2,ある親子の絆
日曜日。
緋晶湖の西部に位置する街、叶市。
その中心地、叶駅近くの飲食店が多く立ち並ぶその一角。
こじんまりとしたイタリア料理レストランに由良奏とその父、勇の姿があった。
今日は、勇の四十五回目の誕生日だ。父に驚いてもらえるような誕生祝いにしたいという願望を胸に、由良は一年前からコツコツと貯金をしてきた。
その甲斐あって、なかなか行くことのできないイタリア料理のディナーに父を誘うことができたのだ。
母を小さい頃に病気で亡くした由良にとって、勇は唯一の家族だ。勇は仕事と育児を両立させ、親類に頼ることなく由良を男手一つでここまで育ててきた。その苦労は並大抵のものではない。しかし、由良は何一つ不自由のない生活をしてこれた。それは父のおかげだ。身を削って自分を育ててくれた父のことが由良は大好きだ。
ずっと自分の成長を助けてくれていた父に、少しずつでも恩返しがしたい。その想いがようやく一つ、叶ったのだ。
初めてのコース料理は由良には少しハードルが高かったが、勇にマナーを教わりながら楽しく食べることができた。
全ての料理を食べ終えると、勇は静かにフォークとナイフを皿の上に置いた。
その顔は由良が願った通り、至福に満ちていた。
「ご馳走様、奏。とっても美味しかったよ。まさか、奏がコース料理を食べさせてくれるとは驚いたよ」
「びっくりした?」
由良は嬉しそうに尋ねる。料理はどれも食材が凝っていて美味しかった。見た目も芸術品のようにきれいで食べてしまうのが勿体ないくらいだった。
しかし、由良のサプライズはこれで終わりではない。
「ふふ、それだけじゃないんだよ?」
「まだ、何かあるのかい?」
勇の言葉に由良は満面の笑みで頷く。そして、バッグの中から手に乗るサイズの箱を取り出した。なにやら大層な包装が施されている。
「わたしからの誕生日プレゼント。父さん、いつも本当にありがとう」
料理以外にプレゼントまであるとは予想してなかった勇はすぐに言葉が出てこなかった。由良から箱を受け取り、開けるよう促されて、緊張気味に箱を開ける。
中身は、腕時計だ。
「これを、私に?」
「うん。さっそく着けてみて!」
言われるままに腕時計を身につけてみる。派手すぎず、シックで文字盤も見やすく、しっくりと腕に馴染んだ。
反応は勇より由良の方が大きかった。由良は目を輝かせて、
「やっぱりわたしの目に狂いはなかった!父さん、すごく似合っているよ!」
「うん。確かに良い時計だ」
「カッコいいよ」
「そうか?正面切って言われると、照れるなぁ」
勇は改めて、目の前に座る自分の娘を見た。
色々と苦労はあったが、頑張って育てた甲斐あって、誰にも恥じない良い娘に成長してくれた。親馬鹿といってしまえばそれまでだが、とにかく奏が元気でいてくれているのならこれ以上ない幸せだ。亡き妻も天国で喜んでいてくれるだろう。
「奏、最高の誕生日をありがとう」
「父さんが喜んでくれて、わたしも嬉しいよ」
二人笑みを交わすと、勇が何気なく椅子から立ち上がった。お手洗いかと思い、その後ろ姿を見つめていた由良だったが、ふとあることに気づき、慌てて立ち上がった。
勇がズボンのポケットから財布を取り出そうとしたのを由良は見逃さなかった。
「父さん!今日はわたしが出すって言ったでしょう。心配しないで」
「ハハハ、バレちゃったか」
腕を引っ張る由良に勇は苦笑いした。
「じゃ、改めてお言葉に甘えるよ」
「うん。わたし、会計してくるから外で待っていてね」
由良はにっこり微笑むと、勇の背中をグイグイと押し出した。至福のひとときを父と過ごすことができて、由良の表情はいつになく明るい。
由良が会計を済ませ店の外へ出ると、勇は人の行き交う駅前広場を何か思うところがあるように眺めていた。駅から流れてきた人は或いはタクシーに乗り、或いは集団になって夜の街へと向かっていく。都会ほど派手ではないが、街を彩る電飾に照らされた通行人たちの顔は皆楽しげに見える。
父さん、と由良が隣に並ぶと、勇はその胸中を口にした。
「私は奏に気を遣わせてばかりだな。今一番遊びたい盛りじゃないか。そんな貴重な時間を私なんかと過ごしてしまって……」
「父さん。わたしは全然そんなこと思ってないよ」
由良は勇に最後まで喋らせなかった。その先の言葉は聞きたくなかった。
「父さんといる時間がわたしは一番好き」
正直な気持ちを、由良は父に伝えた。勇はこれ以上ない程、その言葉が嬉しかった。
「私は、奏に救われているな。いい娘に育ってくれて、本当にありがとう」
娘の肩に手を置くと、由良もそれに応えるように身を寄せた。
叶駅構内。休日ということもあり、午後七時を回ったこの時間帯でもホームにいる人の姿は多い。手に持ちきれないほどの荷物を持って疲れた表情を見せる家族。別れを惜しむ恋人たち、そして友人と思われる者たちが輪になって談笑している。ベンチには休日出勤と思われるスーツ姿のサラリーマンが無防備に眠りこけていた。由良たちもその中に混じって、帰りの電車の到着を待つ。
三番線に上り電車の到着を告げるアナウンスがホームに流れる。
由良たちが待っているのは二番線の下り電車で、到着までまだ時間がある。ここは都会のように電車の本数は多くない。上下線共に一時間に一本から二本程度で、タイミングによっては随分な待ち時間が発生する。
「父さん、座って待っていようか」
ちょうど空いているベンチを見つけて、二人はそこに座った。
「奏。苦労させてしまった分、私はお前が幸せになってくれればと本当に思うよ」
「えッ?」
勇がふと口にした言葉。言葉の意味を数秒経って理解した由良は、途端に顔を真っ赤に蒸気させた。あまりに唐突なことすぎて、頭が軽いパニックを起こす。
「と、父さん。いきなりなに言ってるの。そんなのまだ先の話だよッ――」
そのとき、三番線に電車が到着し、ブレーキの音が由良の声を掻き消した。
瞬間的に頭に思い浮かんだのは由良が『センパイ』と慕う一弥の顔だった。だが、自分が一方的に好意を寄せているだけなので、自分からことを起こさない限り今以上の進展はないことは分かっていた。一弥は、先輩として後輩である由良を気にかけてくれているだけなのだ。もどかしいが、自分の告白一つで、今の関係が崩れてしまったらと思うと、由良はこのままでもいいかもしれないと心のどこかで妥協していた。しかし、そこを不意に突かれてしまうと、ついつい興奮して顔が熱くなった。
もぅっ、とむくれる由良を勇は微笑ましく見つめた。
二人の背後を複数の人間が行き交う。笑っている声や、怒っている声、ジョークを飛ばしている声、はしゃぐ子供の声。様々な人の感情が電車から降りてくる。
そして、ベルの音が鳴り、三番線から電車が発車する。
「――ねぇ、父さん」
もし好きな人がいる、と答えたら父は背中を押してくれるだろうか。と由良は本音を口にしようとした。
ところが、それを遮る異臭が鼻をついた。
由良の横をフラフラとおぼつかない足取りの青年が通り過ぎたのだ。
「…んッ」
アルコールの匂いに由良は思わず口を閉ざし、顔を顰めた。咎めるような目で、青年を見る。顔が赤く、目は焦点が定まっていない。明らかに泥酔している。
何この人、と由良は場所を変えようとした。
すると、由良の視界に映っていた青年の姿が、突然消えた。
「えッ?」
何が起きたのかと思った。
由良たちは二番線と三番線を挟んだベンチに座っている。その両側は線路だ。
青年は消えたのではない。
線路に、落ちたのだ。
「父さん!?」
誰よりも早く動いたのは勇だった。
勇は躊躇いなく線路に飛び降りると、落下の衝撃で悶える青年の体を支えて、持ち上げた。
「おい、ヤバイぞ!列車が来るッ」
誰かが叫んだ。ほぼ同時に二番線に電車の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
線路に落ちた青年を目撃していた者達が集まり、勇の手から青年の体を引っ張り上げる。
由良は、ただただ突然起こった目の前の状況に混乱し、頭が真っ白になっていた。青年を無事ホームに引き上げた者達が今度は勇を助けようと手を伸ばす。
線路の向こうから電車の音が聞こえてきて、由良はようやく現実に意識を戻した。
「ッ――父さん!!」
早く助けないと。
早く、早くッ
由良は誰よりも勇に向かって大きく手を伸ばした。
父の手が触れる。
しっかりと掴む。
もう離さない。
あとは引き上げるだけ――
間に合って――――
「これ以上は危ないぞ!!」
大勢の人の力を借りて、父の身体がようやく持ち上がりはじめた直後、由良の体は強い力によって後ろに引っ張られた。
「――あッ」
父の手が、急に遠のく。
父さん――ッ。
そして、鼓膜が破れるかのような甲高いブレーキ音が由良の耳を劈いた。