1,時期外れの転校生
一年後 / 春
山に四方を囲まれた某N県の地理的にちょうど中央に位置する都市、緋武呂。
夏から冬にかけての観光シーズンには県外からの観光客で賑わうこの地方都市も、今のこの時期は特に目立つような観光目的もなく、街の賑わいは比較的落ち着いている。
緋武呂駅南口バスターミナル。
観光ピーク時は登山目的の観光客が列を作っている光景が日常であるが、今は人も片手で数えるほどしかいない。
人もまばらなバス停の前にバスの到着を待つ一人の少女の姿があった。
大きめのキャリーバッグを持ち、空いた手には文庫本。発達途上の体を包む制服は緋武呂近辺の学校のものではない。
少女は黙々と読書に集中し、あとがきを読み終わるとぱたりと本を閉じた。
目元にかかった前髪をさりげなく払う。その仕草は大人っぽい顔つきと相まって学生とは思えない色気を感じさせる。
「お嬢さん。大きなバッグ持ってどこかにお出かけかい?」
少女の隣で同じバスを待っている老人が話しかけてきた。腰はくの字に曲がっていたが、顔はやたら生き生きとしており、わずかに鼻息が荒い。
少女は口元にだけ笑みを作ると、年甲斐なくナンパに興じる老人に向かって、桃色の唇を動かした。
「ハズレだよ、おじいさん。ボクは、帰って来たの」
少女はビルの合間から覗く真っ青な空を見上げながら、忘れかけた思い出を懐かしむように、こう呟いた。
「六年ぶりの緋武呂なんだ」
□■□■
冬の寒さが長引き、開花の遅れた市内の桜もすっかり姿を消し、代わって新緑が木々を飾り始めた五月の初旬。
華のゴールデンウィークも終わり、平日朝の緋武呂市は、学校へ向かう学生、職場へ車出勤する会社員が主体となって今日も街を動かしている。
市内の公立緋武呂高校に通う二年生、八一弥は歩き慣れた通学路を歩きながら、行き掛けに買ったカフェオレを眠気覚ましがわりに喉に流し込んだ。
八一弥。十六歳。緋武呂で生まれ、緋武呂で育った、どこにでもいそうなごく普通の少年。髪も地毛のままで、年相応の格好つけたところも見られない。外見の素朴さと優しい面立ちは近所のおばさんに「人懐っこい好青年」と評判だが、同年代の子らと比べるといまいち地味な印象だ。しかし、本人はそれほど気にはしていない。見た目も性格も“自然体”が彼のモットーであるからだ。
時刻は午前八時を回ったところ。
通学路は、一弥と同じダークグリーンの制服を来た生徒たちの姿で賑わっている。
数人でグループを組んで歩く者、一人黙々と歩く者、急いでいるのか慌てて走って行く者。それぞれがそれぞれの思惑を秘めながら、校門に次々と吸い込まれていく。
「ふぁ…ぁ」
「おいっーす、一弥。オ・ハ・ヨ!」
いつも通りの時刻に校門をくぐると、ほぼ同時に背後から能天気な声がかけられた。欠伸をしていた一弥は、一拍間を開けて「…おはよ」とテンションの低い返事をする。
一弥の肩に手を乗せながら、隣に並んだのは彼のクラスメイトの葛城榛だ。
「朝っぱらから、欠伸なんかしちゃってまー。呑気だねー」
「お前に言われると、なんか腹立つな」
「んんっ、なんか機嫌悪い?もしかして、寝不足か?」
「昨日、深夜に帰ってきたアネキに叩き起こされてメシ作らされたんだ。そのせいで寝過ごしてさ……。とにかく眠いんだよ」
「そりゃあ……夜遅くまでご苦労サマでした」
げっそりと呟く一弥を見て、葛城は同情するように肩を叩いた。一弥は再び出てきた欠伸を噛み殺しながら、葛城の顔を見て、
「それよりも珍しいじゃんか。シン、お前の方が朝から元気なんてさ」
「ん、オレはいつでも元気よ?」
「ウソだろ。お前の方こそ、いつも朝は眠たそうにしてるくせに」
普段なら欠伸の回数は、一弥より遙かに上だ。
「いつもはそうかもしれんが、今日は違うんだよ」
腰に手を当てて断言した葛城は、確かにいつもと少し違って見えた。なんというか無駄に元気に見える。
「なんで?」
一弥が訊くと、
「知りたいか?」
葛城は急にソワソワし始め、なぜか周りを見回した。近くに誰もいないことを確認し、葛城はコソコソと一弥に耳打ちする。
「実はな。今日、オレらのクラスに転校生がやってくるのだ」
「……は、転校生?今の時期に?」
「声がでかい!」
葛城は慌てて一弥の口を塞ぐと、誰かに聞かれていないかと再度周囲を見回した。
「うえっ…汚い手で触るなよ」
一弥は葛城の手をすぐさまはね除け、慌てて制服の袖で口元を拭った。
「シン、それどこで知ったんだよ」
「極秘情報。というか、昨日の放課後職員室前を通りがかったら担任の蔵屋が教頭とそんな話をしていたのを偶然、聞いたのである」
「極秘でもなんでもねえし。それ、ただの立ち聞き。でも……ふぅん。昨日のホームルームのとき蔵屋は何も言っていなかったけど…」
突然決まった、ということはないだろう。転校してくることは事前にわかっているはずだから、在席するクラスが決まったのが昨日の放課後だったと考えるのが妥当だ。
「それにしても、この時期に転校生って珍しいな」
一弥は率直に思ったことを口にした。
今は五月だ。なんらかの事情で新学期を迎える四月に間に合わなかったのだろうか。それにしても微妙なタイミングだった。学年が上がってようやく新しいクラスにも慣れ、いくつかのグループが出来つつあるこの時期にクラスに入る。社交性があって積極的な人間ならすぐに馴染むことができるだろうが、そうではない人間ならクラスにとけ込めるかどうかという不安は拭えないだろう。
一応、『クラス委員長』という肩書きを持つ一弥は、できる限りのフォローはしないといけないだろうな、と考えた。
一弥の在席する二年C組の教室はいつもどおり朝の爽やかさとは裏腹に気だるい空気が漂っていた。授業が面倒くさいとボヤく生徒がいると思えば、さっそく机にうつ伏せになって二度寝している輩もいる。元気がいいのは結婚したい男性俳優ランキングの話題で盛り上がっている一部の女子だけだ。
クラスの様子を見ていても転校生の話題はまったく聞こえてこなかった。本当に誰も知らないようだ。葛城から転校生の話は固く口止めされていたので、一弥もなるべく意識しないように頭を切り替えた。
そして、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴った。
後ろの席にいる葛城がつんつんと背中をつついてくるが、相手にするのも鬱陶しいので無視を決める。
担任の蔵屋が、チャイムが鳴り終わったとほぼ同時に教室に入ってきた。毎回思うが、ドアの前で待ちかまえているのではないかというくらいの正確さだ。
蔵屋は葛城が言っていた通り、後ろに見知らぬ女子生徒を連れていた。
途端、教室中にざわめきが起こった。事前に知らなければ当然の反応だ。背後で葛城が口笛を吹いた。
一弥もその女子生徒の容姿を見た瞬間、思わず「おッ」と口に出してしまった。
転校生のインパクトは平凡揃いの二年C組の女子の中でも際立つ美人といえた。
肩にかかるくらいのショートボブ。細い眉、少し垂れ気味の瞳。鼻筋に沿って垂らした一房の前髪。同年代の中では背は高い方か。制服から覗く腕と脚はすらりと細い。物腰は落ち着いており、緊張などしていないような堂々とした立ち姿だった。
まるで気高い猫のようだ、一弥は転校生の第一印象をそう感じた。
「おい、静かにしろ。紹介ができないだろうが」
蔵屋が不機嫌そうに白髪まじりの眉に皺を寄せる。蔵屋の牽制により半数が黙るが効果はそこまで。まだちらほらとしゃべり声が聞こえる中、蔵屋はわざと大きく咳払いすると、強引に転校生の名前を告げた。
「彼女は今日からこのクラスに入る梶眞綾だ。みんな親切にするように」
「宜しくお願いします」
蔵屋の味気ない簡潔な紹介に続いて梶が小さく頭を下げた。
そして彼女が顔を上げたとき、偶然にも一弥と目が合った。
「え…?」
偶然だと思った。しかし、梶はなぜか一弥から目を逸らさなかった。
梶は、自分を見ていた。自分は梶を見つめていた。その瞬間だけ、世界に一弥と梶、二人以外の存在が消失した。
動揺を露わにする一弥に――梶は、さりげなく笑いかけた。
見間違いではない。確かに、梶は一弥を見て、笑った。
目を僅かに細め、口端を小さくつり上げて――。
なんだ、なんなんだ?初対面のはずだぞ?あいつは、俺を知っているのか?
「――き。
――づき。
八!」
「あ、はい!」
蔵屋の一喝が、一弥を混乱の渦から強引に引きずりあげた。
慌てて席を立った一弥に、蔵屋は「まったく」と嫌味ったらしくため息をついた。
「お前、時間があるときに校舎を案内してやれ。私は今日忙しくてな」
なんとなく呼ばれた時点で予想はできていた。
「はい、わかりました」
一弥は嬉しいような面倒くさいような複雑な心境を味わいつつ、頷いた。
「じゃあ、梶。席につけ。点呼を始めるぞ」
梶の席は一弥の席から一列離れた右斜め前だった。一弥の席からは、梶の様子がよく見えた。
授業が始まってからも一弥はあの笑みの意味が気になって、ちらちらと梶の方を伺っていたが、その後の梶は特に一弥を見るわけでもなく、話かけてくることもなかった。
少しばかり浮かれかけていた一弥だが、そう現実は甘くなかった。
□■□■
放課後。
「羨ましいなぁ、一弥。さっそく転校生と二人っきりになりやがってー。この役得者め!」
からかうように背中を小突いてくる葛城を、一弥は肘で突き返しながら、
「じゃあ、シンがクラス委員長変わってくれよ。俺は大歓迎だぞ」
「今だけならオッケー!」
「却下」
葛城他クラスの男子から恨めしい視線を全方位から浴びつつ、一弥は緊張をほぐすために深呼吸。そして、梶の座る席に向かった。
梶の周りには男子の姿はおろか女子の姿すらなかった。皆、遠巻きに梶のことを観察していた。決して本人が無愛想とか壁を作っているわけではない。話しかければ反応は返ってくるし、わからないことは向こうから聞いてくる。大抵は一日でも一緒に過ごしていればどんな人物かはだいたい把握ができるはずだ。だが、梶に関してはそれが難しかった。なぜなら自分のことはまったくと言っていいほど喋らないからだった。家族や趣味など皆が知りたいと思うことを梶は一切口にしなかった。会話らしい会話が聞こえてきたのは昼休みが最後だった。皆どうやって接したらいいのか考えあぐねていた。
正直、一弥もどう声をかけるべきか迷っていた。性格が掴めないと会話を切り出すのも難しい。それに朝のホームルームのこともある。
ただ校舎を案内するだけなのだが、なかなか難易度が高い。これはなんの試練だよ、一弥は思わず心の中でぼやいた。
結局考えてもどうしようもないので普通に声をかけてみると、梶は「ん、よろしく」と言って席を立った。梶の素っ気ない態度に置き去りにされた一弥は、梶が教室のドアを開ける音を聞いて、慌ててその後ろ姿を追った。
緋武呂高校は一年生から三年生までの教室と職員室、保健室、生徒会室などがある教室棟と、コンピューター室や美術室、書道室といった実践形式の授業を受ける実習棟の主に二校舎で構成されている。その他には規模の異なる体育館が二つと、屋外プール、運動部の部室がある建物が併設されている。一般的な進学校そのもので特に目立つ特徴はない。強いてあげれば、どの校舎の三階からでも緋武呂の有名観光スポットである緋晶湖が一望できることくらいだ。
簡単な説明をしつつ教室棟を回り、次に実習棟へと二人はやってきた。
「一階の突き当たりに見えるのが図書室。図書室は特別な構造で二階まで吹き抜けになってる。けど、残念ながら二階から行き来はできないんだ。なにげに不便だよな。んで、手前方向に向かって書道室、美術室って続いている。校舎の突き当たりには教室棟と行き来できる渡り廊下と、二階に上がる階段がある」
「ふむふむ、なるほどね」
「一度に全て覚えるってのはさすがに大変だろうから、慣れるまではクラスの奴らに訊いたり、俺に声かけてくれていいから」
「うん。そうする。ね、この校舎ってまだ新しいよね?」
「あぁ。去年建て替えが終わったばかりなんだ。俺たちが入学するタイミングで新校舎に変わったから、なんか得した気分だよ」
「そっか。ボクも一年早く来れば、ピカピカの新校舎を歩けたんだね」
一弥の案内を聴きながら、梶は興味深そうに質問を重ねる。その口調にさっきの素っ気なさは感じられない。
教室にいたときとは随分異なる態度に一弥は最初戸惑いこそしたが、慣れるとこちらの方が断然やりやすく、乗り気じゃなかった案内も次第に楽しくなっていた。
「じゃ、二階に上がるか」
放課後の実習棟は、人の気配が極端に少ない。一弥が案内している時にも、一、二人図書室に向かう生徒とすれ違っただけだ。文化系の部活動で使われている部屋はあるが、どれも体育会系のような大声を出す活動ではないので、部屋から聞こえてくる音も小さい。
自分たち以外誰もいない空間を、何も話さずにただ歩いていると、どうしても一弥の意識は後ろを歩く梶に向いた。シチュエーション的には二人っきりだ。別に何かを期待しているわけではないが、無意味に緊張してしまう。一緒にいるのが本性を知るクラスの女子ならこんな気持ちはわき上がらないだろうが、梶が美少女に分類される美人――しかもどこかミステリアスな雰囲気を持っているからだろうか。
ただの案内だと自分に言い聞かせつつ、階段を少し早足で登った。後ろからついてくる梶がキョロキョロしていることに、一弥はまったく気づかなかった。
「えーっと、二階は奥の方からコンピューター室があって…って、あれ?」
てっきり後ろにいるものだと思って、振り返ってみたら梶の姿がなかった。
「お、おい!?」
どこへ行ったかと焦ったら、梶はとんでもないところにいた。
梶は三階――つまり、屋上へ出る階段の手前に侵入防止目的で設けられた柵を乗り越えようとしていたのだ。
しかも、スカートを履いた状態で。
「うわ!?」
パンツが見えた。
慌てて目を逸らす一弥だが、当の梶はというと人の目などまったく気にせず「よっ」と気合を入れながら楽々と柵を乗り越え、どんどん階段を上っていってしまう。
「おい、待てって!屋上は出入り禁止なんだぞ」
一弥は慌てて自分も柵を乗り越えると、梶の後を追った。止めなければならない一心だ。
気難しいと思うとかわいい反応が返ってきたり、おてんばだったり、なんて気分屋の猫だろう。
梶は屋上のドアの前に立っていた。その手には錆びた錠前が乗っている。まさかこの短時間で鍵を外せるわけはないだろう。
「……壊れてたのか?」
一弥が半信半疑で訊くと、
「壊れてたというか、鍵自体はかかっていなかったみたい」と返ってきた。
「まぁ、柵越えてまでわざわざ来る奴なんていないだろうからな。……あんたを除いて」
さりげなく痛いところを突いてやろうと企んだ一弥だったが、梶は悪びれた様子もなく、むしろ楽しげに、
「ボク、前の学校では<屋上の番人>とか呼ばれていたから。だから、絶対にチェックしとこうと思って。屋上の日向ぼっこは一度味わったらやめられないんだ」
「それ、日向ぼっこという名目の堂々としたサボリだよな?」
一弥のツッコミに梶はイタズラっぽくニヤリと笑った。
「せっかくここまで来たんだから、出ちゃいますか?」
一弥もこの学校の屋上へ出るのは初めてだ。少し興味もある。一度止めておいてなんだが、ここまで来たら一目屋上からの眺めを見るのもいいかもしれない。そんな気持ちで、頷いた。
梶はこころなしか嬉しそうに、ゆっくりとドアを開けた。隙間からオレンジの光が差し込む。線だった光は、放物線を描くように目の前に広がって――
「わぁ、キレイな夕焼け」
梶の感動する声につられ、まだ光に慣れない目を無理矢理あけると、目の前に大きな太陽が飛び込んできた。
緋色に染まった空。太陽の残光を浴びて輝く緋晶湖。屋上ならではの高所から見た絶景に思わず声を失った。学校に通って一年ちょっと経つが、こんな景色を見たことはなかった。
梶も魅入るように手摺りから身を乗り出して夕焼けを見つめている。
夕陽を受けて輝く梶の横顔に思わず見惚れてしまっていた一弥は、ふいに不思議な感覚に襲われた。
「……?」
いつの間にかすぐ側にいた梶の姿は消え、別の人間がそこにいた。
それは制服を着た背の高い男子生徒だった。両手をズボンのポケットに入れ、憂いを秘めた表情で空を見上げている。
「――ッ!」
一弥の全身から一気に血の気が引いた。冷たい汗が額を、首を、背中を伝う。金縛りに遭ったような拘束感と寒気が一弥を襲った。
「………」
その男子生徒は動けなくなった一弥に向かってゆっくりと首を動かした。
長く伸びた前髪から覗く冷たい光を帯びた目が一弥を捉えて――
「うああああぁッ」
一弥はたまらず叫んでいた。
突然、激しい頭痛に襲われたのだ。
まるで押しつぶされるかのように頭部にミシリミシリと圧力がかかる。耐えきれず、一弥はその場にしゃがみ込んだ。
痛い。なんだ、この痛みは。
「八君、八君!」
梶の慌てる声が聞こえる。だが、一弥は痛みを堪えるのが精一杯で返事すらできなかった。
やめろ。違う。あいつじゃない。あいつはいない!
「ううっ…ああぁ」
原因不明の痛みは数分続いたが、次第に落ち着いてきてようやく意識がはっきりとしてきた。目を開けると、目の前に梶の心配げな顔が覗いていた。彼女の白い肌が先程と同じように夕陽を浴びて、オレンジに染まっている。
「…梶…?」
「そうですよー。キミの名前を言ってごらん」
「…八、一弥」
「正解。どしたの急に。具合悪くなった?」
「いや…そんなはずは。なんだろな。…ごめん」
一弥はよろよろと立ち上がると、まだぐらぐらする意識を振り払うように頭を振った。自分でも何が起きたのかわからないので、梶の質問にも答えようがなかった。
「べつに謝らなくていいけどさ。疲れ、溜まってるんじゃない。自分が思う以上に疲労って蓄積されてるみたいだし。今日はこれで終わりでいいよ。他は学校来てれば自然に覚えるしね。なにより、屋上に来られることが分かったので大収穫だよ。ありがとう」
「ははは……、サボリの常習犯になりそうだな」
一弥が苦笑すると、梶は人差し指を口元に当てて、「それは内密に」と囁いた。
一弥たちが教室に戻ってきた頃にはすでにクラスメイトの姿はなかった。
一弥は、担任の蔵屋に案内が終了したことを報告する必要があったので、教室で梶と別れ、その足で職員室に向かった。
職員室に入ると担任の蔵屋は机の上にどんと積まれた書類と睨めっこをしていた。一弥の報告を聞いた蔵屋は「そうか、ご苦労だった」と相変わらずの仏頂面で礼を言って「暗くなる前に気をつけて帰れ」と一弥をすぐに解放した。
蔵屋の態度にいまいち誠意を感じられないのは、いつものことだ。文句のひとつでも言いたかったが、それは押さえ込んで、さっさと気持ちを切り替えることにした。
学校を出た一弥は、歩きながらスマホを取り出した。
通知が二件届いている。
一通は葛城からの冷やかしのメッセージ。これは読むだけ無駄と分かっているのであえて開かない。
二通目は一弥の姉、柚羽からのメッセージだった。
『うぅ、今夜も遅くなるかも……。あのクソ課長、乙女の体をボロ雑巾みたいに扱いやがって!!いっちゃん、ビール冷やしといてね♪♪ 柚羽』と書かれている。
「乙女って…そんな年かよ?」
本文を読んで思わず苦笑した。一弥と柚羽の年の差は十歳。乙女というには少々無理がある。
昨日も徹夜だった。そして、今日も徹夜だ。地獄の二日連続はさすがに体が心配になる。自分も就職したらこんな感じで上司に振り回されるのかな、と想像すると身震いがした。とりあえず、お望み通りビールは用意しておいてあげようと思った。忘れると子供みたいにふてくされるのだ。
一弥は、『了解。がんばれ乙女』と返信して、スマホをポケットにしまった。
今日も夕飯は一人だ。何を食べよう、と考え始めたときだった。
閑静な住宅街を蹂躙するかのような轟音が聞こえてきた。最初は大型トラックのエンジン音かと思ったが、この辺りの道は狭く入り組んだ構造をしているので大型トラックは通行禁止になっている。
獣の唸りのような重低音。おそらくバイク。しかも大型の。
「……近いな」
バイクはこちらに近づいてきているようで音はどんどん大きくなり、アスファルトを通じて振動が足下にまで伝わってきた。ズンズンと体ごと揺さぶられるような感覚に一瞬、平衡感覚を失う。独特の重たいリズムを刻むエンジン音を聞いていると、おのずとその正体が分かってきた。
一弥の想像通り、前方の曲がり角から一台のバイク――ワインレッドのハーレーが現れた。
いつ見ても、その重量感ある車体はハーレー特有の高級感と圧倒的な存在感を放っている。
「うわぁ」
憧れのハーレーを前に一弥の興味心が疼いた。
「スポーツスターだ。……やっぱカッコいいなぁ」
観光シーズンには頻繁に山へ向かうハーレーの集団を見かけるが、大抵は大通りを走るので間近に見られる機会は滅多にない。インターネットでカタログを指くわえて見ることしかできない年齢の一弥からすればそれは、ハーレーを至近距離で見られるまたとないチャンスでもあった。
もっと近くで見たいな。一弥がそう思っていると、ハーレーはくるりと向きを変えてこちらに向かってきた。なぜか徐々にスピードを下げながら。
「…やべ」
じろじろ見過ぎて、視線に気づかれたのだろうか?
ハーレーに乗っている人というと洋画の影響でダーティな厳ついおっさんな印象が強く、下手なことを言おうものなら、威圧されて、絞められそうなイメージが頭の中にある。そんなものは単なる思い込みに過ぎないと分かっていても、万が一本当にアタリの場合もありうるので油断はできない。
何気なく目をそらし、気にしないでください空気を展開しつつ、道の端に寄ってみるが、一弥の願いむなしくハーレーは目の前で停まった。
もう観念するしかない。改めてハーレーを見ると、運転しているのはおっさんとはかけ離れたしなやかな曲線と引き締まったボディを紫色のライダーススーツで包んだ、おそらくは女性であった。
長身でその存在感はハーレーの巨体に負けていない。むしろハーレーは女性の存在をより際立たせるアクセサリーのようにすら思えた。ハーレーにまたがった姿があまりにも絵になりすぎている。顔が見えないのに、だ。
紫のライダーススーツが夕陽に照らされ、艶やかな光を放った。
「――ハァイ、少年。ちょっといいかしら?」
ヘルメットのバイザーが開き、ライダーの顔が露わになった。
長く細い眉。きれいな鼻筋。一弥を見つめる魅惑的な金色の瞳。想像以上の美人だ。見えたのは目元だけだが、一瞬で目が釘付けになった。
ヘルメットの奥で、女性が笑った気がした。
「キミ、地元の子でしょう。ちょっと道を教えてほしいのよ」
ヘルメットに隠れた唇から紡がれた声は、絡みつくような色気のある、男心をくすぐる甘い声音だった。
「道案内、ですか。どこらへんですか?」
一弥は内心ドキドキしながら訊いた。そこらのおばさん相手なら慣れたものだが、大人のしかも明らかに色っぽい女性に声をかけられたのは初めてのことだったからだ。道案内自体は大したことではないが、相手が美人となるとまた違った意味で緊張感が高まる。
しかし、ハーレーに乗った女はそんな一弥の心情になど気づくわけがない。一弥の快い返事に、女は嬉しそうに目元を緩ませた。
「じつは湖畔通りに出たいのよ。変なところ曲がってしまったみたいで、全然違うところに来てしまってね。ここ迷路みたいに入り組んでて一向に抜けられないの。ほら、あそこに見えるマンションに行きたいの」
そう言って女は住宅街の向こうに見える一つだけ突出した高さを誇る高層マンションを指さした。最近、湖畔通りに建てられたばかりの最新の分譲マンションだ。
女の乗るバイクを改めて確認すると、ナンバープレートは県外のものだった。
誰でもそうだが、地元に住んでいる人でなければ町の構造は分からなくて当然だ。市街地ならば案内の標識はいくらでもあるが、どこかで間違って住宅街に迷い込むとその入り組んだ構造から簡単には抜け出せない。
「――フムフム、なるほどね。これは迷うわけよねぇ。やっぱり地図って大事ね。まったく、あいつったらなんでそういう肝心なところ気が付かないのかしら」
ノートに目的地までの簡単なルートを書いて教えると、女は愚痴っぽくそう呟いた。ねぇ、と同意を求められたが、一弥には苦笑いくらいしかできない。
「とりあえず書いた通りに進めば、大通りに出るのであとは道なりに行けば目的のマンションが見えてきます」
「本当に助かったわ。お礼に、コレをあげる」
そう言って女は胸のポケットから何かを取り出した。キャンディだ。子供じゃあるまいし、と思ったが一弥は素直に受け取った。
「どうも」
「それじゃ、少年。Danke!」
「え?」
「ありがとうって意味よ」女はそう言うと、ヘルメットのバイザーを下ろし、ハーレーのエンジンを起動した。
噴煙を軌跡のように描きながら瞬く間に小さくなっていく。まるで通り雨のような一瞬の出来事であった。
「きれいな瞳をした人だったな…」
女が曲がり角の向こうに消えた後、一弥は少し名残惜しむように呟いた。
あの金色の瞳は、太陽の輝きを閉じ込めたようだった。素顔を拝むことができなかったのは残念だが、あの印象的な瞳は一生忘れないような気がする。
一弥は女からもらったキャンディを、口の中に放り込んだ。
甘くとろける砂糖の味が広がったかと思うと、じわじわと酸っぱさが滲みだした。
味は、グレープ味だった。