8話『少女の異能』
《サファイア》
さて、どうして私は追いかけられているのだろうか。
少女は切れる息をそのままに、必死に自分が何をしたのかを思い返していた。事の発端は今から数日前……自宅に気味の悪い招待状と、宝石が送りつけられてきた時であろう。
姫宮海音は元より、このゲームには参加する気は微塵もない。奪い合いはともかく、殺し合いなど以ての外だ。自身がそのような殺伐とした世界にのめり込むなど、有り得ないと言っても過言ではない。それは世の中でいう“悪いこと”に含まれる行為と行動であり、法律と校則の檻の中で慎ましく生きてきた少女には理解しかねる外側の世界であった。そのはずなのだが、海音は絶賛その騒動の渦中にいる。
海音は平々凡々な中学生だ。まだたったの十三年しか生きていない若輩者だ。更に言ってしまえば、周りの大人から見れば人生の初心者の立ち位置にいる小生意気な餓鬼だ。そんなひよっこな子供にとって、血を血で洗うような残虐な抗争は未知そのものであり、恐怖の対象以外の何物でもない。クラス内で起こるいじめ行動などよりも、よっぽど悪趣味極まりないだろう。これから生きていく先で、そこは絶対に関わり合いたくない世界だった。しかし何故か関わってしまった。いや、関わったというよりかは、巻き込まれたが正しいだろう。不愉快極まりない感情が海音を蝕んだ。
海音は配布された手紙を一読した瞬間、このような思考が脳を巡った。
もし自分が見知らぬ誰かに殺害されたら?
もし自分が誤って人を殺してしまったら?
それはごく自然で当たり前な感情だろう。そう考えるだけで体は震え、身の毛がよだつ。海音は思わず自らの右頬をはたき、左頬を抓った。しかし、悪夢は醒めない。まるで悪い意味で夢のような展開ではあるが、どうしても幻ではない。逃れようのない現実そのものであった。これほどまでに理不尽な事は、本来あってはならないのだ。
海音は決意した。
この宝石は『逃走』の為だけに使う。
そして人から宝石を決して奪わない。
常に首からぶら下げ、宝石が共鳴反応を起こせばとにかく逃げる。相手が気さくに話しかけてこようが、それは罠に違いない。どんな状況だろうが、とにかく逃げの一手が最優先事項である。それに、この《サファイア》の持つ異能を使えば、きっとどのような相手からであっても逃げる事は容易いだろう。
海音は己の運命を恨みつつ、宝石を握りしめ覚悟を決めた。
◆
そして現在、海音はとある二人組に追われていた。
一人は銀髪の美しい女性だ。追う姿は凛々しく、海音を一点に見据えている。その狩人のようなもの真っ直ぐとした瞳はどのような男性でも一目置く美しさを感じる。そして彼女が足を踏み出す度に、長く艶のある髪がさらり揺れる。風が一本一本を吹き抜けていくようで、柔らかそうだなと感想を抱いた。彼女はできることなら将来、海音が目指したい理想のタイプであった。
そしてもう一方は男性だった。格好いいと言うよりかは表情が柔らかく、童顔系であると思う。きっと「可愛い」タイプで周りから人気がありそうな顔立ちだった。まぁ、男性に対してはその程度の印象しか受けなかった。俗に言う何処にでもある青少年といった感じだろう。
二人ともまだ若く、恐らく高校生くらいだろうか。友好的に話しかけられた気がしたが、関係はない。そういう風に「無害ですよー」と近付き、不意打ちで「騙されたな間抜けめ」とグサリという作戦かもしれない。そういう可能性は相手が誰であれ0パーセントではない。宝石所持者と対面した場合、その可能性が0.1%でもある以上、兎に角何が何でも逃げる。それが海音の選んだ道だ。
……もし追い詰められた場合、最悪『あの手段』を使うしかない。絶対に彼らから逃げ切ってみせる。
◆
《ペリドット》
少女は通行人などまるで関係ないといったように堂々と突っ走っていく。だというのに、彼女は一向に人とぶつかる気配がない。この人並みの中、彼女はその間隙を縫うように抜けていく。
こっちは既に三人と肩を打つけ、その度誠心誠意に陳謝している。そんな鈍臭い裕仁にに比べ、雪乃も負けじと滑るように躱しながら走っている。然しそれは躱しているのであって、通行人が避けているわけではない。目標である少女は、まるで躱していないのだ。通行人が避けているのだろうか。 いや、避けてなどいない。何を言っているのか自分でも分からないのだが、それでいて通行人と少女は一切当たってなどいなかった。
「一体どういう仕掛けなんだろうな?」
裕仁は息を切らせながら隣を走る雪乃に問いかけた。雪乃はこちらに視線を向けることはなく、前を走りながら答える。
「さあ? そういう『宝石の力』かもしれないわ。」
「どんな?」
裕仁は更に次いで問う。しかし雪乃もどうやら全く見当もついていないようであった。
「そんなの知らないわよ。きっと『通行人とぶつからない』能力とかじゃないの?」
裕仁はもう人避けゲームはやってられないと感じ、車道側へと飛び出した。
「ハズレすぎるだろ。」
雪乃は「危ないわよ」と一言呟くと、息を切らしながら嘆いた。
「現に苦戦してる貴方が言う言葉かしら?」
高校生組が息を切らしながら走っているのに対し、少女はペースを落とすことなく走り続けている。若さ故の体力だろうか。ろくに運動をしていない二人に比べ、少女の動きは実に軽捷だった。こんなの追付けるはずがない。そう裕仁が考え始めた瞬間の事だった。
少女は此方をふと振り返ったかと思うと、突然その場に立ち止まった。そして少女は吸い込まれるようにして、裏路地の方へと姿を消した。
何か少女の様子が変だった。罠か、或いは路地に逃げ込むことで確実に逃げ切る策があるのだろうか。しかしどちらにせよ、裕仁は此処で立ち止まる訳にはいかない。どのような仕掛けが施されていようと、此処で引き返せば少女を説得するどころか、不審者ではないという誤解を解かせる事も出来ない。このまま少女を追い回す変態という濡れ衣を着せられ続けることになる。雪乃はそんな裕仁の後ろで「貴方ならその程度の濡れ衣なら軽く着こなせるでしょう」などと言っているがそれは絶対に避けたい。
裕仁は取り敢えず誤解を解きたいと、すぐさま後を追う事にした。
「路地裏に入ったぞ。」
裕仁は更に足の回転を速めた。もし路地が入り組んでいたならば、見失ってしまう。そうなれば逃げられたも同然だ。だが雪乃は、少女のとった行動の不自然さに気付いたようだ。彼女は走りながら、裕仁にそっと呟いた。
「可笑しいわね……。この路地の先は確か行き止まりだったはずなんだけど……。」
そんな雪乃の呟きを意に介さず、裕仁は裏路地へ足を踏み入れた。すると、行き止まりを告げる壁の前に立ち尽くす、ツインテールの少女の姿があった。
「ようやく……追い詰めたぜ!」
裕仁は息を切らしながら、少女に話しかける。一応辺りを見回すも、罠や仕掛けの類は一つとして見当たらない。単に道を間違えただけだろうか。だが、そんな単純なミスをこの少女はするだろうか。角を曲がった時点で行き止まりであるとすぐに分かるはずだ。幼いとはいえ、そこまで頭が回らない年頃ではない。ということは、何か少女には策があるのだと考えるのが自然だ。警戒はしておくべきだろう。そう判断した裕仁は、慎重に一歩ずつ前へ進み、少女に弁解を始めた。
「別にお前を取って食おうって訳じゃあ無いんだ。な、せめて話くらいは聞いてくれよ。じゃねーと俺は変態っていうレッテルを貼られたままこの先を生きることになっちまう……。」
少女はくるりと振り返って、裕仁を強く睨みつけた。少女の眼光の鋭さに、裕仁は思わず狼狽する。だが、そんな様子を冷徹な目で見る雪乃の姿を捉えると、裕仁はすぐに体勢を立て直して少女に向き直った。
「信用できないわ。傍目から見れば、弁解の必要もなく貴方は幼女を追い回す変態よ。何も間違っちゃいないわ!」
「………否定できないのが辛いな。」
裕仁は額を抑えて溜息をついた。嘆かわしいことに理由はどうであれそれは事実というものであり、改めて人に言われると心が傷つく。
「という事で、私は逃げるわ。」
少女はぷいっと裕仁から視線を逸らし、逃亡宣言をする。しかしここからどうやって逃げるのであろうか。事もあろうに、ツインテールの少女は再び壁の方へ向き、奥へ奥へと行き止まりに向かって歩みだした。何故彼女は逃げると明言しておきながら、更に窮地へと歩いていくのだろうか。退路もすでに裕仁と雪乃によって塞がれている。これでは袋の鼠だ。逃げるなんてほぼ不可能に近い。
「逃げるって、どうやってかしら? 神様にお祈りでもするのかしら?」
雪乃が揶揄気味に話しかけると、少女は首だけ振り向いて嘲るようにクスリと笑った。
「その必要はないわ。私は“モーセ”よ。大海を割って歩くモーセ。『祈り』は既に済んでいる。今に“奇跡”は起こり出す。」
少女がそう言い終えた瞬間、目を見開く事件が起きた。簡単に、それでいて簡潔に起こった事を説明するならば、『壁が、壁でなくなった』のである。
まるで何を言っているのか分からないと思うが、裕仁自身何が起きたのか理解できなかった。奇跡? 笑わせるな。こんなもの奇跡でも神変でも何でもない。これはただのインシデントだ。
裏路地の壁と化していたビルは異状に傾いて倒れ、ただの何処にでもある上り坂となった。一体全体どういう仕掛けなのかは全く想像がつかない。きっとこれが彼女の持つ『宝石』の力なのだろう。否定したい光景だが、疑いようもない事実だ。あの一人の幼い少女は、ビルの壁を傾けて、登りやすい坂道にした。
「adieu」
裕仁と雪乃が呆気にとられている間に、少女はその上り坂を全力で駆け上がり始めた。まるであまり余った体力と脚力を全て注ぎ込むかのような全力疾走だ。その光景から連想するのは、最後の悪あがきーー。少女は此処で決着を付けるつもりだ。このビルを越されれば、少女に追いつく事は出来ないかもしれない。いや、絶対にできない。何としてでも、この場で少女を捕まえなければならない。この場で不毛な鬼ごっこに終止符を打たなければならない。雪乃は若干笑顔を引きつらせ、乾いた声を漏らした。
「残念ながら、『通行人とぶつからない』能力じゃあなかったようね。」
「そんな事は最初から分かりきってたがな。」
裕仁は地面を蹴りつけて飛び出し、少女の後を追った。流石に小中学生の女子にスピードで劣っているとは考えたくはない。これでも中学の頃は50メートル走6秒台だ。男子のプライド的な何かに賭けて、敗北するわけにはいかない。
だがどういう訳か、一向に追いつくことができない。少女との差は縮まらず、それどころか少女はあと少しでビル壁を上り切ろうとしていた。それから裕仁は漸く異変を察する。徐々にその斜面の角度は急になり始めていたのだ。いや、正確にはビルが正位置に戻ろうとしているのだ。通りで追い付けないわけだ。通りで坂道を登るのにこんなに疲労感が襲ってくるわけだ。
「くそっ!あのガキンチョ!」
裕仁は壁にしがみ付こうとするが、残念ながら平面に突起一つない。幾ら立派なビルとは言え、裏路地に面した方に窓枠は無かった。裕仁は情けなく下へと滑り落ちていく。
そして少女が登りきった頃には、すでに壁は何事も無かったかのように直角へと戻っていた。
「……ますます意味が分からねぇ。どういう仕組みだ?」
雪乃は先程まで傾いていた壁に触れながら、疑問を呈した。
「そうね…。これだけ傾いていた割に、中から悲鳴の一つすら聞こえなかったわ。大通りの方からも驚きの声は無かった。幻覚なのかしら?」
確かにそうだ。壁と言ってもこれはビル壁だ。廃ビルでもなければ無人ビルでもない。普通のビルだ。少なくとも一人はビルの中にいるはずだ。そして、傾いたのが見えたはずの大通りも騒がしくない。裕仁の脳では、何がどういう訳か全く分からなかった。ならば、取るべき行動はたった一つだ。
「よし。確かめてくる。」
自身が理解する方法は、もうこれしかない。実際に見て確かめる、聞いて確かめる、感じて確かめる。これに限る。経験だけが、裕仁にとっての真実だった。
裕仁はそう言うと身をかがめ、スニーカーに手を触れた。勿論、与えた命令は
「飛び上れ」だ。
裕仁は助走をつけ、高く飛び上がった。するとその反応に呼応するように、スニーカーは裕仁を空高くへ押し上げた。既に何度か経験した事がある感覚だ。徐々にその仕様には慣れ始めていた。やはり力の扱いも、経験を積んで慣れることが一番だろう。
そのビルは、五階建てだった。
五階建てのビルの屋上まで、裕仁は立ったひと蹴りで飛び上がったのだ。さもそれが自然かのように、さもそれが当然かのようにふわりと屋上へ着地した。
便利な力を手にした人間は、それを手離したくなくなるという。それが例え、どれだけ危険であっても、どれだけ迷惑がかかっても。
裕仁はそれが何となく理解出来た。最早この力は自分の一部だ。ゲーム開催期間のみの使用期限だが、その間はこの力を限りなく楽しみたい。何故か恐怖の対象であったこの力に、興奮を抑えきれなくなっていた。
…感動に浸っているよりも、優先すべき事がある。
裕仁は広い屋上をぐるりと見渡した。弊害物は殆どなく、ただひたすらに平坦であった。少しの緑に薄汚れたベンチ。そして喫煙者用の灰皿。休憩用に設置された簡易休息場といったところだろうか。勿論、既にそこに少女の姿は無かった。
分かりきっているが、ここに隠れる場所は一切ない。そして下階へと続く階段の扉は大袈裟に開け放たれ、少女が既に逃亡したのは明白だった。追われると分かっていて、その場で留まる泥棒は阿保だ。
これは偏見かも知れないが、子供は鬼ごっこが得意だ。追われれば逃げる。その程度の知恵は当然ある。「そりゃ逃げるよな」と裕仁は軽く舌打ちをし、すぐさま雪乃に電話をかける。「早く出ろ」と思う前に、たったのワンコールで雪乃は電話に出た。掛かってくることを予測していたのではないかと思う程、彼女が電話に出るのは早かった。
「もしもし。」
焦る裕仁とは裏腹に、電話のスピーカーからは落ち着いた雪乃の声が届く。
「あの子が逃げた。下に行ったかも知れない。出入り口を見ておいてくれ。」
裕仁は簡潔に逃げられた事を告げる。そう言うと、雪乃は気怠そうに返事を返した。きっと電話の向こう側で手をひらひらとさせているに違いない。その姿が容易に想像できた。
「あーあー。何となく内容は分かってたわよ。既にスタンバイしてるわ。」
「おぉ……。さすが、準備がいいな。」
それよりも、と雪乃は裕仁の言葉を遮った。突然言葉を被せられたもので、裕仁は思わず少し口を塞いだ。それから数瞬の間を置いて裕仁は口を開いた。
「…なんだ?」
「『ちゃんと探したの?』」
雪乃は虚をつくように、強く言葉を放った。その言葉は裕仁に深く深く突き刺さる。そういえば、そうだ。
雪乃の言うように、裕仁は全くこの屋上を捜索していない。堂々と開け放たれた扉を見ただけだ。たったそれだけで、逃げられたのだと勝手に決め付けた。思い返せば、早とちりにも程があった。
「どうせ扉が開いていたから焦って電話かけてきたんでしょう? ちゃんと隅から隅まで探しなさい。『子供が一人隠れられそうな場所』を特にね。ちなみに、子供と煙は高い場所が好きだそうよ。」
そう言い終えると、雪乃は不意に電話を切った。
……全部見抜かれていた。
図星すぎて恥ずかしい。これはこれで恐怖の対象だ。何故そこまで裕仁の思考を的確に読み取れるのだろうか。行動の一つ一つが全て読まれているようだ。何処からか監視でもしてるのではないか。裕仁は雪乃の所為で、妙な寒気に襲われる事になってしまった。
裕仁は電話を宝石の入った方とは反対側のポケットに仕舞うと、もう一度屋上をよく見渡した。此処まで簡素な屋上ならば、隠れられる場所はかなり限られてくる。そして、裕仁は捜索場所をとある一箇所に絞った。
それは屋上に唯一ある弊害物……“貯水タンク”だ。
このビルの貯水タンクは、鉄骨で組まれた高い土台の上に大きな立方体のタンクが設置されている。梯子がかけられ、誰でも登る事が可能だ。タンクは扉よりも奥に設置され、開け放たれた扉というカモフラージュに目を取られていれば、少女の潜伏場所としての候補に上がる事はないだろう。隠れ場所としては恐らく絶好だった筈だ。あの少女も中々に悪知恵が働くものだ。
裕仁は意を決して、梯子に足を掛けた。音を立てぬよう、ゆっくりと慎重にだ。しかし鉄骨を登り切っても、未だに反応はない。逃げようとする靴音、服が擦れる音、荒げる呼吸音、何一つ聞こえない。
おかしい。
幾ら忍び足で近付こうとも、鉄骨は音と振動が響きやすい。どれだけ忍ぼうとも聞こえていないという事は無いだろう。それに、少女はこちらの動きも窺っていた筈だ。もし裕仁が扉から迷わずに下階へ下っていたなら、少女は悠々と勝ち誇って逃げられる。少女は恐らくそれを望んでいた。ならば、こちらを見張っていて当然だ。なのに逃げない。あの強力な宝石の力を駆使すれば容易に逃亡できるにも拘らずだ。
裕仁はこの際、音など気にせずに急いで貯水タンクの上を確認しようとした。それに連れて自然と梯子を登るペースも上がっていた。裕仁が次の段へ足を運ぼうとした次の瞬間、唐突に梯子が珍妙な形態へと変化し始めた。
ビルの傾斜に次いで、宝石による攻撃を再び受け始めている。
両端の鉄棒はそれぞれ逆方向へと角度が広がり、幅は斜めに大きくなり続けた。そして、裕仁の足を掛けていた段も歪に傾き始め、思わず滑り落ちそうになってしまう。しがみ付いているのがやっとだった。
これは最早現代アートだ。梯子は無残にも、登る事も不可能なただのオブジェと化した。
「なんだぁ⁉︎ 」
裕仁は思わず声を荒げた。少女の攻撃を受けるのは二回目だ。それでもまだまだ謎が多く、慣れる事はない。それどころか正体も掴めない。
しかし焦りはしなかった。
とある事を確信したからだ。
この貯水タンクの上に、“少女はいる”。
堂々とそこを占拠している。
「攻撃を仕掛けてくるって事はよぉ、そこにいるんだな‼︎」
裕仁は必死に握っている梯子に、抵抗の色を見せた。意地でも離すまいと、バラバラに散開しかける梯子の棒を握りしめる。
「くっそ! 絶対捕まえてやるからな!」
裕仁が叫ぶと、梯子はまるで左右反対に引っ張り合うように歪んだ。そして金属特有の甲高い音を立てて歪さは増し続け、遂に梯子は耐えることを諦めて弾け飛んだ。鉄製の梯子はいとも容易く、そして呆気なく空中で分解される。その勢いに逆らうことはできず、裕仁は屋上から投げ出されて自由落下を始める。このままでは5階の高さから地面に叩きつけられることになる。
それでも裕仁は驚きを見せない。
何故なら、裕仁が梯子に命令を与え、“わざと”分解したからだ。
「間に合って良かったぜ……!」
裕仁が完全に下に落ちることはなかった。
それどころか、裕仁の体は梯子のあった元の位置に戻り始めていた。時が巻き戻されるかのように、物理法則を無視して裕仁の体は落下する前の場所へと戻されていく。勿論、霧散した梯子の欠片も全てだ。登る事が不可能となっていた梯子は綺麗に破片が繋ぎ合わされ、変形する前の姿になった。
裕仁が、変形した梯子を分解したのは“これ”が目的だったのだ。
「………ったく、無茶なことは止めなさいよね。私がそのまま下で待ってたらどうするつもりだったのよ。軽く五回は死んでたわよあんた。」
裕仁は口元を緩めた。
開け放たれた屋上の扉の前には、銀髪の少女……嘉嶋雪乃が腕を組んで立っていた。それから長い後ろ髪をさっと撫で、顔には美しいまでのドヤ顔を浮かべている。仲間のピンチに颯爽と現れて、鮮やかに助け出す。彼女の内心はきっとヒーローに似た達成感の様なもので溢れ返っているのだろう。
「……ナイスだ雪乃。後で100円以内で何か奢ってやる。」
裕仁は雪乃の『ガーネット』の力……『様々な物を繋げる』異能によって元通りに直された梯子を駆け上り、裕仁は遂に貯水タンクの頂へと上り詰めた。予想以上に高度があり、あまり高層ビルのないこの街ならある程度鳥瞰することが出来た。
そしてそこには、ツインテールの少女が見つかるまいと姿勢を低くして伏せている姿があった。裕仁はそんな少女の前にしゃがみ込むと、目を合わせて悪い笑みを浮かべる。少女は明らかに「やっべ」という表情を浮かべたが、気にしない気にしない。
「さぁてと、存分に話を聞かせてもらおうじゃあないか。小童。」
まるで悪役の様にーーー他人から見れば完全に悪役だがーーー裕仁は少女を見つめた。
「ひっ……!」
裕仁と目が合うなり、少女は一瞬で怯えた顔つきになり、そして次に泣きそうな顔になった。
というより、既に泣いていた。