74話『意地の衝突』
《ペリドット》
衿花との約束は、“裕仁を逃すまで”。つまり、彼女の協力が得られるのはここまでだ。衿花は既に、裕仁に別れを告げてこの森を後にした。今現在、この森の中にいるのは巳空ただ一人だ。
裕仁はもう一度、森の中へと足を踏み入れる覚悟を決めた。もう逃げ出せない所まで足を踏み入れているのだ。裕仁の足は半ば強制的に森の方へと動き出す。この中はまさに修羅の世界だ。生きて出てくるか、死んで戻ってこないか。確率が五分五分の特異点だ。闇と静寂の支配する森林は、大きく口を開けて裕仁を待っている。この短時間で何度も味わったこの感覚。忌まわしい感覚は脳裏に執拗にこびりつき、裕仁に軽く二の足を踏ませる。だが、止まることはできないのだ。それは最早、自分の意思ではない。どれだけ嫌がろうとも、どれだけ嘆こうとも、誰かに背を押されているように進み続けるしかないのだ。でなければ、この悪夢は終わらない。
魔王の城に侵入する勇者も、このような気持ちなのだろう。本当は怖くてどうしようもない。だが、立ち止まることが許されていないのだ。それはちっぽけな正義感なんてものの所為ではない。ただ、自分自身がこの緊迫した状況から早く解放されたいだけなのだ。
だからと言って、このまま堂々と散歩道を歩き、巳空と対峙するのは得策ではない。それくらいは裕仁にも分かっている。何故なら、再び能力を消されかねないからだ。あの異能が都合よく一日一回のみなら話は早い。だが、恐らくそのように生易しくはないだろう。きっと何度でも使えるに違いない。
だからこそ、望むべきは短期決戦だ。そのためには不意打ちも厭わない。正面から衝突して、良いことなど何もないのだから。「卑怯者」だと、「小心者」だと罵られても何も言い返せない。だが、真正面から突撃してあっさりと散る「英雄」になるよりも、泥を這うように生に執着するのが大半の人間だ。誰しもが漫画の主人公のように立派な志など持ち合わせていない。当然、裕仁も有象無象の人間の内の一人だ。仮に背後から迫り闇討ちしようとも、誰かに「それは間違っている」と諭されるような筋合いはないのだ。
…………一撃で、奴を仕留める。
闇夜に紛れ、不意を打つように討取る…………それが出来れば苦労はしないだろう。だが裕仁が確実に勝利を収めるには、もうこれしか残されていない。次に異能の効果を打ち消されてしまっては、裕仁を救うものは残されていない。それこそ正真正銘のゲームオーバーだ。
裕仁は一度唾を飲み込む。極度の興奮のせいか、乾燥したように喉が痛い。呼吸をするたびに、体の水分が抜けていくような感覚が襲う。この十数分で、寿命も何年も縮んだように感じる。唇を噛み、拳を握りしめ、目を一度閉じる。そして数回、深く深呼吸をして精神を落ち着かせる。閑静である筈の森から聞こえる、不自然なざわめきが耳を撫でる。
………行くしかない、か。
裕仁は目を開くと、悪魔の口内へと飛び込んだ。
・・・
裕仁は衿花が使用していたように、空間を“上書き”しながら森の中を歩いて行く。そして同時に、自らの足音もこの空間から“消し去った”。このような使用方法もあるとは、裕仁では思い浮かばなかった。盲点だった。確かにここまでゲームを生き抜いてきて、分かったことがあった。確かにこの争奪戦には個人個人の力量の差のようなものも問われるのかもしれない。だが、柔軟な発想、機転のきく応用力がやはりそれに勝るほど重要な要素だった。ただの物理的な強さだけでは勝ち抜けないシステムになっていた。ライオンのような強さ、そしてキツネのような狡猾さ。両方を兼ね備えたプレイヤーこそが頂点に立つ仕組みとなっているのだろう。
……それから暫く森の中を散策すること数分。
遂に裕仁は巳空の姿を見つけることが出来た。既に暗闇に慣れた所為か、遠くの方まで視界が効くようになっている。だからこそ、裕仁は驚愕の色を示した。
別段、彼が錯乱した行動を取っていたわけでも妙な儀式をおっぱじめていた訳でもない。
ただ、もっと単純で、それでいて信じられない光景が目に飛び込んでいた。
……傷が、癒えている。
裕仁が苦労して蓄積した巳空へのダメージ。それが全て0になっていると言っても過言ではない。砕いたような感触があった顎の腫れも引き、既に数カ所からの流血も止まっている。
もしかすると、巳空が能力を無効化させたのは裕仁を仕留める以外に、“回復”の目的もあったのかもしれない。つまりは時間稼ぎ。仮に逃げられたとしても、万全の状態で迎え打てるように。
それならば幾つか納得がいく節がある。一つは、“巳空が真剣に追ってこなかった”と言うことだ。考えれば簡単な話だ。裕仁が逃げ出した瞬間に追いかけていれば、見失うこともなかったはずだ。巳空の身体能力の向上ならば、数秒もかからぬうちに裕仁にトドメを刺すことが出来ただろう。その彼の行動は不自然であった。そして、もう一つ。何故“衿花にも同様に異能を無効化しなかった”のか。あの時に裕仁同様に異能を使用不可にしてしまえば、逃げられることはなかったはずなのに。だのに彼はそうしなかった。いや、“そう出来なかった”と考えるべきなのだろうか。
………こればかりは考えても分からない。
今すべきことはただ一つだ。
裕仁のありったけの全力を、巳空に叩き込む。これが裕仁に残された、ラストチャンスだ。
既に、策は用意してある。
・・・
裕仁が消えてから暫く経った。
これは恐らく………いや、かなりの確率で裕仁が“宝石の力”を取り戻したと言っても不思議ではない。
だが、それでも全く問題はない。
巳空は不敵に微笑むと、その場に立ち尽くして動こうとはしなかった。
裕仁は必ず巳空の居場所を特定し、戻ってくる。彼のことだ。恐らく短期決戦を望んでいることだろう。“もう一度能力を消されるのではないか”と……。
神に誓おう。そのような無粋な真似をするのは今回限りだ。何せ、面白くない。彼が短期決戦を望むのであれば、それに全力で応えよう。そして真正面から奴を叩き潰す。もう手加減はしない。全力で、だ。
その刹那、矢庭に草葉の擦れ合う音が鼓膜を震わせた。それと同時に、黒い影が茂みから飛び出した。矢張り、仕掛けてきた。
「そこかっ‼︎」
巳空は草木の揺れる音につられ、音源の正体へ振り返った。だが、其処にいたのは裕仁ではなかった。それに加え、“人間”でもなかった。ならば怪物か、はたまた化け物か。そんなオカルトな存在はこの世にはいない。だが、その正体はとても人間の脳では理解できなかった。一拍遅れ、巳空は疑わしげに声を発した。
「………木?」
そう、巳空の背後から近寄りつつあったのはただの木の枝だった。それも五本、だ。本来人間である両手、両足、そして頭部のように繋ぎ合わされていた五本の太い木の枝だった。人型をとったその五本の枝は、ふらりふらりと揺らめきながら動き続ける。それは徐々に徐々にと、巳空へと迫り寄る。
そして思考が止まること数瞬………。それが罠であると、巳空は悟った。
だが、もう遅かった。
巳空が振り返ると、既に裕仁は拳を振りかぶり、巳空へ猛突しようとしていた。あまりにも唐突な事に、巳空は判断が遅れた。それがこの長い戦闘の命運を分けた。
巳空の頰にめり込むように、裕仁の硬化した拳が叩き込まれる。まるで鈍器で殴られたような………いや、もっと硬い岩で殴られたような衝撃が巳空を襲った。
「うぉおおおおおおおああああ‼︎」
裕仁の野生のような咆哮が、その威力を更にかさ増しさせていた。
しかし、巳空もこのまま打ち倒されるほど甘くはない。無理な体勢ではあったが、巳空もまた裕仁へと全力の一撃を叩き込んだ。まるでこれが最後の一撃であるかのように、全力を振り絞った拳を裕仁の頰に打ち込んだ。巳空もまた、初めて力強い声を発しながら拳を更に押し込む。
「おぉらあああぁぁぁぁぁ!」
双方とも口元から鮮血を吐き出し、今にも倒れそうな程苦悶の表情を浮かべている。
だが、どちらも一切倒れようとしない。この戦いは既に異能のぶつかり合いからシフトチェンジし、意地と意地のぶつかり合いとなっている。倒れた方が負け、最後まで立っていた方が勝者となる。至ってシンプルなルールで構成された、最後にふさわしい闘いだ。
ここで倒れたならば、お終いだ。意地でも倒れることができない。弱い顔を見せたら負けだ。弱音を吐けば負けだ。心が折れれば負けだ。
それでも、どちらも心中は一つの事でいっぱいだった。
……折れろよ
………はやく折れろよ
…………さっさと諦めてはやく折れろよ!
どれだけ痛くとも、どれだけ苦しくとも絶対に負けてやらねぇ。
男としての意地だけが二人の足に力を入れ続けさせている。ここで諦めればそれこそ笑い物だ。どうしても引けないのだ。理由などない。だが、男という生物は時として、絶対に負けられない戦いがあるのだ。裕仁も更に握る拳に力を込める。限界などとっくの昔に迎えている。膝だって一度曲げてしまえば、次に立ち上がれない事も理解している。口内も歯と擦れて切り傷がいくつもできている。唇も切れて血が流れ出ている。それでも、それでも一瞬たりとも力を緩めることができない。
それに合わせて、巳空の拳も更に重たくなる。力比べをしているように、裕仁が力を込めると巳空も威力を上げてくる。突き刺さるような痛みが頰を伝ってくる。それでも足を酷使してその場に踏ん張り続ける。つい先ほどまで“闇討ち”で仕留めると言っていた男が今、正面から敵の拳を受け止め続ける。我ながら支離滅裂な行動だ。こうなってしまった以上、ここで引くのは“逃走”と同じだ。それも“戦略的撤退”ではない。ただ、恐れをなして“逃げる”だけと同じなのだ。それは男にとって“屈辱”に近い選択だ。巳空も思っていることは同じだろう。だからこそ、このような我慢比べに発展している。
………しかし、決着は案外すぐに訪れることとなる。いや、体感的にはかなり長い時が過ぎていたことだろう。だが勝敗の時は矢を射るように一瞬だった。
「………ぐっ‼︎」
突如、巳空の膝は誰かから何かをぶつけられたように折れ曲り、体勢を崩してしまう。これは小悪魔の悪戯のように、予期せぬ出来事だった。驚愕に目を見開いた巳空に対し、裕仁はその好機を逃すことはなかった。
「おおおおおおあああぁぁぁぁぁ!」
裕仁は拳に全体重を乗せて振り抜くと、巳空は勢いに任せて宙を舞った。その軌跡を残すように血液が散り、巳空はそのまま地面へ衝突する。数回転がった後、彼は止まった。
彼は最後の最後まで折れることはなかった。ただ、足は既に限界の限界を迎えていたのだろう。意地だけで耐え抜いていた脚力もとうに弱りつつあったのだろう。
……だが、それは裕仁も同じであった。
裕仁は膝から崩れ落ちると、そのまま地面に頬を当てた。




