3,ケモノ
約一年前。一人の少年が死んだ。
その少年の名は、箕雲桐生といった。梶眞綾のかつての幼なじみだった。
いつ?どこで?死因は?
なにひとつ明らかにならないまま、ただ『死亡』という二文字だけが梶の元へ届いた。
数年ぶりにあいつの声が聞きたい――そう思い立って、連絡を試みた結果がそれだった。
六年前。まだ緋武呂にいた頃、梶の両親は仲が悪く口喧嘩が耐えなかった。ひたすら耳をふさいでその時が過ぎ去るのを我慢するしかない梶にとって、唯一自分の声を聴いてくれるのが箕雲桐生だった。
桐生は、辛い現実にも目を逸らさず立ち向かおうとする勇気をもった少年だった。梶と桐生の境遇は似ていた。桐生は母に対する父の暴力に悩んでいた。互いに同じような無力な立場でありながら、桐生はつねに梶を心配してくれた。傍にいるだけで安心感を与えてくれた。泣く術しか持たない梶の手をいつも無言で握ってくれていた。
だが、ある日を境に桐生を取り巻く状況は一変し、桐生自身の心をも変えてしまった。
自分を押し殺し、他人を拒み、無気力な少年に変貌してしまった。
その原因を梶は母親から聞かされ、二度と接触をするなときつく言われた。しかし、梶はそれを無視し続けた。桐生本人にも拒絶をされながらも、彼の傍にいることをやめなかった。
桐生の根本は何一つ変わっていないと信じて。いつか、元の桐生に戻ることを切に願ってやまなかった。
梶の中の桐生の記憶は、小学五年生の時点で止まっている。両親の離婚を機に緋武呂を離れたからだ。必然的に桐生との連絡も絶たれた。
しかし、いくら年月が経とうとも、梶は桐生の存在を忘れたことはなかった。
恋、だったのだろう。
梶は桐生の死を知って、初めて自分の気持ちに気づいた。だが、もう想い人はこの世にはいない存在になっていた。永遠に手の届かない存在になってしまっていた。自分も死ねば、天国で会えるかもしれなかったが、梶はその前にしなければならないことに気づいた。
桐生の死は、あまりにも曖昧だった。ただ『死んだ』という事実だけで、すべてを片付けられていた。明らかにするべきことは沢山あるはずなのに。
「箕雲桐生は死んだ。だから、早く忘れろ」まるで、なかった存在のような扱いだった。
そんな不明瞭なままの死など、梶は受け入れられなかった。桐生の死を知って、誰か一人くらいその死亡原因に疑問を持ちそうなものだったが、誰一人疑問を口にする者はいなかった。
それは皮肉なことに桐生が他人を拒んでいたように、周りの人間も桐生を同じ人間として見ていなかったからだ。まるで、化け物でも見るかのような目で桐生を見ていた連中の中、ただ一人、同じ人間として桐生を見ていたのは梶だけだった。
梶に味方する人間は一人もいなかった。だから、梶は一人で桐生の死の原因を探ることにした。友人、家族、そして自分。すべて捨ててでも、桐生の死の真相を知りたかった。
梶が衝動に突き動かされるままに調査を初めて数ヶ月。その執念の甲斐あって桐生の死に関わっていそうないくつかの情報を手に入れた。
一つは、桐生が一年に渡って失踪していたこと。そして、死ぬ直前に緋武呂に戻ってきていたこと。
二つ目は、他人を寄せ付けなかった桐生が中学時代、唯一親交を持っていたという人物、八一弥の存在だ。
桐生に友人がいるというだけでも信じがたいことだったが、桐生が緋武呂に姿を現した際、一緒に行動していたという情報を得たことで、暗中模索にようやくの一筋の光が差し込んだ。
躊躇いはなかった。
緋武呂高校への転校も、二年C組への編入も、すべては八一弥に接触するため。好意的に接していたのも、早く打ち解けて本人の口から、彼の知り得る桐生のすべてを聞き出したいが為だった。
「悪女だよねぇ…ボク」
梶は自嘲の笑いをもらすと、手に持ったスマホを操作した。書きかけで保存しておいたメールを開き、彼宛てに送信する。
「さて、準備は完了。きっかけは作ったし、あとはどこまで聞き出せるかな」
梶は期待を滲ませた瞳で、改めて廃教会内部を見回した。
桐生との思い出が唯一その形を変えずに残る場所――。街灯も届かない、ただ星と月が放つ淡い光に照らされた室内は現実と幻想の狭間にいるかのような錯覚を抱かせる。桐生が、すぐそばにいる感じがする。
「桐生ならきっと『余計なお世話だ』って言うだろうね」
梶は名残惜しい気持ちを抑えて、廃教会を後にした。林に囲まれた薄暗い夜道を一人歩く。車の通りは少ない。心細くはなかったが、等間隔に設置された電灯が足下を照らすたびになぜだかほっとした。
「――ん?」
不意に梶の足が止まった。近くで、車が急ブレーキをかけた音が聞こえたのだ。
「事故…?」
梶は眉を顰め、そして、次の瞬間には音がした方角へ向かって走り出していた。
道まで出ると少し先で一台の車が、林に突っ込んでいた。路面にはブレーキをかけた跡が白い軌跡を描いている。単独の事故のようだ。
梶は現場に近付いた。運転手が怪我をしている可能性があるので、それならば助けようと思っての行動だった。
運転席のドアは開いていた。しかし、車内に人はいなかった。辺りを見回していると、どこからか人の呻き声が聞こえてきた。林の中からだ。
「なんだろう…?」
梶は、ごくりと唾を呑んだ。なぜだか、得体の知れない恐怖を感じる。しかし、心の反応に対して、梶の身体は動いていた。
鬱蒼とした林の中に足を踏み入れる。
「うぅ…うあぁ」
奥へ行く程、呻き声は段々とはっきり聞き取れるようになってきた。梶は警戒心を徐々に強める。
すると今度は獣らしき唸り声が、うめき声に混じって聞こえてきた。
野生の獣が、運転手を襲っている?
一瞬そんな考えが頭を過るが、再び獣の声を聴いた瞬間、違うと直感した。
獣?の声が、笑っているように聴こえたのだ。
あまりに不気味な声に、全身が身震いした。
喜んでいる?何に?
梶は数秒立ち止まったが、近づくことを止めなかった。音の正体が何なのか確かめたいという好奇心が恐怖に勝っていた。
「――ッ!」
ようやく視界に音の正体を捉えた梶は、言葉を失った。
梶の視線の先には、泡を吹いて倒れる作業着姿の男性がいた。
そして、その上に馬乗りになっている――闇よりなお濃い、漆黒のシルエット。
人、ではない。かと言って、獣とも言い難い奇妙な姿をしていた。
グゥルル――
呆然と立ちつくす梶に気づいた漆黒のシルエットがもそりと動いた。
梶にむかって首をもたげたソレは、動物の『イヌ』に似た形をしていた。
ぴんと尖った耳と突き出た鼻。すらりと伸びた四肢。左右に揺れるゆったりと膨らんだ尻尾。
だが、その全身を覆うのは体毛ではなく、墨のように塗りつぶされた黒。陰影はまったくない。影絵を立体的にしたらこのような姿になるのだろうか。のっぺりとしていて、質量を感じさせないまるでゲームに出てくる魔物のような不可思議なフォルムをしている。
そして、もっとも特徴的であったのは、化け物の頭に当たる部分に輝く――血を連想させる深紅の目。
とても非現実的で、醜悪な姿をした化け物。
その目に睨まれた途端、全身を無数のナイフで刺し突かれたかのような殺気が梶を襲った。
「うぐっ」
未だかつて味わったこともない殺気は、梶の身体を硬直させるには十分だった。一瞬で、足は鉛のように重くなり、警鐘を鳴らしていた脳は麻痺してすべての思考を受け付けなくなった。
化け物は梶を威嚇するように口を大きく開けた。
「!!」
そして次の瞬間、化け物は梶目がけて、一気に跳躍した。
刃のような剥き出しの牙が梶の眼前に迫る。
――喰われるッ!!
そう感じた直後――
「動かないで!」
声が聞こえた。
立ち竦む梶のすぐ真横を青白い閃光が突き抜けた。衝撃で、髪が勢いよくさらわれる。
閃光は狙ったように化け物に伸び、そのままぶつかるかと思われたが、化け物は接触寸前でそのしなやかな体を反らし、直撃を回避した。しかし、閃光はまるで生きているかのように急旋回すると、蛇のような動きで化け物の足に絡みついた。
化け物は唸り声を上げて藻掻くが、絡みついた閃光は化け物の身体を容赦なく締め上げ自由を奪った。やがて、化け物は力尽きたようにその場に倒れ込んだ。
「あぁ…」
ようやく殺気の呪縛から解放された梶は糸が切れたように地面に座り込んだ。全身が汗でべっとりと濡れていた。
「助かった?」
「――運がよかったわね。アタシに感謝すること」
声に導かれるように後ろを振り返るとそこには、背の高い紫のライダーススーツを身に纏った女が立っていた。
驚いて見上げる梶に構わず、女は肩にかかった髪をさっと後ろに払うと、すらりとした脚を優雅に動かしながら、梶の横を通り過ぎていった。
「さぁ、これでもうオイタはできないわよ」
女は平然とした様子で化け物に近づくと、「観念なさい」と口端をつり上げた。
いつの間にか、化け物の体には青白く発光する鎖が巻き付き、身動きがとれないように拘束されていた。
梶は化け物と女を交互に見つめながら、女に向かって問いかけた。
「……これは、なに?」
「アタシたちは、〈ケモノ〉と呼んでいるわ」
「ケモノ?」
「一般人のアナタには関係のないモノよ。早く忘れてしまった方が幸せだわ」
女は梶の問いを強制的に退けると、今度は化け物の背後に倒れている作業着姿の男性に近づき、屈み込んだ。男性の呻き声はすでに消え、微動だにしない。
「死んでいる?」
「生きてはいるけれど…しばらく意識は戻らないでしょうね」
女はそう言って、白目を剥きだしにする男性の瞼を閉じてやった。
「さっきの化け物の仕業ってこと?」
「ノーコメント」
女は、小さくため息をついて梶を振り向いた。
「アナタのおかげでアタシの仕事は思ったよりスムーズに済んだけれど…フゥ。目撃者がいるってのはホント厄介ね。特にあなたみたいに好奇心が強いタイプは、ね」
「それが生き甲斐みたいなものです」
困り顔をする女に向かって、梶はニコリと笑ってみせた。先ほどまでの恐怖は微塵も感じさせず、その瞳は好奇を前にして生き生きとすらしていた。
「あの化け物は一体、――何ですか?」
□■□■
翌日。
「いーちーや。どーした?今日は元気ねぇじゃん」
「うん?…あぁ」
三時間目と四時間目を挟む十分間の休憩時間。一弥が机に頬杖をついてぼんやりしていると、葛城が一弥の前の席に移動してきてどかりと椅子に腰を下ろした。心配そうに一弥の顔を覗き込む。
「んん、悩みか?恋の悩みだったらオレがいくらかアドバイスできるぞ」
一弥を気遣って、気分を紛らわそうと冗談を言う葛城に笑いかけつつ、「ハズレ」と一弥は手を振った。
「大したことじゃない。心配しないでくれ」
「ふぅん…。ま、あまり一人で考え込むなよ。愚痴くらいならオレも聴いてあげられるからよ」
「ありがたいこって」
葛城を真剣に心配させてしまうほど、自分は深刻な顔をしていたらしい。これ以上、余計な心配をかけさせてはいけないと一弥は気持ちを入れ替えるために、顔を洗いに教室を出た。トイレまで行って帰ってくる時間はまだある。
蛇口をひねり、冷水を顔にぶっかけた。まとわりつく不安を少しでも拭い去りたかった。昨日の夜から体調が優れない。何をするにも億劫にしか感じられないのだ。
「……ふぅ」
気休め程度の効果だが、それでも気持ちがいくらか落ち着いた。鏡に映る自分に気合を入れるために手で頬を叩いた。
「しっかりしないと」
教室に戻ると、もうすぐ四時間目のチャイムが鳴る時間だというのに、教室から梶が出てきた。
「あ、八クン」
梶は一弥を見て立ち止まると、同じく立ち止まった一弥にそっと近づき、突然小声で耳打ちをしてきた。
「ね、昼休み屋上に来てくれないかな」
「えッ…?」
心臓がドキリと音を立てた。思いも寄らぬ呼び出しに一弥は戸惑った。先ほどまでの不安が、気合がぼろぼろと崩れていく音がした。
「どう?」
「べ、別に構わない…けど」
自分の声が上擦っていることにも気づかず答える一弥を、梶は面白そうに見つめて、「よかった」と微笑んだ。
「――大切な話があるんだ」
そして昼休み。
一弥は昼食を早々に済ませると、期待と不安を胸に教室を出た。いつも一緒に食べているメンバーには行動を怪しまれてしまったが、そこは強引に吹っ切ることでなんとかクリアー。だが、念には念を入れて背後の警戒も怠らなかった。
立ち入り禁止の札がぶら下がる柵を乗り越え、屋上につながる階段を上がる。半開きのドアの隙間から真昼の強い陽射しが差し込み、薄暗い階段はほんのりと暖かくなっていた。
「待ってたよ。八クン」
一弥が屋上に足を踏み入れるとドアの正面、手摺りに背中を寄せて待っていた梶が、薄く微笑んだ。
何かを企んでいるかのような含んだ笑みに、一弥の心がざわりと揺らめいた。期待というより、不安を予感させる意味深な笑みに思えた。
「話って、なんだ?」
眉をひそめる一弥に梶は右手の人差し指をぴん、と突き立てた。
「その前に一つ」
「一つ?」
首を傾げる一弥。
梶は、一弥の表情の変化を一瞬でも逃さんと目を鋭く光らせた。
「昨日のメールは読んでくれた?」
「メール…?」
『箕雲桐生を覚えているか?』
「……あれ、梶が送ったのか……?」
一弥の問いには冷たい響きが込められていた。梶は何も言わずに頷く。一弥がほんの一瞬、下を向いたところを梶は見逃さなかった。
「……誰から、俺のメールアドレスを聞いた?いや、そんなことはどうでもいいんだ。あのメールは、なんのつもりだよ?」
言葉に警戒心を滲ませながら、一弥は梶の真意を探ろうと神経を尖らせた。
「キミ、桐生と知り合いだったでしょう。だから、ボクの知らない桐生のことを教えてほしいと思って」
淡々と理由を述べる梶に、一弥はしばし頭の中が混乱した。
梶の言う通り、一弥と箕雲桐生は中学時代のクラスメイトだった。親しくしていたのも事実だ。しかし、緋武呂を離れていた梶が、なぜそれを知っているのか?梶と桐生はどんな関係なのか?
「……調べたのか?俺のこと」
「うん。勝手に調べたことは悪いと思ってる。けれど、桐生のことを探るためには必要な情報だったんだ」
「……」
息をのむ一弥。無意識に強く握り絞めた手のひらに汗を感じる。
「…桐生の何が、知りたいんだ?」
できればこの先の話は一切聞きたくなかったが、梶がどれほど自分と桐生のことを知っているのか、一弥は知る必要があった。
「桐生が一年前に死んだこと、知っている?」
梶の言葉は、一弥の予想を裏切らなかった。
あぁ。やっぱり、そのことなのか。
胸が締め付けられるような痛み。
「桐生は一年前、ここ緋武呂で死んだ。でも、おかしなことに死因が分かってないんだよ。ボクは、桐生の死を明らかにしたいの。だから、桐生と交流があった八クンなら、なにか知っていないかな、って」
「……分からないな。俺だって、アイツの死にはびっくりした」
こいつはどこまで、知っている?
「ふぅん…。ねぇ、八クンは桐生が自殺したって思う?」
「えっ…?」
「それとも他殺?どっちだと思う?」
「………どうかな」
一弥は首を振った。梶の言うこと一つ一つがまるで釘を打ってくるかのように心を穿つ。梶には強い執念のようなものを感じた。梶にとって、箕雲桐生はどんな存在なのだろう、そんな想いが焦りを生む。
黙り込んでしまった一弥を、梶はそれでも何かを待つようにじっと見つめていたが、ふいに視線を落とすと、
「ボクは、他殺なんじゃないかって思ってる。証拠なんて何一つない勝手な憶測なんだけどさ。――そっか。何も知らないのか。嫌な気分にさせちゃったらゴメンね、八クン」
「いや…大丈夫だよ。こっちこそ力になれなくてゴメン」
一弥は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「――ッ、ハァ…ハァ」
梶と別れた一弥は、人気のないところまで移動すると、あまりの苦しさにその場にしゃがみ込んだ。またあの頭痛だ。しかし、今回の痛みは頭だけでなく身体中に影響をもたらしていた。思考が、体力が、少しずつじわりじわりと奪われていく感覚。唐突に襲ってくる痛みは以前からあったが、最近はとくに激しくなっていた。しばらく耐えていれば、自然と収まっていくのだが、今日に限って激しさは収まるどこか激しくなる一方だった。
「どうしちまったんだよ…」
呼吸が荒い。頭が割れるように痛い。胸が苦しい。なんだこれは?
「……くっ」
そういえば、痛みが襲ってくるのはいつも、桐生のことを考えたときだった。
「…罰、かな。……ハッ、当然か」
――お前を殺したのは、俺なんだから。
「いつまで…隠せるかな」
もう追っ手は目の前まで迫っている。
梶は、本気の目をしていた。あの目は自分のことを疑っている目だった。ウソをつくのが苦手な一弥にとって、それをごまかし続けるのは至難の業だった。
「……いっそ、全部話せばラクになるのかな」
永遠に隠し通せるものじゃないと分かってはいたが、そろそろ限界かもしれない。
隠すことも。
耐えることも――。
一弥は、制服のポケットからスマホを取り出した。画面には、昨日梶から届いたメールがそのまま表示されている。
『箕雲桐生を覚えているか?』
「……忘れたくたって、忘れられないんだよ」
そう呟いた一弥の瞳には、涙が滲んでいた。