7.旅の続き
仏陀が寝かされていたのは、貧しい村人が暮らす家屋の一つだった。土間のすぐ横に申し訳程度の床が敷かれていた。
彼の目の先を覆う天井も、雨風を凌げるのか、まるで星空のようにところどころから光が漏れている。
「貴方が私と共にいて得たのは知識だけじゃないはずだ。それは、私も同じこと」
阿修羅はこれまでの日々を想い馳せた。それは夜空に浮かぶ星雲のように阿修羅の周りを取り囲んで行く。
思念を飛ばして、仏陀は阿修羅に会いに来た。何億由旬の時を超え、それでもなお美しい輝きを持って彼はこう言った。
――――私とともに人間界に降りてもらえないでしょうか。
長きに渡る戦いに疲弊し、心も鬼と化していた自分に、ふいに訪れた不思議な感覚。だが、阿修羅は彼を疑念の目で見ていた。何を企んでいるのかと。
――――ふっ。正体を暴いてやると思っていたのに、いつのまにかミイラ取りがミイラになっている。
阿修羅の頬はらしくなく緩んだ。
変な噂が立っても、まるで気に病む様子はなかった。あいつは、私を信じていたのか? 私の心が美しいと言った。
肺を凍らす吹雪の山を越えても、仏陀は一度も弱音を吐かなかった。阿修羅は呆れながらも、彼を助けたいと思った。いや、そう思うよりも先に行動していた。剣とともに人を傷つけることしかできなかったのに。
――――泣きたいときは、泣けば良いのです。私がいます。
あの夜、その言葉に違うことなく従ったのも、仏陀だったからこそだろう。いつしか、誰よりも心を寄せていた。
――――この者は私の供であると同時に、私を永久に導く者。
そう言っていた。あの時は、売り言葉に買い言葉だと思っていた。でも、心のどこかで仏陀が本心だということを知っていた。
「貴様は最初からわかっていたのか? 凍てつく氷のようだった私の心も、共に旅をすれば血の通ったものに出来ると?」
「まさか……」
仏陀は口元に笑みを浮かべた。そして、またしっかりとした口調で続ける。
「貴方は少しの間、見失っていただけだ。それを取り戻したのは私の力ではない。貴方自身が持っていたものだ」
「仏陀……。私は……」
「貴方を迎えに行った時から、私の望みはただ一つ。共に生きて欲しい。ずっと永遠に」
それは、仏陀がずっと阿修羅に示してきたことだった。言葉ではなく、語る目で語る行動で。ずっと伝えてきた。
阿修羅の胸に暖かいものが満ちていく。体中の血液を通って仏陀の言葉が染み渡っていく。
阿修羅もそうと知っていた。同じようにずっと感じていた。阿修羅はゆっくりと頷いた。
「約束しよう、仏陀。導ける自信はないが、約束の日の望みは唯一つ。おまえとともに旅を続ける。この命尽きるまで……。いや例え尽きようとも、未来永劫に、おまえと共にいよう」
――――そうだ、漸く私は出会えた。心強く惹かれる者に。
仏陀の宇宙が広がる瞳の中に、優しく微笑む阿修羅がいた。仏陀はそっと阿修羅の手を取ると、唇を寄せた。
それは一瞬であり、永遠の誓いだった。
背後で、仏陀の異変を知った村人達が心配そうに集まってきた。中には彼らが神と信じる、天界の住人に祈る声もする。
「止めろ! そいつらはお前達に何もしてはくれん。神など、この世にはいない」
「あ、阿修羅様?」
「やつらは神などではない。ただの傲慢でわがままで少しばかり長生きなだけの輩だ。忘れたのか? お前達を救ったのは、誰でもないこの男だ! 仏陀こそ、この世を救う唯一の者だ。決して失ってはならないたった一つの希望だ。そして、今この男を救えるのはお前達だけだ。さあ、今すぐ湯を沸かせ、粥を作れ、一刻の猶予もないぞ!」
皆の目が床に臥す仏陀の姿に引きつけられる。病に伏してもなお、その存在は輝きを失わない。泣きだす者もいる。
「は、はい!」
跳び跳ねるように村人達は動き始める。
夜明けが近かった。東の空は淡いグレーに山々を映し出す。本当に久し振りに太陽が空で輝こうとしていた。
それから数十年、阿修羅は仏陀とともに旅を続けた。幾百人の弟子に従われながらも、その最も近い場所に彼女の姿はあった。
仏陀八十歳の年、彼は沙羅双樹の下でこの世の生を全うした。多くの弟子、信者、獣や天界の神々に看取られて。
だが、その後も二人の旅は続く。
水面に覗く蓮華に陽の光を当てるために。
時を越えて……。
完
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