報の共有だ。
一弥が今、考えていることは梶に直接関係することではなかったが、梶は一弥のいつもと違う様子を気にかけて声をかけてくれていた。訊かれて答えないのは、約束違反だ。
一弥は唇をきゅっと噛み締めた。少しでも気を緩めるとせり上がってくる哀しみを胸の中で抑え込む。
「……俺の後輩の親がさ、昨日亡くなったんだ。由良っていう子なんだけど」
「あぁ。今朝の朝刊で読んだよ。由良勇、さんだっけ?事故死って書いてあったけど」
梶の反応の早さに一弥は驚いた。
「よく知ってるな……。まぁ、そうなんだ。その子、母親を早くに亡くしててさ。父親まで失って独りぼっちになっちまった。こういうとき、どう声をかけてやったらいいんだろうな」
「……難しいね」
「……」
俯く一弥に梶は「……でも、」と他人のために自分ができることを探そうとする一弥を少し羨ましそうに、
「きっと今の由良さんにはどんな言葉よりも、誰かが傍にいてあげることが一番の励みになるんじゃないかな」
素直に他人のことを思いやれる優しさに、もしかしたら桐生も救われていたのかもしれない。そんなことを思いながら、梶は一弥の背中を後押しした。
アドバイスを聞いて自分なりの答えを見出したのか、顔を上げた一弥の表情はどこかすっきりとしていて、やるべきことがまっすぐに見えているように思えた。
「サンキュー、梶。俺にできることが分かった気がする。そうか、手段は言葉だけじゃないよな。一番辛いのは、一人で哀しむことだ。それをなんとかできれば――」
一弥は手摺りから背中を離すと、「よしっ」と小さく呟いた。
「それにしても、かっこいいこと言うなぁ、梶は。同い年なのにまるで人生の先輩みたいな言葉だぜ」
感心する一弥に、梶は笑って、
「ボクは六月生まれだよ」
「俺は、八月生まれ。なんだよ。たった二ヶ月なのに、差は小さいようで大きいな」
一弥は悔しいような羨ましいような目で梶を見て、苦笑した。
□■□■
相方の助言もあり、自分にできることをやろうと決めた一弥は放課後、由良の住んでいるアパートに向かった。
緋武呂市の東に位置する緋暮坂地区。山の傾斜に面して住宅が建ち並び、眼下には緋晶湖を中心とした緋武呂市の景色を一望することができる。夕方になると西に沈む太陽が湖に映り込み、市全域が紅色に染まる幻想的な風景をもっとも身近に拝めるということもあり、ここ近年で一気に住宅が増えた人気の住宅地だ。
一弥は葛ノ葉ベーカリーで購入したエビグラタンパン(由良のお気に入り)を手土産に、緩やかな勾配が続く坂道を上る。目指すアパートはこの坂を上りきった先にある。
「あのアパートだな」
一弥は由良の担任から教えてもらった住所のアパート名と一致する建物を見つけると、少しだけ歩く速度を早めた。
由良はどうしているだろうか、今はそれだけがとにかく心配だ。
ポストには今朝の新聞が入ったままだった。部屋の窓もカーテンで閉め切られていて中は暗い。一見すると人の気配はなさそうだった。
「もしかして、留守かな?」
とりあえずインターホンを押してみる。
一回。
出ないので、二回……。
三回目を押したところで、右隣の玄関ドアが開いた。顔を覗かせたのはエプロン姿のおばさんだった。夕食の支度でもしていたのだろうか。
「由良さんのとこは、誰もいないわよ」
何度も鳴らしたことがうるさかったのか不機嫌そうに眉を顰めていたおばさんだったが、一弥が学生だと気づくと一変して品定めするかのように目の色を変えた。
「あなた、もしかして奏ちゃんの彼氏?」
「へ?いや、違いますよ。知り合いです。後輩の親が亡くなったって知ったので…」
「へえ、最近の若者にしては気が利くわね。でも、奏ちゃんは親戚のところに行っているから、ここにはいないわよ。葬儀の準備とか色々あるからね」
「そうですか…」
残念だが、いないのならどうしようもなかった。
「気の毒よねぇ。あの親子とても仲が良くて、うちの主人が憧れていたくらい理想の家族だったのにね。酔っぱらいは本当に迷惑よねぇ」
踵を返そうとした一弥の足が止まった。
「酔っぱらい?」
一弥が問い返すと、おばさんは「あらやだ。そこまでは知らない?」と不謹慎だが、少し嬉しそうに顔を輝かせた。見るからに教えたくてたまらないといった顔をしている。
「勇さん、線路に落ちた酔っぱらいを助けて電車に撥ねられたんだって。人を助けて自分が犠牲になるなんて、それじゃただの身代わりじゃない?残されてしまった奏ちゃんが本当に可哀想だわ。これからどうするのかしらねぇ」
おばさんは心配そうにカーテンの閉め切られた無人の部屋に目を移した。
「……」
一弥もつられてその部屋を見る。
一人の身勝手な行動が他の人の人生を狂わせ、それは派生するかのようにその身近にいるすべての人間に影響をもたらす。その流れを阻止する術をもし、人間が持っていたのなら、悲劇という言葉は生まれていなかったはずだ。
生きている限り、人は悲劇と向き合わざるをえない。だが、それは辛く苦しいもの。
一弥が背負った悲劇。由良が抱えた悲劇。
悲劇は様々な形で人の心を苛む。
だが、悲劇を乗り越えることもまた、人にしかできないことだ。
一弥は考えていた。
由良には、この悲しみをがんばって乗り越えてもらいたいと。自分のように選択を間違えないように。だから、ほんのわずかでも力になれることがあれば、遠慮なく自分を頼ってほしいと。
だが、一弥の想いは由良に届く機会を失い、親を亡くした少女は精神的支柱を失ったショックですべての現実を拒絶してしまう。
それが、新たな悲劇をも生み出すということに気づかずに――無意識のうちに。