78話『終止符を打て』
《ムーンストーン》
……もう、“宝石の力”による治癒も間に合わない。
そもそも“アメジスト”の“身体能力の向上”を用いて自然治癒力を高めたとしても、それは外傷などの回復を促進するのであり、肉体的疲労などは対象外なのだ。傷口を塞ごうとも痛みは綿雪のように積もり続ける。刃物で切った指先の傷が、治りかけであるのに痺れるように痛むのと同じだ。目視できる傷を修復しても、痛みまで取り除く事は出来ないのだ。
それに加えて不便なのは、向上の後の疲労感だ。普段からスポーツや運動を嗜む者であれば、この宝石は更に輝くのかも知れない。しかし運動を好まぬ痩躯の青年にとって、この宝石は少々重いものだった。常人では想像のつかない速度での移動は、後々肉体に響く。慣れない運動に加え、筋肉の使用量も倍加する。つまり、あっという間に全身筋肉痛だ。
巳空の手には余る代物だった。
今から裕仁と雪乃に“勘違い”をさせようにも、効果はないのかも知れない。仮に二人の関係が表面上だけのものであり、薄氷のようであれば話は別だ。二人を互いに敵同士であると“勘違い”させ、相打ちさせればいい。しかし、巳空の“勘違い”は対象の人物が気付いてしまえば効果はなくなる。今の二人は確実に強い信頼関係で結ばれている。このようなチープな“勘違い”では到底敵わない。
効果音の能力で姿を消したとしても、ここから動いて逃走できるような気力は残っていない。そもそも、裕仁の持つ“空間を操る能力”とやらで既に退路は絶たれているのだろう。
……駄目だ、もう頭も回らない。
何一つとして妙案は思い浮かばない。どうやら、悪足掻きもここまでのようだ。
「……結局、誰も殺さなかったな。お前は。」
巳空は、ため息混じりに言葉を発した。恐らくその溜息には、最後の抵抗めいた侮蔑も含まれていたのだろう。裕仁という甘い男は、最後まで誰も殺めずに頂点に立っていた。それが偶然ではない事は分かっている。彼は背後から狙われることを恐れず、恨まれて逆襲されることを恐れず、そしてプレイヤーの良心を信じた。ここまでお人好しが過ぎれば、ただの馬鹿だ。それも最早救いようがない。
ただ、これで俺も目が覚めた……なんて言うわけがない。
この誰も望んでいないようなつまらない結果はつまり、命を手にかけるという覚悟が奴には足りていなかったという話だ。裕仁は結局最後の最後まで臆病者であったという証拠なのだ。そんな大甘者に、巳空が敗北するなど考えられなかった。今でも信じられない。殺して仕留めるのと、殺さずに無力化させること。それは言わずとも後者の方が難易度が高いと知れている。だからこそ、勝利する確率は巳空の方が高いはずなのだ。なのにこのザマだ。もはや笑うしかなかった。巳空は自分自身を嘲笑した。
「そりゃそうさ、このゲームは宝石を奪い合うゲーム。何も命を奪い合うわけじゃねぇ。」
裕仁は巳空の近くに屈むと、勝ち誇ったように呟いた。彼の表情は巳空の神経を逆撫でするには、充分すぎる刺激を与えた。裕仁の言葉の一つ一つが苛立たしい。それに加え、彼は何も分かってはいない。また、そこに無性に腹が立った。
「……なるほど。お前は未だにこれがただの“ゲーム”だと思ってるわけか?」
その巳空の言葉に、裕仁は全く存ぜぬと首を傾げる。その反応から察するに、彼は本当に何も気付いていない。何も不思議に思ってはいない。巳空は思わず盛大に舌打ちをこぼす。
「何も分かっていないようだから教えてやる。いいか、よく聞け。このゲームはお前が思っているほど底が浅い道楽なんかじゃねぇ。」
その言葉に、裕仁は再び疑問の言葉を漏らす。
「……どういう事だ?」
彼の反応を見かねたのか、雪乃もこちらに歩み寄りながらある事を口にした。
「“このゲームには何か裏がある”。そういう事よね?」
彼女は理解が早くて助かる、と巳空は感じた。雪乃の怜悧な眼差しは、既に何かを見据えているようにも感じた。彼女もまた、巳空と同様にとある推論を持っているのだろう。
「その通りだ。このゲームはただの金持ちが行ってる“賭け事”なんて比じゃない。ただのゲームにここまで金を使う理由がない。必ず、その組織に何かしらの利益があるはずなんだ。」
雪乃は巳空の意見に賛同するように、数回頷いた。
「確かに、私もおかしいとは思っていたわ。今回のゲーム、それに前回のゲーム。そして、あの金髪男が優勝した前々回のゲーム。少なくとも、三回は大金を払ってこのゲームが行われていることになる。」
もしこれがただの“賭け事”だったならばーーと、雪乃は言葉を繋げた。
「このゲームを、ここまで装飾華美にするかしら? 」
彼女にはどうやら、巳空が言いたい事が伝わっているようだ。やはり彼女がブレインの役割を果たしていたのだろう。彼女の持つ大胆な行動力、そして冷静な判断。彼女がもし巳空の仲間だったならば、間違いなく優勝へと導いてくれることだっただろう。この点においては少々裕仁を羨ましく思った。
「どうやら、お前は分かっているようだな。」
そう……このゲームは、まるで誰かに閲覧してもらうかのように飾り付けてあるのだ。ただの道楽ならば、もっと殺風的で、貧相で、もっと禍々しい舞台を整えればいい。なのに、だ。わざわざ高貴な“宝石”を利用し、便箋も決して粗末な用紙ではない。まるで富豪の開くダンスパーティーのように、美しく華麗である事を求めているかのような意図を感じる。更に賞金は一億円ときた。何処からそのような大金が出資されているかなど、凡人以下の巳空にはまるで察する事が出来なかった。ただ、恐らく国が絡んでいるかもしれない……。そのような“可能性”だけは思いつく事ができた。
ーーまぁ、ここでこれ以上の事を口にするのは危険かもしれない。
どうせこの様子も全て何処かで撮影されているのだろう。下手な事を口にすれば、最悪口封じで運営に殺される可能性もある。それだけは不愉快極まりない。これだけの異能の含んだ宝石を集める連中だ。きっと奴らも似たような“宝石”を所持していると見て間違いないだろう。もし運営が本気で巳空を消そうとするならば、人形の手を捥ぐ程度には簡単にやってのけるだろう。
「……まぁ、あれだ。」
巳空は再度深いため息をつくと、ズボンのベルトについている紐を解いた。それは巾着袋の紐であり、激しく動いてもポケットから投げ出されないようにと結んでおいたのだ。その袋を静かな動作で開けると、中から数個の宝石を取り出した。これらは巳空の集めた五つの宝石だった。それらを全て、不本意ながらも裕仁の元へと差し出した。
「これでお前はめでたく優勝者だ。その12個の宝石で、“運営”をぶっ潰して来い。」
裕仁は巳空の意図を察したのか、小さく微笑むとそれらの宝石を快く受け取った。
「あぁ、分かった。」
彼は嫌いな人間だが、悪行を憎む正義感のある性格なようだ。まぁ、そこが嫌いなのだが。きっと彼は、馬鹿正直に運営者と対峙するのだろう。自分の目でこのゲームの裏側を見たかったのだが、まぁ、仕方がない。負けは負けだ。それを認めずにいつまでも引きずるような格好悪い人間ではない。しかしほんの少し、微塵程度には後悔はあった。
………本当に何人殺したんだろうな。
自分でも分かっている。残酷非道で劣悪で、どうしようもないような肥溜め人間であることくらい。目的のためならば誰だって切り捨て、いざとなれば殺し、最終的に自分が良ければ全て良かった。本当に、誰の所為でこんな人間になったのだろうか。子供の頃はもっと、純粋であったと思うのだが……。
……あいつらさえいなければ、なんて今まで死ぬほど考えた。だが考えたところで、気分が浮かばれるわけではなかった。ただただ苦しみに満ちた暗澹たる中で、右も左もわからずにもがき続けるような苦しみだけが残るのだ。今回のこのゲームだって、別段賞金には興味はなかった。ただ、知りたかっただけなのだ。このゲームの裏の目的を。この組織が目指すその闇を。それを知ってどうこうしようと思っていたわけではないが、この世界はもう取り返しのつかないほど腐っているのだと再認識したかったのだ。
それならば、この世界に自分がいてもいい理由が見つけられる気がしてーーー。




