77話『終局』
《ペリドット》
これが正真正銘のラストバトルだ。
つい先ほどまで心の中に住み着いていた不安や恐怖は、全て拭い去ることができた。このような状況なのではあるが、実に清々しい気分だ。それは何故か、答えは明確に分かっていた。彼女が、隣にいる。今はもう、一人ではない。その事実だけで、裕仁は心が救われるような気がした。
……案外、俺もチョロいのかもな。
裕仁は自嘲気味に微笑むと、巳空の方へと視線を向ける。彼は雪乃に刺された傷口を抑えながら、鬼面のような表情でこちらを睨みつけていた。どうやら出血は止まらないようで、刺突された部分を抑える指先からは血液が漏れ出す。忿怒や怨嗟を全て剥き出しにしており、彼の目元や口元はひどく歪んでいた。あるいは、延々と訪れる痛みに抗うように踠いている様子なのかもしれない。どちらにせよ、心中穏やかではなさそうだ。
これは、雪乃が繋いでくれた好機だ。奴を倒すならば、今しかない。
とは言っても、こちらも立つのがやっとな状態だ。“死に損ない”という言葉は今の裕仁を言い表すのにぴったりな表現だ。足は小刻みに震え、手には力が入らない。人の体というのは不思議なもので、漫画のように本当に足にくるのだ。今すぐにでも膝をつきそうになる。それでも、奇妙な安心感が裕仁を包み込んでいた。もう、恐れない。もう、負けはしない。何故なら彼女がいるから。
「さぁ、立てよ巳空。何度目かの最終決戦だ。」
巳空は裕仁と雪乃の二人を眼光で射抜くと、邪悪な微笑みを浮かべて立ち上がろうとする。
「後悔すんじゃねーぞ……。これが正真正銘の最期だ。」
二人が立つ間隔に、激しい夜風が吹き荒れる。今夜は穏やかな微風であると聞いていたのだが、予報はどうやら外れたらしい。それとも、大気ですら裕仁と巳空の決着を期待しているのだろうか。誇大妄想なのだが、三人を包む空気の流れはやけに熱気を含んでいる。まるでこの閑静な森が、どこかの満員のスタジアムのような錯覚を覚える。誰かが見ているような、そして何処かで盛り上がっているような………言葉では言い表せないような興奮と歓声が辺りから響いているような気がした。
そのような不思議な感覚に包まれていると、早速巳空は攻撃の体勢をとった。傷口が更に開いたようで、苦悶の表情を示す。だが、彼は止まることはなかった。痛みすらもエネルギーに変え、彼は言葉通り死ぬ気で立っている。一体何が、彼をここまで突き動かしているのだろうか。その原動力となる存在を、裕仁は知る由もない。だが、彼の中で何かが大きく渦巻いていることだけは確かなようだ。
今の彼はまるで狂犬だ。裕仁を一点に見据え、限界を迎えているはずの足を強制的に動かす。虫の息とは思えぬようなほどの機動力を見せ、力強く大地を踏みしめる。その圧迫感を周囲に放つ迫力に、一瞬裕仁はたじろぐ。それに追伐するように犬歯を剥き出しにし、彼は吼えた。
そんな裕仁と巳空の間に、雪乃は瞬時に割って入る。彼女の行動には明確な理由を感じることができた。雪乃の目は裕仁を庇うような犠牲の目ではない。確実に巳空を仕留めるといった目だ。
雪乃は腕をしなやかに伸ばして払うと、巳空のスニーカーと地面を“繋げた”。瞬間、靴が地面から離れず、巳空は前のめりに倒れそうになる。まるで強力な粘着シートに捕まってしまったような感覚だろう。しかし巳空は刹那的な反応能力を示し、器用に靴から足を抜いて逃れる。その間に雪乃は次の手を仕掛ける。巳空に“座標”を一致させ、付近にある砂利石を全て巳空へと“繋げる”。細やかな土から拳大の岩石まで、様々な自然物が巳空に襲撃を嗾ける。今の巳空の体は、砂鉄を集める磁石のような状態だ。逃れる術はなく、次々と巳空の体に土砂は張り付いていく。しかし彼も、自身にダメージが及びそうな大きめの石類は全て砕いている。
そして遂に雪乃と巳空の距離は数メートルに迫る。どうやら砂埃が目に染みたようで、巳空は目を閉じながら疾駆している。雪乃の攻撃は目潰しの役割もあったのかもしれない。それでも巳空は一直線に雪乃へ向かって足を止めない。荒野を駆け抜ける一匹の獅子のように、獲物目掛けて駆け続ける。そんな彼を見て、雪乃は“攻撃をやめた”。
それからは、一方的に距離を詰められるばかりだ。どういう理由があってか、雪乃は一切彼に攻撃を仕掛けない。
………いや、彼女がしようとしている事は分かっている。あとは裕仁も、それに合わせて行動するだけだ。その須臾のようなタイミングを見計らい、巳空を仕留めるだけだ。
そして、その瞬間は思っている以上にも早く訪れる。
巳空は薄っすらと片目を開けながら、雪乃の顔に目掛けて腕を薙ぐ。彼の腕は骨に皮がついていると思うほど、痩せていて棒のように細い。しかし彼の膂力は、アームレスリングチャンピョンの豪腕にも匹敵する。いや、或いはそれ以上なのかもしれない。たかが振り払いであれども、まともに命中すればいともたやすく首が飛ぶだろう。
そう、躱すしかないのだ。
だがすぐ後ろには裕仁が立っている。退がることはできない。ならば横へ跳ぶのだろうか……いや、答えは既に決まっている。裕仁はポケットの中に手を入れ、迎撃の準備を開始する。“時は来た”のだ。
雪乃の側頭部に、巳空の細身の腕が迫る。もはや考えている時間などない。今、まさに決着の時が来たのだ。
雪乃は瞬時に頭身を下げ、巳空の薙ぎ払いを回避する。その背後………。
裕仁は、伸ばした手の先に宝石を置いて立っていた。
「じゃあな、“心が空っぽな蛇”さんよ。」
瞬時に巳空はその場から跳び退こうとする。だが、もう遅かった。裕仁はコインを弾くようにして宝石……“ペリドット”を巳空へと発射し、彼の眉間を撃ち抜いた。
………というのは流石に大袈裟な表現なのだが、間違いなくそのくらいの迫力はあった。甲高い音が森に反響し、草木は彼らを中心にして靡いた。
巳空は瞬間的な出来事に対処できず、そのまま宙を舞う。その動きに合わせ、額から血液が円弧状に飛び散る。どういう気持ちに支配されていたのか、何故かその数秒にも満たない出来事がとても長く感じた。まるで高速度撮影の世界にいるような気分だった。それは感傷なのか、はたまた追想なのか。
その感情がどちらであろうと、長かった夜はこれでお終いだ。まるでタイミングを見計らったかのように、森の木々の隙間から朝日が溢れる。巳空が地面に落下すると同時に、日の出が訪れた。
彼らの決着を祝福するように、陽の光は優しく、そして暖かく三人を包み込んだ。
申し訳ありません、挿絵の方はまた後日に追加させて頂きます。




