76話『二人を繋ぐ柘榴石』
《ムーンストーン》
轢かれた蛙のように死ねーーー。
巳空は再び力強くナイフを握り直すと、月にナイフを掲げた。下向きの刃先に月光が反射し、彼らを囲う闇の中で眩く照る。そして巳空は駆る衝動に身を任せ、ナイフを裕仁へと振り下ろした。それはまるでケーキにロウソクを立てるように、罪悪感などまるでないように行われた。
既に何人もの人の命を殺めてきたのだ。罪の意識というのも今更な気がする。
何はともあれ、この一刺しで全てが終わる。この一刺しで世界が変わる。そのための贄となってくれ。そのための布石となってくれーーー。
その、刹那だった。
裕仁へ凶刃が突き刺さる一歩手前……巳空はふと、自分の背に違和感を感じた。まるで燃えるような暑さが局地的に生じたのだ。その熱はやがて肌を焼くような痛みへと変わった。夜特有の冷風に染み、鋭い痛みが継続して訪れ続ける。いや、停滞していると言った方が良いだろうか。今までのどの状況において、これ程までに直接的で現実的なな死を感じたことはなかった。思わず身の毛がよだつ。
あまりにも矢庭な出来事に、巳空は理解が追いつかなかった。この痛みの正体は一体何なのか。自身に何が起こっているのか。全くもって想像がつかない。この森には裕仁と巳空の二人しか存在していない。誰にも干渉は不可能なのだ。誰にも介入できる余地はない。
……その筈だった。
驚きを隠せない巳空の背後から、まるでその時を狙ったかのように、ふと少女の声が聞こえた。まるで囁くような、語りかけてくるような小さな声だった。それでも静けさが支配するこの森では十分すぎる声量だった。
「あなた、勘違いしてるわよ?」
その声は、何度か聞いたことのあるものだった。それも昔ではなく、ごく最近に。まさか、と巳空は器用に首を傾け、声の主を確認しようとする。その時、彼女は近くにいたのか、口元だけが視界に映った。彼女の口角は、少々愉悦に歪んでいた。まるで憎き敵を我が手で屠ったように……その比喩は、強ち間違いではなかった。
「私はとっくに“リタイアした”って。」
そこには、巳空の凶弾に倒れたはずの嘉島雪乃の姿があった。手には殺意の篭ったナイフが握られており、それが深々と巳空の背に突き刺さっていた。何かの間違いかとも思ったのだが、この痛覚は現実そのものだ。夢からも醒めてしまうような痛みだ。
……だが、どうやら急所は外したようだ。
肺にも心臓にもナイフは刺さっていない。不幸中の幸いとはこの事だ。これならばまだ、戦える………。
《ガーネット》
まさに虚をついた一撃。これが本当の“闇討ち”と言わんばかりの不意打ちだった。我ながら背後から汚いとは思うが、致し方ない。これは正々堂々の勝負ではない。要するに勝てば良いのだ。
……だが、いざナイフを巳空に向けた時。脳裏に裕仁の顔が浮かんだ。今まさに彼は刺されようとしている。命を手放しかけている。なのに、なのに彼は雪乃の中で巳空を「殺すな」と訴えかけてきた。あくまでも、誰も殺さない。それが彼の流儀のようなものだった。
……いよいよ、彼に毒されてきたな。
雪乃は自嘲気味に笑うと、“わざと”巳空の急所を外してナイフを突き刺した。彼の治癒力を持ってすれば、こんな傷はすぐに修復してしまうのだろう。それでも、間違いなく巳空には効いたはずだ。
それに彼を殺してしまったら、裕仁に嫌われてしまいそうで………。それだけは何故か嫌だ、と咄嗟に思ってしまった。ほんの数ヶ月前には自ら彼にナイフを向けたというのに。手のひらを返すように気持ちが転がってしまったのだ。
雪乃は巳空の膝裏を蹴り落として膝をつかせると、首元に蹴りを入れて飛び退いた。その隙に裕仁の元へ駆け寄ると、彼の頰をペチペチと叩く。しかし、何度叩いてもまるで目覚めようとしない。
「……ほら、いつまで寝てんのよ。早く起きなさい!」
そう雪乃は声を荒げると、優しかった平手は遂に強烈なビンタへと変わった。鞭のように手をしならせると、彼の頰へと吸い寄せられるように叩き込まれた。風船が割れるように大きく、そして快活な音が辺りに鳴り響く。
その衝撃に耐えかねたのか、
「…………痛ってぇ!!」
と裕仁は思わず飛び起きて頰をさすった。それから彼は我に返ったように、雪乃へ疑問を投げかけた。
「あれ……なんでお前ここにいんの?」
雪乃は揶揄うように
「別に、通りかかっただけよ。」
と返事を返した。それから彼は辺りを見回すと、呂律が回らないほど驚いたように声をあげた。
「え? ん? なんで巳空にナイフ刺さってんの?」
その問いかけに雪乃はまたもや真面には答えない。飄々とした態度で適当に言葉を紡いだ。
「さぁ、空から降ってきたんじゃない?」
裕仁は首を痛めるのではないかと思うほど辺りを見回し、単発的に「え」や「あ」を口から零している。そんなイマイチ状況が読み込めていない彼に対して雪乃は一度溜息をつくが、それでも優しい微笑みを彼に見せた。
「全く……。一人でケリをつけるなんて言って飛び出したかと思うと、結局これなんだもの。」
その言葉を聞いて漸く理解した裕仁は、恥ずかしそうに笑って雪乃から目を逸らした。
「……やっぱり、俺一人じゃあ荷が重かったかもな。一人で何もかもを背負いこんだところで、良いことなんてありゃしなかった。」
そして裕仁は懐から一つの宝石を取り出すと、雪乃の前へと差し出した。
「お前にも、この宝石を預けるよ。やっぱり俺には、雪乃の力が必要だ。お前がいなきゃ、俺は戦えねぇ。」
宝石が一つだけというのは、きっと雪乃が病室で話した“準優勝”を気にしてのことだろう。これ以上新たな宝石を手渡すと、雪乃は巳空と並んで同率の二位になってしまう。彼はこう言ってはいるが、本当は雪乃に戦わせたくはないのだろう。
そんな彼の優しさが見え隠れする言葉に、雪乃はいつかと同じような懐かしい台詞で返した。
「………それは“プロポーズ”と受け取ってもよろしくて?」
裕仁は一拍を置いて立ち上がると、雪乃に背を向けて歩みだした。その一歩一歩は力強く、大地を踏みしめるようなものだった。そんな彼の背中は、とても大きく見えた。そして裕仁は歩みを進める中、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声音で答えを告げた。
「……好きにしろ。」
雪乃は彼の予想外の回答に、思わず微笑みが溢れる。ついついそのような発言を口走ってしまった自分自身にも羞恥を感じてしまう。
「……正直じゃないわね。」
そう小さく呟きながら、雪乃は裕仁から貰った“ガーネット”を見つめた。
“ガーネット”の石言葉は『友愛』
彼にとっては、元々雪乃が所持していたから渡したという簡単な理由だろうが、雪乃は大切にこの宝石を握りしめる。ゲームの運営から受け取るのと、彼から受け取るのでは大きな違いを感じる事が出来たから。




