4,ある少年の告白
梶のスマホに一弥からメールが届いたのは、六時間目終了直後のことだった。
本文には『話したいことがある』という短い文章と、待ち合わせ場所が書かれていた。
一弥が指定した場所はすぐにぴん、ときた。先日、一人で訪れたあの廃教会だった。どうやらそこはお互いにとって箕雲桐生と繋がっていた証ともいえる思い出深い場所のようだ。梶はクラスメイトの買い物の誘いを断って、逸る思いを胸に足早に学校を出た。
追い求めていた真実がようやく明かされるという期待の一方で、同時に知ることの恐怖も少なからず感じつつ――。
「――梶。来てくれたんだな」
雑木林に囲まれた廃教会の前で、一弥は扉に寄りかかるように立っていた。その表情は疲れた様子だったが、梶の姿を見つけるとほっとしたような笑みを浮かべた。
「中に入ろう」
一弥は扉を開けて、梶はそのあとに続いた。二人の息づかいと、床を踏む靴音が静寂に包まれた教会内部に響く。
「この場所、分かっていたみたいだな」
「うん。桐生は小さい頃からここを隠れ家に使っていたから。ボクもよくここで一緒に過ごしていたよ」
「相当お気に入りの場所だったんだな。学校にいないときは、大抵はあいつここで過ごしていたようだし。……ここは、あいつにとって一番心安らげる場所だったのかな」
一弥は小さく笑うと、一転して辛そうに目を細めた。
「……さっきは、ウソついてゴメン。俺の知っていることを全て話そうと思って、呼び出したんだ。――辛いと思うけど、最後まで聞いてほしい」
「うん、お願い」
悪いな、一弥は文句の一つも言わずに受け入れてくれた梶に感謝しつつ、一つ一つ噛み締めるように話し始めた。
桐生との出会い。突然の失踪。そして、一年ごしの緋武呂での再会について。
「本当にあの時は驚いた。一年近くまったく連絡がつかない状態だったのに、街中で偶然すれ違うなんてさ。無事だったことはとても嬉しかったけど……あいつは変わっていた。
いや、変わり果てていたって表現の方が正しいのかもしれない。再会したときのあいつは随分やつれていたし、意識もはっきりしていない感じで。なんて言ったらいいのかな……とにかく普通の状態ではなかった」
当時のことを思い出しているのか、その瞳は困惑に揺れていた。
「けど、日が経つにつれて俺の知る桐生らしさが戻ってきたんだ。それでとりあえず一安心したんだけど……。ある日、寝泊まりしていたネットカフェで桐生が騒ぎを起こしたんだ」
一弥は直接その現場に居合わせたわけではないらしく店の人に聞いた話では、と付け加えた。
「相手は男性二人組で……。そいつらは、桐生を探していたらしい。その男たちと桐生の間に何があったのかは分からない。だけど、桐生はその二人組から逃げたみたいだ」
一弥の話は詳細で、ウソをついているようにはとても思えなかった。だが、鵜呑みにするには疑問が多すぎて、梶は話を整理するのに少し時間がかかった。
「ちょっと待って……。男性二人組ってのは初めて聞いたよ。桐生のおかしな状態といい、追われる立場といい、桐生はなにかに関わっていたのかな?」
首を傾げる梶に、一弥も首を振って、
「さあ、そこまでは。ただ、その話を聞いてようやく気づいたんだ。再会したときから感じていた桐生に対する違和感の正体を」
一弥は再び姿を消した桐生を探して、この廃教会にやって来た。なんのあてもなかったが、桐生ならきっとここに来るだろうと思ったのだ。
しかし――
「教会で、何が起きていたと思う?」
一弥は辛そうに顔を歪めて、
「人が倒れていた。死んでいたんだ…。桐生を捜していた奴らだった」
一弥はあえて、そのとき目撃した<黒い化け物>については口に出さなかった。言ったところで、ゲームに出てくるモンスターのような非現実的な存在を梶が信じるわけがないと思ったからだ。一弥自身も混乱していて何かを見間違えたのではないかと信じ切れないでいたせいもある。
「……桐生は、そこにいたんだね」
梶は、一拍間をおいて訊ねた。その言葉の意味は一つしかない。
「そうなんだ。桐生が男たちを殺していた」
一弥はそこで一端口をつぐみ、蜘蛛の巣が張り巡らされた天井を切なげに見上げた。
「――どうしたんだって、俺が聞いたら、あいつ『全員、オレが殺した』って言った。そして、笑ったんだ。怖いくらい無感情な哄笑で、不気味だった。人を殺したのに、あいつは笑ってた。俺には桐生の心理が理解できなかった。……すごく怖かった」
一弥は強い疲労を感じながらも、梶に真実を、自分自身にけじめをつけるために気力を振り絞った。
だが、ここからは核心に迫る話になり、一弥にとって心苦しく、また勇気がいる行為だった。桐生の死を意識するほど比例するように激しくなる痛み。それは隠してきたことの当然の報いなのかもしれない。
「……あいつに俺の声は届かなかった。桐生は持っていた拳銃をなぜか俺に突きつけてきた。どんなに声をかけても、桐生は聞いてくれなかった。
どうすれば桐生を止められる?
考えた結果が、桐生に拳銃を突き返すことだった。俺は足下に落ちていた拳銃を拾って、そして……。今思うとなぜそんなことをしようとしたのか自分でも分からない。けど、それで思い止まってくれるとあの時は思った。正気に戻ってくれると思った。
なのに……それなのにッ!!」
一弥は興奮気味に声を荒げると、一変して怯えるように頭を抱えた。
「桐生を撃つつもりはなかったんだ。……ただ、止めたかっただけなんだよ。それだけ、だったのに……。俺は死が怖くなって桐生を撃ってしまった」
自分は引き金を引いてしまった。友人を救いたいという願いがありながら、身に迫る死の恐怖に負けてしまった。
「……八クン」
力なくうなだれる一弥は人を殺した絶望よりも、一人の友人を救えなかった後悔で一杯だった。
「…………」
桐生を殺した張本人がすぐそばにいる。
だが梶は、一弥を一方的に咎める気にはなれなかった。
それは、同情――だったのかもしれない。一弥と梶、互いに桐生を想い、そして拒絶された。二人の境遇は似ていた。
それに、一弥本人も気づいていない彼が抱える痛みの正体を、梶はすでに知ってしまっていたから――。
「ねぇ、八クン」
梶は、罪に苦しむ一弥にそっと囁きかけた。
「【疵】って、知っている?」
「き…ず…?」
一弥の震える唇がその名を紡いだ直後、空気が一変した。
「――ッ」
全身が総毛立ち、得体の知れぬ恐怖が、一弥をがんじがらめにした。
なにかが自分を見ている。
誰だ。何者だ。その視線の正体を知りたいと思う一方で、知りたくない思いもまた浮上してくる。
クゥゥゥゥゥゥーン
「!」
突然聞こえてきた獣の遠吠えは、一弥を嫌が否にも反応させた。
壊れかけた扉の前に、何かが立っている。
漆黒の体に、血のような深紅の眼がギラギラと光っていた。それは動物に似ていて、しかしどの類にも属さないフォルムをもった――化け物。
「……おまえは」
一弥は、思わず息を呑んだ。
ソレに似た化け物を一弥は見たことがあった。そう、桐生を追ってやってきた廃教会で遭遇したあの黒い化け物だ。
「なんで……?」
一弥の瞳が驚愕で見開かれる。
「――それは、ケモノよ」
教会内部に一弥のものでも、梶のものでもない第三者の声が突然、響いた。
「誰だ!」
唐突な出来事に、一弥は過敏に反応した。しかし、第三者の声はまったく落ち着いていた。
「あら、驚かせてしまったかしら?……まぁ、当然の反応ね」
薄闇に包まれた空間に、人影が動く。
月を覆い隠していた雲がまるでその声に反応するかのように消え去り、月光が室内を淡く妖しげに照らし出す。
「あんたは……」
一弥は、なぜここに…と呟いた。思わぬ人物がそこにいた。
月のスポットライトに照らされて現われた人物に、一弥は見覚えがあった。
すらりとした長身を包む紫のライダーススーツ、顔を覆うフルフェイスのヘルメット。
その人物は、一弥が数日前に道案内をしたワインレッドのハーレーに乗っていた女だった。
「久しぶりね、少年」
女はヘルメットを脱ぐと、あらわになった彫刻のようなその美しい相貌に余裕のある微笑を浮かべてみせた。
腰まで届く艶のある黒髪が風に揺られ、たおやかに靡く。
「……どうして?」
一弥は完全に困惑していた。ここを知る者は、桐生に関わっていた人間しかいないはずだった。まして、女は緋武呂のことをよく知らないはずなのだ。なぜ、そのような人間が今、このタイミングで現れるのか?
「梶、なのか?」
一弥は、隣に座る梶の顔を伺った。梶は「ごめんね」と小さく呟き、立ち上がった。
梶と入れ替わるように女がブーツの踵を鳴らして、一弥の前に立った。ぴんと伸びた背筋。胸を突き出し、左手を腰に当てた姿はまるで威風堂々とした女王の立ち姿を思わせる。
「……警察、か?」
「違うわ。アタシは〈ケモノ使い〉」
「ケモノ…使い?」
「そ。簡単に言うとオイタをするケモノを捕まえて、本来の飼い主に引き取ってもらう仕事をしているわ」
自らを〈ケモノ使い〉と名乗った女はそう言うと、扉の前で動きを止める漆黒の化け物を一瞥した。
「あれが、〈ケモノ〉。そして、あのケモノはキミの心が生み出したものよ」
「!」
「自分が一番よく分かっているハズよ。あれが何であるのかを」
ケモノ使いは、諭すように口を開く。
「――ケモノは、人の心が負ったトラウマ【疵】が、外界に顕在化した存在。痛みを抱えたまま生きるのは誰だって辛い。苦痛から逃れたいと思うのは必然。ケモノは、そんな逃避の意思によって、追い出された痛みが形を変えたモノ。
キミの心を苛んでいる”原因”、そのものよ」
「疵……」
一弥は苦しげに顔を歪ませると、制服の上から胸を鷲掴みした。ケモノ使いの言っていることはよく分からなかったが、【疵】という単語だけは一弥の心を深く抉った。
【疵】とは――桐生を殺したことに他ならないから。
一弥は、救いを求めるようにケモノ使いを見上げた。
「俺は……」
言い淀む一弥に、アリシアは励ますように、優しく言葉を紡ぐ。
「キミの勇気は大したものよ。【疵】を自ら告白することのできる人間はそうはいない。
キミがどれだけ足掻いても、過去を塗り替えることはできない。けれどキミは今、一つの勇気を示した。それは自身の【疵】に向き合い、その【疵】を克服していくことができる原動力となり得る。逃げるのではなく、受け入れるのよ。そしてもう一度立ち上がるの。アタシは、そのお手伝いをしてあげられる」
「……」
一弥は、自分の手のひらをじっと見つめた。桐生を撃ったときのあの感覚は今でも鮮明に覚えていた。忘れたいと思ったことは何度もある。だが、あの衝撃は体がけっして忘れさせなかった。そして、記憶も――。
一弥は目を閉じ、力を込めるように手を握りしめた。衝撃を忘れるのではなく、刻みつけるように――。
「俺は……桐生の分まで生きたい。それが俺にできる唯一の償いだから」
その短い言葉に込められた決意を感じ取ったケモノ使いは、満足そうに一弥に微笑みかけた。
「恐れることはないわ。ケモノはキミの心のカケラ。キミが【疵】と向き合うことを望むのなら、ケモノはそれに応える」
「……」
一弥は静かに立ち上がると、ケモノに向かって足を進めた。不思議と恐怖は消え去っていた。
そして、気づく。
ケモノが扉の前から動かなかった理由を。その漆黒の体を、青白い光を放つ鎖が拘束していた。
そして、弾けるような音が響くと、ケモノの体を束縛していた鎖が砕け散った。その様は、蛍が闇夜に舞う幻想的な光景を彷彿とさせ、一弥の緊張を和らげた。
「……ごめんな」
一弥は、自分を威嚇するケモノに向かって、そっと手を伸ばした。
ケモノは今にも噛みつかんばかりに牙を剥き出しにしていたが、一弥の指先がケモノの鼻先に触れた途端、ケモノは急に大人しくなると頭を上げ、クゥーンと一声吠えた。
その叫びは、一弥の心に深く、深く浸透していく。
現実を受け入れられず、自分がしてしまったことを否定しようと足掻いた、痛みから逃れるための逃避。
ケモノの遠吠えは、一弥の嘆きそのものだった。
それは間違いなく、自分の心の叫びだった。
そして一弥は、桐生の最期の言葉を思い出した。心の奥底に追いやっていた、友人が最後に残したメッセージ。
『一弥、オレに関わったこと、後悔しろ』
なぜ、桐生は自分に銃を向けたのか?
そして、どういう意味でその言葉を自分に告げたのか?
桐生の真意は何一つ分からないまま、考えようともせず、現実から目を背けていた。
しかしケモノと対峙することで、一弥は一つの答えに辿り着いた。
あのときできなかった返事を。
「桐生、俺は一度だって後悔なんてしてない」
その瞬間、一弥は新しい一歩を踏み出した。