3.不穏
だが、蓮華姫は帰らなかった。侍女が止めるのも聞かず王都に留まり、こともあろうに帝釈天に目通りを願った。訪ねても、帰れ、の一点張りの阿修羅にもう一度会えるよう、取り計らってもらおうと思ってのことだった。
帝釈天の噂は聞き知っているものの、王ほどの者が伝説の姫に手を出すことはないと、愚かにも考えたのである。
「そなたが蓮華姫か。さすがに美しい姫君」
――幼くはあるが、直に成長する。このまま里に返す法はあるまい――
姫の傍に仕えていた侍女達は、帝釈天の舌なめずりが聞こえるようで背筋を凍らした。
「それで、王都には何故来られたのか? 姫が生まれたということは、何かが天界で起こる兆しという。何かこの王都で起こるのだろうか?」
「いえ、そのような徴候はまだ感じません。それにそのような事、ただの言い伝えだと私は思います。私は……」
蓮華姫は俯きかげんに言葉を繋ぎ、恥ずかしそうに躊躇ってから、また話始めた。
「実は……、お会いしたい方がいて、その方を追って王都まで来たのです。でも、その方になかなか会ってもらえず。それで帝釈天様におすがりしようと……」
そこまで言って、蓮華姫は息を飲んだ。背後の侍女達は青ざめ、咄嗟に姫の傍へと擦り寄った。
「ほお、その幸運な者の名を教えていただけますかな」
一瞬だった。ほんの一瞬、帝釈天の気が乱れた。怒りに任せ、そのまま爆発するかもしれないと側近までもが恐れた。が、何故かすぐにその気を帝釈天自ら抑えた。
「あの……、は、い」
――さあ、名を言え! オレは自制したぞ――
蓮華姫は震えていた。そして自らの愚かさに今さら気付き、悔いた。自制したのは言葉だけで、帝釈天は怒りと嫉妬のためにその大きな体を奮わせていたからだ。
――言えない……。あの方にご迷惑がかかる――
「さあ、姫、どうされた?」
口許に笑みまで浮かべ、帝釈天は蓮華姫を促した。ただ怯えて震える幼い姫に。
――阿修羅様!――
その同じ頃、阿修羅は自分のねぐらである館にいた。帝釈天より賜ったこの館は王宮にほど近く、小さいが庭には美しい蓮池もあった。阿修羅はその蓮池にきらめく陽の光を眩しげに眺め、窓辺に腰をかけていた。
――蓮華姫は南の里に帰っただろうか――
何故か妙に胸騒ぎがしていた。一途すぎるほどの蓮華姫の思いを、受け止めてやれるものならばその方が良かったのかもしれない。だが、蓮華姫を愛しくは思うが、それはか弱き者を守りたいという戦を司る者の思い、恋心などではなかった。
――蓮華姫の瞳には宇宙が宿るという。私はその瞳をまっすぐには見ることができなかった。全てを見透かされるほどの深さに脅えたからだ――
阿修羅はこの天界の誕生とともに存在した。生まれた時からすでに剣を持ち、戦を求めた。他を愛することは一度もなく、他のぬくもりが暑苦しかった。
だが、愛を拒否していたわけではない。いつか心強く惹かれる者に出会えると、心の何処かで信じていた。
蓮華姫は阿修羅にとって、 “心魅かれる者” ではなかった。が、姫の愛らしさ可憐さに触れ、忘れていた優しさを思い出した。
――蓮華姫を傷つける者は許さん。たとえ帝釈天でも――
「阿修羅殿」
「何だ」
阿修羅の部下、副将の影闇だった。不揃いに切られた黒髪に黒装束。名前通り闇の住人のような戦士だ。
「蓮華姫の侍女どのが参られましたが」
「会う気はない」
振り向きもせずにそう言った。
「それがいつもと様子が違うのです。王宮の方で何かあったようで……」
「何?」
それは天界を奈落に落す大事変の始まりを告げる一報だった。