2,少女の思惑、少年の事情
梶眞綾はある目的を胸に秘めて、緋武呂市にやって来た。
転校の理由は表向き家庭の事情となっているが、実際は完全に自分の都合だ。決断から実行まで実に短期間ですべてを解決(という名の強行手段)し、今日から緋武呂高校二年生として新たなスタートを切った。
梶は元々緋武呂市の生まれだ。だから、正確には『来た』というより、『帰ってきた』という表現の方が正しい。小学五年生までここで暮らし、両親の離婚を機に母とともに緋武呂を出た。帰郷は実に六年ぶりだ。
校内の案内を終えた梶と一弥は教室に戻り、帰る準備を整えていた。
「それじゃ、俺は担任に報告があるから。中途半端になってごめんな」
二人以外に誰もいない教室に一弥の爽やかな声が響く。
一弥は鞄を手に取ると「じゃ、また明日」と梶に軽く手をあげて、先に教室を出て行った。
梶は手をぶらぶらと振って見送り、一弥がドアの向こうに消えると同時に自分の机に腰を下ろした。
「……ふぅ」
机に手をついて、一息つく。ようやく転校初日が終わった。隠していた疲労が呪縛が解けたかのように体中に広がる。
「…やっぱ、緊張するなぁ」
慣れない環境、クラスメイトから注がれる興味の目。それらを躱す器用さがあればいいと思うが、叶わぬ願いだ。
だが、それと引き替えに得られるものはあった。
八一弥との接触。
思ったより早く、目的は達成できるかもしれない。そう思うと疲労もいくらか軽減したように感じた。
「果たして、ボクは真実にどこまで近づけるかな?」
梶は一人呟くと、机の上から降り、鞄を手に最後の一人となった教室を出た。
梶は、そのまま家には帰らず寄り道をすることにした。
引っ越しや転校手続きなどでゴタゴタしていたので落ち着いて街を歩くのは今日がはじめてだ。電車から見た街並みはあまり変わっていないように見えたが、近くまで足を伸ばすと随分様変わりしているところが多いことに気づいた。
「残念、このお店閉まっちゃったのか。結構マニアックな品揃えで好きだったのにな」
六年という歳月の経過は、無情にも梶の幼き思い出を次々とモノクロ写真へと塗り替えていった。両親が離婚する前まで住んでいた家は新築されていて思い出の欠片もなかった。よく遊んでいた公園はすでに跡形なく、アパートが出来ていた。
懐かしさというより――淋しさ。
もしかしたら、あの場所もすでにないのかもしれない。そんな不安が頭をよぎった。
住宅地を抜け、山方面に少し歩くと建物に変わって木々の姿が目立ち始め、見覚えのある雑木林が眼前に広がった。道も通ってはいるが車の姿は疎らで、風に揺れる木々の葉のこすれる音が心地よく耳に響く。
小さい頃は人気の少ないこの道を一人で歩くのが怖かった。昔と変わらない光景もまだ存在することに安堵し、意味のないと諦めかけていた思い出に歯止めをかける。
「ここは、変わっていない。…なら、あそこもまだあるはず」
祈りつつ、更に足を進めると道路脇に倒れた小さな看板を見つけた。梶はしゃがんで看板を手に取り、それがなにを示すものかを確認すると……安心して力が抜けた。
――教会。ここから20m先
「……残ってる」
心なしか足が軽くなり、梶は雑草が伸び放題の小道に入った。膝くらいまで成長した葉や枝が進行を邪魔するが、足に傷がつくことも厭わず梶はどんどん奥へと進んだ。
そして、足が止まる。
薄暗い林の中にぽつんと、廃れた教会が建っていた。
建物全体から漂う不気味な雰囲気。教会という神聖な場所である面影はすでになく、夜な夜な術師が呪いの儀式をするような陰気な場所に変わり果てている。
真っ白な外壁を覆い尽くす無数の蔦、窓ガラスはすべて割れていて、中が剥き出しだ。長年に渡る雨と風で建物自体かなり老朽化が進んでいる。木製の扉についた鍵は錆び付き、もはや鍵としての役割は果たしていない。
押し開けるというより隙間を利用してこじ開ける方法は、六年前とまったく変わっていなかった。懐かしさに自然と頬が緩む。
「――ただいま」
教会の中は外から吹き込んだ風でひんやりとした空気に満ちていた。長椅子には白い埃が積もり、部屋の所々にはクモの巣がはっている。廃墟となる前は見事なステンドグラスが填め込まれていただろう箇所は、今も昔も変わらずに額縁として小さな月を飾っている。
すべてが変わっていない。まるでタイプスリップしたかのようにここだけが当時のままだ。
「……」
――だが、もうここに ”彼” はいない。
この廃墟の主であった、少年は。
梶は、“彼”がいつも座っていた場所まで歩み寄ると床に積もった埃をさっと手で払った。梶の憂いを帯びた顔に絹糸のような細い髪が垂れ落ちる。
そして、梶はもうこの世にはいない人物に、静かに語りかけた。
「――ねえ、桐生。一体、キミになにがあったの?」
梶は寂しげに目を伏せて、
「ボクは、それが知りたくて帰ってきたんだ。それはキミの死を曖昧なものにしたくなかったからだよ」
梶の目には、やり場のない憤りと深い悲しみが入り交じり、
「――ボクは、知りたい。
キミが死んだ理由を。そのために、帰ってきたんだ」
□■□■
ジリリリッ
ジリリリッ
「…うるせぇ」
ジリリリッ
ジリリリッ
頭上で鳴り響く耳障りな音が一弥を強制的に眠りから叩き起こした。一弥は唸りつつ、布団から腕だけを出して、己の役割を忠実に果たす目覚まし時計に手を伸ばした。
ジリリッ―
ようやく止まった。毎日毎日この目覚まし時計のおかげで余裕を持った朝が迎えられるのだが、なにしろ騒々しいので耳が痛くてたまらないのが難点だった。
姉が「いらない」と箱に封印していたのも、使用し始めて二日で納得できた。たが、朝起こしてくれる人がいない今の状況ではなくてはならない必需品であり、むしろ日々お仕事ご苦労様と感謝するべき存在だったりする。
一弥は渋々ベッドから下りると、眠気を覚ますために真っ先に洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗った。玄関に新聞を取りに行くと、姉の靴がまだないことに気づいた。完徹だ。一弥は姉の体調を心配しつつ、朝食の準備に取りかかった。
朝飯は、トーストにベーコンエッグ、カフェオレのお手軽コンビで済ませ、学校へ行く準備を整える。
一弥は徒歩通学なので、歩く時間だけを計算して家を出ればいいので朝は比較的余裕がある。暇つぶしにつけたテレビのニュースが昨夜のものと大して変わっていなかったので、一弥は動画でも見ようと、スマホを起動した。
すると、起動直後からとんでもない量の通知が画面を埋め尽くした。
すべて、トークアプリの更新通知だ。クラスメイトたちを登録したグループトークが一晩中盛り上がっていたようだ。
話題は転校生について。
『クソったれな俺の春に遅咲きの桜のごとく現れたザ・クールビューティー!髪をかき上げる仕草がマジヤバイ』
『経歴不明!正体不明!まさにミステリアスガール!何か事件が起きるかも!?』
『もろ好み。オレにもワンチャンあるかな?』
男子が本能丸出しの書き込みをしていれば、
『なんか秘密主義者ってカンジ。あの子、よく分からない』
『様子見』
『好みとか知りたいのに、何も教えてくれない。仲良くなるキッカケ与えてんのに、なんなの』
反対に女子は梶に対してあまり良い印象を抱いていなさそうだ。かなりシビアな感想多数。今後のクラス内での交友関係が少し心配になるレベルだ。
「ふぅん、にしても“ミステリアスガール”、ねえ」
こっ恥ずかしいネーミングではあるが、妙にしっくりくる。
クラメイトの感想を総合的にまとめると、外見に関しては高評価。内面に関しては、本人の口数が少ないので、未知数といったところか。だが、直に接した経験からけっして人当たりが悪いというわけではなさそうなので、一線さえ越えれば友人になることもできるのかもしれない。
「…って、やばッ!時間過ぎてた」
時計を見て、すでに家を出る時刻が過ぎていることに気づき、一弥は慌ててスマホをポケットにしまい、通学鞄を手に取った。
タイミングが良ければ姉の顔が見られるかもしれないと思ったが、残念ながらそれは叶わなかった。とりあえず朝食とメモを残したから大丈夫だろう。
一弥は現在、実家を出て一人暮らしをしていた姉、柚羽のマンションで一緒に暮らしている。とある事情で父との関係がギクシャクしていたところを、柚羽が見かねて誘ったのがきっかけだった。家での居心地が悪いと感じていた一弥にとって、自分を招いてくれた柚羽は恩人にも等しい。そのため、居候させてくれる礼にと家事全てを引き受けている。日々ハードな仕事をこなす一方、プライベートはずぼらなところがある柚羽なので、一弥がいることでその穴埋めは十分できていた。
早足でいつも通りのルートを通って、学校へ向かう。商店街を抜け、緋武呂駅を越えた先に一弥の通う緋武呂高校はある。駅まで来ると電車通学の生徒も合流するので、道路には同じ制服を着た生徒であふれ、まるで大名行列のような有様だ。
生徒の合間を縫うように歩く一弥は、前方に見知った後ろ姿を見つけ、声をかけた。
「おはよ、由良」
「あ、おはようございます。八センパイ」
くるりと振り返った勢いで、ポニーテイルが元気よく跳ねた。アサガオのような愛嬌のある笑顔がよく似合う女子生徒の名は、由良奏という。一弥の一つ年下の新入生で、由良が中学生のとき、ひょんなことから知り合った。以来、先輩後輩として親交が続いている。まだ入学して一ヶ月ちょっとということもあり、まだ制服姿にも初々しさが滲んでいる。
「今日も良い天気ですね。ほら、雲一つないですよ。青一色の空を見ていると、元気がもらえる気がします」
気持ちよく空を仰ぐ後輩に、一弥もつられて空を見上げた。
「ほんとだ。眠気も吹き飛ぶ爽やかな空だな」
普段は気にすることなく歩いているが、ふと見上げる空は特別感慨深いものがあった。蒼天に白い線を残す飛行機雲が、長く続いている。
隣に並んで歩きながら他愛のない雑談を交わしていると、ふいに由良が思い出したように「そういえば二年生のところに転校生が来たんですよね?」と切り出した。
「うん、俺のクラスにな」
「…男子ですか?女子ですか?」
一年生は二階に教室があるので二年生の教室がある三階に来ることはまずない。しかも新入生だからまだ他の階に行くこと自体少し勇気がいる行為だろう。どのクラスに来たのかはともかく、性別まで訊いてくるのは少し不思議だったが、隠すようなことでもないので、
「女子だよ。でもちょっと変わった奴だな。まだ一日しか一緒にいないから推測の域をでないんだけど」
「そうですか…」
一弥は軽い気持ちで言ったつもりだが、なぜか由良は少し俯いた。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです。…でも、この時期に転校生なんて珍しいですよね」
「だな。なんか特別な事情でもあったんだろうな…」
自己紹介のときに見せたあの笑み。あれは一体どういう意図だったのだろう?
知り合いと見間違えたのか、はたまた自分が梶のことを忘れているだけなのか。だが、顔見知りだとしたら、あのあとなんらかのアプローチがあってもいいはずだった。
残る可能性としては、梶が自分を一方的に知っている、ということなのだが…。
「あの、八センパイ?」
呼ばれて顔を上げると、由良は少し困った顔をしていた。いつの間にか考え事に集中してしまっていたらしい。
「あぁ、ごめん」
「もしかして、寝不足ですか?」
「いや、そんなことないけど」
笑顔でごまかして、視線を前方に移すと、困っている様子のお婆さんが目に入った。側溝にシルバーカーが填まってしまって、動けなくなっているようだ。
「おばあちゃん、手伝うよ。俺に任せて」
一弥は早足でお婆さんの元に駆けつけると、シルバーカーを側溝から引き上げた。
しきりにお礼をしようとするお婆さんに「いいよ、いいよ」と遠慮して、由良のところに戻る。由良は小さな拍手で一弥を出迎えた。
「そんな大層なことしてないぞ、俺」
「程度の問題じゃないですよ」
嬉しそうに言われても、ピンとこない。
「これ、報酬。いらないって言ったんだけど、ポケットにねじ込まれた」
お婆さんがくれたアーモンドチョコを由良にも渡す。昨日に続いて、二個目のお菓子の報酬だ。ポケットに入れたままだと忘れてしまいそうなので、さっそく袋を開けてアーモンドチョコを口に放り込んだ。
「ああッ、センパイ!少し急いだ方がいいかもです。あと十分で始業のチャイムが鳴ります!」
由良が、右手にはめた腕時計を見て、声を上げた。周囲を見回せば、同じようにのんびりと登校していた生徒たちが足早に続々と一弥たちを追い抜いていく。
「俺たちも急ぐぞ、由良!」
「はい!」
悠長にアーモンドを口の中で転がしている場合ではなかった。一弥たちはとにかく始業のチャイムが鳴る前に校舎に入るべく、全力疾走をすることになった。
「はぁ、はぁ…。ギリセーフ」
二人はなんとか始業のチャイムが鳴る前に校内に入ることができた。とはいえ、まだ油断はできない。五分後には朝のホームルームが始まる。これに遅れれば遅刻は確定だ。
由良と別れ、時間を気にしつつ階段を駆け上がると、2年C組教室前の廊下には今にも中に入ろうとする梶眞綾が立っていた。
さっきまで考えていた当人との遭遇にドキリとした一弥だが、梶はというと息を切らす一弥を見てクスリと笑った。
「…笑うなよ」
「ごめん、ごめん。クラス委員長が遅刻するわけにはいかないもんね。お先、どうぞ」
口では謝っておきながら、顔は笑ったまま梶は半開きになっていたドアを開ける。
こいつ、なにげに嫌味を言ったような。
腑に落ちないものがあったが、今は梶のご厚意に甘えることにした。事実、遅刻をすると蔵屋は見せしめとばかりにクラス全員いる中で説教するのだ。それだけは勘弁だ。
「ありがとな」
「いえいえ」
とりあえず礼は言って、教室に入る。梶もその後ろに続く。二人が席についた頃、チャイムが鳴った。
蔵屋が入ってきて、ホームルームが始まる。
一弥は自分の席から梶の後ろ姿を見た。
梶と話をしていると、まるで親しい友人と接しているような錯覚を覚える。会ってまだ二日。会話らしい会話は、これで二回目だというのに。不思議な感覚だ。入学したときだって、こんなに早く打ち解けた奴はいなかったな、と一弥は思った。
□■□■
放課後。
ようやく一日の授業を終えた教室では、束縛からの開放で明るい雰囲気に満ちていた。威勢良く気合を入れて部活に向かう生徒もいれば、予定があるのか脱兎のごとく教室を出て行く者もいる。昼休みで中断していたおしゃべりを再開する女子たち。それぞれが、自由を求めて各々の場所へと散っていく。
そして、カノジョのいないシングル男子たちは暇をもてあそび…。
「今日、ゲーセン行く人この指とーまれ!」
と、葛城の半ばヤケクソ気味な招集によって、クラスからいつも通りのメンバー、葛城含め四人の男子が集まった。その中には一弥も含まれている。一弥としてはカノジョがいなくて暇なのではなく、単純にゲームが好きだからという理由で参加しているわけだが、それを言うとメンバーから「負け犬の言い訳」とブーイングの嵐なので、そういうことにしていた。
ゲームセンターに向かう道すがら、一弥は三人に質問攻めにあっていた。
「一弥。おまえ、随分梶と仲良いみたいじゃんか。校舎案内に紛れて一人好感度アップさせやがって。抜け駆けとは卑怯じゃねえか!」
「アホ、お前じゃないんだから。たまたま会話する機会が多いだけだろ。偶然だよ、偶然」
絡む葛城を一弥は、面倒くさそうにあしらう。だが葛城は、
「偶然にしちゃ、やたら親しげだろ。俺は今朝見たんだぞ。お前が、梶と楽しげに会話していたのを!吐け!昨日の放課後、お前なにをした!」
「痛って!離せッ」
葛城は、一弥の肩に腕を回すとその首を締め上げた。
「おまえはなぁ、女と付き合ったことがないから無自覚なだけだ。先輩であるオレが忠告してやる。梶はすでにおまえしか見てない!魚からエサに食いついたんだぞ!羨ましいを通り越して恨むわ。ぜってぇ、祝福できねーッ」
絶叫する葛城のスキをついて腕から脱出した一弥は、ゲホゲホと呼吸を整え、
「随分勝手な妄想してんな。つうか、それ忠告じゃなくて嫉妬だろ」
「バカ野郎!二年生の中ではトップクラスの美少女だぞ!玖珂沙耶華と双璧を成す存在だと既に注目の的だ。それをこんな童貞に取られるなんて!オレの心は不測の事態で掻き乱されてるんだ!」
「童貞はお前だってそうだろ…」
確かに葛城の指摘するとおり、梶と会話をする機会は他の生徒と比べて多い。転校二日目にして、梶は『今年のミスコン候補』という名誉と、『クラスで浮いた存在=変わり者』という両極端な地位を確立しつつあった。ただでさえ見た目で目立つのに、クラスメイトとろくに会話を交わさない非社交性のせいでちょっとした会話をするだけでかなり目立つし、周りは注目する。
誤解されるのも仕方ないか…と一弥は心の中でぼやいた。女の子と仲が良くなるのはそれは嬉しいが、一弥は好意を寄せられるようなことをした覚えはないし、梶にはなんらかの思惑があって自分と接しているのではないか、と薄々感じ始めていた。
緋武呂駅北口。駅前通りにある大型商業ビルの隣に建つゲームセンター〈ゲームジャンキー〉。
駅前という好立地にあるこのゲームセンターは地元の高校に通うゲーム好きな学生にとってちょっとした聖地だ。
最新のゲームから一世代前の格ゲー全盛期時代のゲームまで揃っており、幅広い層をカバーするマニアックなラインナップがゲーム好きの心を掴んで離さない。
夕方という時間帯もあって今日も店内には学生の姿が多く見られる。店内を流れる流行のポップス、筐体から鳴り響くBGMや効果音。客の発する歓声が乱雑に混じり合って、歪な音を奏でている。ゲームがきっかけで知り合った他校の仲間と合流し、まるで刺激の少ない現実を忘れるかのようにゲームに没頭する。あっという間に一時間が過ぎ去り、そろそろ帰ろうかという雰囲気になったときだった。
葛城がなにかを見つけて足を止めた。
「お、新作入荷されてんじゃん。見ろよ、一弥」
「ん?…ホントだ」
葛城が指さしたのは、CGで描かれた等身大の兵士と〈デッドシューター2nd〉のロゴが描かれたポップだった。最新のガンシューティングオンラインゲームで、全国他店舗のプレイヤーとリアルタイムの対人戦を行える人気のゲームだ。前作は一弥もかなりハマッた口で、過去に全国ランキングで上位に名を連ねたこともある。だが、去年の半ば辺りからぱったりとプレイをやめて久しかった。
新作と聞いて興味を惹かれた一弥だったが、プレイしようという気持ちにはならなかった。しかし、葛城はなぜか乗り気で、
「一弥、久しぶりにオマエの腕前見せてくれよ。せっかく空いているしさ。な、”大佐”殿」
かつて得た称号で呼ばれる一弥だが、
「俺はいいよ。きっと腕鈍ってるだろうし」
「んなこと言って。そう簡単に腕落ちるわけねえって。お前の実力は確かなんだから。もしかして、金ないとか?」
「あるけどさ…」
「なら遠慮することねえじゃん。遊びに来てるんだぜ。んじゃ、プレイ料金はオレのおごりだ。とりゃッ」
「あっ……」
一弥が返事を言う間もなく、葛城は勢いよく硬貨を投入した。
「はい、戦闘準備開始!」トンと背中を叩かれ、一弥は渋々ガンコントローラに手を伸ばした。
コントローラを握った途端、静電気に触れたときのような瞬間的な痛みを感じた。
――ッ。
痛みに一弥の頬がつる。しかし、葛城たちはその僅かな変化には気づかなかった。一弥は、大丈夫だと自分に言い聞かせながら画面を進めた。
このゲームではまず、自身のアバターとなるキャラをメイキングし、戦場に持って行く武装を選ぶ。最後に所属する勢力を選択し、画面は戦場へと切り替わる。一兵士となったプレイヤーは同じ戦場にいる敵兵つまり他プレイヤーを倒すことが目的になる。自軍に同勢力の仲間がいれば、『作戦』というコマンドを使って、協力を要請することもできる。プレイヤー、フィールドに設置された障害物など、あらゆる手段を使って誰よりも多くの敵兵を倒す。シンプルだが、相手がCPUじゃない分、オフラインゲームのような”慣れ”は通用しない。敵はどこにいるか、どの場所から仕留めるか、など戦略やテクニックも上手に活用しなければ、高戦績はなかなか出せない玄人向けのゲームだ。
「さっそくゲームオーバーになっても知らないからな」
このゲームは、狙撃された部位によっては一撃でゲームオーバーになるシビアな設定だ。
「随分、弱気じゃん。だーいじょうぶだって」
葛城の安心しきった声に、一弥は苦い表情をする。コントローラを持つ手が震えている。
こんなんじゃ敵を見つけても、撃てるかどうか…。
葛城たちの前で一撃死するのは避けたかったが、どうやらそれは無理そうだった。
今月の戦場は、崩壊した都市。市街戦だ。戦争の爪痕荒々しい廃墟に一弥のアバターが表示される。同時に画面下部のレーダーに敵を示す赤点が一つ現れた。もちろん相手にも一弥の存在はレーダーに表示されている。しかし、相手がどこにいるのかまではレーダーからでは判断できない。特に市街戦は障害物が多く、隠れる場所はいくらでもある。周囲にはどちらも味方はいない。いったん退いて、仲間がいる場所に移動するか攻撃するか選択は二つ。アバターの頭上には名前とその実力を示すアイコンが表示されていて、プレイヤーはそのアイコンから相手の強さをある程度判断することができる。本来は、専用ICカードに戦績を記録していくタイプのゲームなので、その戦績がアイコンに反映される仕組みなのだが、一弥は今回カードを介してないので、アイコンには判断不可を示す〈???〉が表示されている。これは初心者が攻撃の集中にさらされない処置の一環であるが、中にはこれを利用して実力を隠すプレイヤーも多い。すべてを初心者と思って侮るとあっさり返り討ちに合うこともあるので、慎重な判断が必要だ。
相手は一弥を初心者と見たのか、はたまた自分の実力を信じているのか、攻撃を選んだようだった。レーダーに表示された赤点が徐々に一弥のアバターへと近づいてくる。
一弥の武装はハンドガン。相手プレイヤーの武装は広範囲をカバーできる近接戦向きのショットガン。一発ごとに装填の必要があるショットガンと違って連射性に優れるハンドガンならば、最初の一発さえ躱せば、十分迎撃可能だ。ショットガンの特性である広範囲をカバーする銃撃は障害物を利用して、回避する。
だが、頭では考えることは出来ても、実際に行動できるかは一弥にも分からなかった。手の震えはまだ止まっていない。自分ではどうすることもできなかった。
――来た!
障害物の多いエリアに誘導した甲斐があり、相手の一撃をなんなく回避。被弾した障害物が吹き飛び、周囲に粉塵をまき散らす。画面がリアルに黄土色に染まる。視界を奪われたのは一弥も、相手も同じ。
一弥はこの瞬間を見逃さずに背にしていた障害物の反対側から相手の背後に回り込んだ。
隙だらけの背中が見える。相手はリロード中。こちらはいつでも、反撃可能。
容赦なく頭部を狙う。引き金に指をかけて
その時――
『一弥。オレに関わったこと、後悔しろ』
脳裏に響く声。
その瞬間、一弥の頭の中は真っ白になった。
「あッ…」
次の瞬間、画面上が赤く点滅し『GAME OVER』の文字が表示された。
「うわあー、確実に仕留めるチャンスだったのに!どうしちゃったんだよ、一弥」
葛城の悔しむ声で一弥は我に返った。
「八らしくないミスだな」
仲間が拍子抜けしたように相づちを打つ。
一弥は力なくコントローラを戻すと、疲れたように息を吐いた。
「ごめん。金返すよ」
「いや、別に返さなくていいけど…。オレが強引にやらせたようなもんだし」
葛城は気まずそうにポリポリと頭を掻くと、
「まぁ、こういうこともあるよな!そうだ、気を取り直してハンバーガーでも食いに行くか!」
「賛成。ゲームしたら腹減ったよ」
葛城の提案に仲間が賛同する。
「じゃ、行こうぜ。お前も落ち込むなよ!」
励ますようにそう言って、葛城は一弥の肩を叩いた。
「……」
別に落ち込んでいるわけではなかったが、葛城の心遣いに今は感謝するべきなのだろう。一弥は気を取り直すように「あぁ」と頷いた。
一弥がマンションに帰ってきた頃には時刻は六時を過ぎていた。
玄関に入ると姉、柚羽のヒールが乱暴に脱ぎ捨ててあった。一弥はやれやれと肩を竦めて、ヒールを揃えて端に寄せた。リビングに辿り着くまでにバッグ、ストッキング、上着と拾っていくのも、すでに習慣づいている。
ソファーにシャツのままで無防備に眠る姉の姿はまるで大人の女性という皮を被った子供のようだった。
「起きろ、アネキ。風邪ひくぞ」
「う~ん。……起こして、いっちゃん」
「甘えない」
腕を伸ばす柚羽を一弥はスルーして、手に持った姉の衣服をソファーの上に置く。
「ケチ」
柚羽はだるそうに体を起こし、テーブルの上に置いてあった生ぬるいビールを口にした。即座に「まずっ」と反応が返ってくる。
「いっちゃん、ビール」
「冷蔵庫にあったの全部飲んだだろ。もう冷たいのはないよ。今日の分は終わり。すぐにメシ作るから待ってくれ」
「むむう…しゃーない。テレビでも見てるか」
名残惜しそうにそう言って、柚羽はリモコンを操作し始めた。
これじゃあ、どっちが年上なんだか。と一弥は思う。会社では若いながらもプロジェクトを任されているリーダーの姿とはとても思えないだらしなさっぷりだ。だが、仕事で相当溜まっているだろう疲れを考えると同情してしまい、厳しいことは言いにくかった。
一弥は制服の上着を脱ぐと、そのままダイニングに立った。お腹をすかせた姉の為に食事を作るのだ。
今日は久しぶりに二人で食卓を囲む夕食だ。メニューは柚羽の仕事の愚痴をおかずにタラコスパゲッティという風変わりな組み合わせ。会話の内容はとにかくやはり一人で食べるご飯より、誰かがいるご飯の方がおいしく感じる。柚羽も久しぶりに家で二人で食事ができることが嬉しかったのか、終始ご機嫌な様子だった。
後片付けを終えて部屋に戻ると、一日の疲れがどっと襲ってきた。一弥はたまらずベッドに倒れ込んだ。
「はぁ……」
ぼうっと天井を見上げていると、ゲーセンでの出来事が頭に浮かび、一弥は「どうして」と顔を顰めた。
ゲームの成績が悔しいのではない。あの時、あの一瞬のフラッシュバック――。
「……」
無心になりたいのに、どうしても考えてしまう。良かったことならともかく、嫌なことを思い出す必要はないのに…。
「あー、もう。ダメだ」
一弥はゲームで気を紛らわせようと、パソコンの電源をつけにベッドを下りた。
「……ん?」
ふと机の上に放って置いたスマホのLEDが点滅していることに気がついた。メールの着信だ。一弥は画面を開いて、メールのアイコンをクリックした。
アドレスに覚えはなかった。不審に思いつつ、メールを開くと短い文章でこう綴られていた。
『箕雲桐生を覚えているか?』
「――ッ!!」
スマホを持つ手が大きく震えた。鼓動は一気に早まり、まるで部屋中に響きそうな音を立てた。一弥は手で心臓の辺りを押さえつけるが、動悸は落ち着くどころか激しくなるばかりだった。
「……なんだよ、なんだこれ!誰がこんなメールを……。俺は知らない。俺は……………………俺じゃないッ」
衝動的に投げたスマホが床の上を大きく跳ねた。
「はぁ…はぁ……っ」
息を切らせながら、一弥は攻撃的な瞳でスマホを凝視する。
誰だ、誰がこんなことをした?誰のイタズラだ?
箕雲桐生なんて知らない。知らない。知らない。知らない。知ら…な…い。
精神を掻き乱す不安定な感情が怒涛のように押し寄せ、思考が混濁する。
「うあぁッ」
脳を貫くような痛みがまた襲ってきた。一弥は立つことができなくなった。ベッドに倒れ込み、頭を抱えてひたすら、うわごとのように否定の言葉を吐き続けた。
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ何か口にしないと耐えられなかった。精神が壊れる恐怖。心を守らなければ――
「俺は――知らないッ」
痛みが引くことをただただ祈りながら、一弥は『箕雲桐生』という名を、記憶を――頭の中から消そうと必死に足掻いた。