72話『奇妙な共闘』
《ペリドット》
これは鬼ごっこと呼ぶには、余りにも緊張感が桁違いだった。
これを隠れんぼと言うには、余りにも恐怖感に格差があった。
身近………ではないかもしれないが、この状況を分かりやすく言い表すならば『追跡してくる通り魔からの逃走』、もしくは『追從する殺人鬼からの逃奔』だ。
居場所を知られぬよう、なるべく足音を立てず、つま先で跳ねるようにして木々の隙間を過ぎて行く。靴底と土壌がすれ違う音が小気味いい。聞こえるか聞こえないか程度の小さな音だが、軽快なリズムで鳴るものなので、少し高揚した気分が落ち着いてくるのだ。だが、矢張り土地と時間がもたらす問題は絶えなかった。ただでさえこの森林は天穹を葉が覆い、光が通らずに薄暗いというのに、今は太陽も深々と眠りにつく深夜だ。唯一の光源である月明かりも葉のプロテクターに遮られ、視界は不良好。木々の幹も闇にまぎれ込み、目を凝らさなければ見分けもつかない。おかげで裕仁は、何度も土から隆盛した根に足元を掬われた。
しかし、それは巳空からしてもそうなのだろう。彼がいくら化け物じみているとは言えども、元はただの人間だ。猛禽類のように夜目が効くと言われれば、きっとそうではないだろう。ただし、それは可能性の話だ。彼の持つ“身体能力の向上”と言う能力は、どこまで作用するのか分からない。もしかすると、視力でさえ底上げすることが可能なのかもしれない。つまりこの暗闇の中、一度隠れてしまえばそう見つかることはない……という考えは打ち消されるのだ。要するに、かくれんぼでは何の解決にもならない。もし、とある一点に身を隠して留まろうと言うのならば、いつかは必ず発見されるだろう。改めて明言するならば、「隠れて巳空が遠ざかるのを待つ」という立案は却下するしかない。それは、かくれんぼのルールと同じだ。一度見つかればそこでゲームが終了。「見つかったけど、もう一度隠れさせて」などという間抜けな戯言は一切この場では通用しない。その時点でコンテニューのないゲームオーバーだ。
だからこそ裕仁は、攻めの一手を選択するしかなかった。
それこそが、“彼女”と会うことだ。
しかし、その作戦にも少々疑念の余地が残されている……裕仁が危惧しているのは三つだ。
まず一つは、巳空に攻撃を受ける前に“彼女”を見つけ出すこと。でなければ、呆気なく脱落……つまり、抵抗権を剥奪されて殺される。それだけは避けなければならない。
二つは、能力が解除された今、彼女は裕仁が施した拘束から逃れている筈だ。つまりは、先ほどの場所に彼女が留まっているとは限らない。何処かを彷徨っているのかもしれないし、最悪の場合、既に森から脱出しているのかもしれない。
そして三つ。彼女が未だに裕仁が犯人であると“勘違い”している可能性だ。少し説得できた気がしたのだが、あくまで“気がした”だけだ。その場合、裕仁は更なる窮地に立たされることになる。自分で自分の首を絞めただけになってしまう。
こう聞くと、一見遂行するのに難易度の高い策だと思うだろう。だが、彼女さえ見つけてしまえば、後は確率勝負だ。
彼女と出会いさえすれば、作戦が成功する可能性は彼女の気分次第……つまり、了か否かの半々(フィフティフィフティ)だ。二分の一で勝てる運命の賭けだ。こう考えると、少し気分は楽になる。
それでも、結局は50%は失敗する。これほど信用のならない数値はない。「半分は成功するんだから」という慰めも、ただの無責任な言葉だ。だが、“何もしない”よりかは幾分もマシだ。ただ蹲って死の恐怖に怯え、震えながら隠伏するよりかはよっぽど格好がつく。“やらずに後悔するより、やって後悔しろ”………だ。
この場合は、“やらずに死ぬより、やって死ね”が正しいだろう。この言葉に置き換えると、少し強烈で暴言じみた香りがする。だが、言っていることは正しい。死が訪れるのをただ並んで待つなど、裕仁には御免だった。使用可能な宝石の能力はない。その上、腕も折れている。だからと言って、その状況に甘んじることはできない。それこそ諦念がもたらす愚の骨頂だ。
例え敗北しようとも、せめて雪乃には恥ずかしくないよう、男らしく戦ったと言えるようにしないと………その時に生きてるかどうかは分からないのだが。
そんな時、遠くから枝葉が靡く音が聞こえた。裕仁は訝しげな表情を浮かべると、その場に足を止めた。そして姿勢を低く保ち、音の出所に意識を向ける。
……風は吹いていない。
にも拘らず、葉が揺れる音は止まらない。未だに騒がしく音を掻き立てている。つまり、この音は“奴が来る”事を知らせる警告音なのだ。
それからの、裕仁の決断は早かった。
一切迷うことなく、そして躊躇う事なく、深い茂みとなっている斜面に飛び込んだ。あくまで、静かに、だ。
当然、彼が追ってくるのは理解していた。彼からすれば、この絶好とも言える機会を逃すはずがない。これは漫画や小説ではなく、現実で紡がれるストーリーだからだ。巳空が裕仁の能力を打ち消したのも、これから一方的に蹂躙すると言う意思の表れだろう。これが漫画ならば明らかに力量のバランスは崩れ、読者からのブーイングは絶えないだろう。
能力が封じられた相手など、彼にとっては狭い室内を逃げ回る蚊と同然だ。
ーーだが、“蚊”というのは厄介なものだ。
ちょこまかと小回りを利かして逃げ回り、決して容易には捉えられない。煽るように耳元で飛び回り、迫り来る手を華麗に回避し続ける。両手で叩き潰したかと思えば、奴は平然と室内を飛行する。
それと同じように、裕仁も簡単に捕まってやるつもりはなかった。
だが、彼は禁忌である“殺虫スプレー”を持っている。つまりは彼に裕仁の姿を見られた瞬間、ほぼ負けが確定してしまう。これは裕仁に課せられたステルスミッションなのだ。作戦コードは『とある女性を発見せよ』だ。
斜面を滑り降りる際、木の枝が裕仁の皮膚を裂く。骨折した腕にも衝撃が伝わり、我慢ならないような痛みが襲いかかる。だが、声を上げてはならない。苦痛の声を漏らした瞬間、居場所は簡単に特定される。
そして裕仁は斜面の中腹で木の幹にしがみつき、滑落を停止させる。それから静かに、巳空が通り過ぎるのを待った。
……木の揺れる音は、徐々にこちらへと接近してくる。その爽やかな音は、リラックスとは程遠い感情を掻き立てる。冷ややかな汗が背を伝い落ちる。深く深呼吸を続け、今か今かとその瞬間を待ちわびる。そして遂に、彼は姿を現した。
巳空は曲芸師のように、枝から枝へとを空中ブランコのように飛び移る。そして器用に着地すると木々の上を忍者のように移動する。
そして彼は、このまま通り過ぎていく………かに思われた。
しかし、彼はその場に立ち止まった。
瞬間、裕仁の鼓動は爆発的に跳ね上がった。
……まさか、気づかれた?
いや、そんな筈はない。そもそも裕仁がこの小道を通ってきた事さえ…………。
そう考えた刹那、裕仁は一つの仮説が思い浮かんだ。
………“足跡”だ。
裕仁が進んできた、僅かな“足跡”………。
それを追うようにして彼は裕仁の付近まで接近に成功したのだろう。と言うことは、逆を言えば彼はまだ、“裕仁の居場所を知らない”のだ。これは、逆にチャンスだ。
裕仁は斜め横へ、足の側にあった土と同時に大きめの石を蹴って斜面を転がした。この石によって、斜面を滑り降りる音、そして葉が擦れる音が継続してなり続ける。つまり、“裕仁が下っていく音”に見せかけるのだ。
当然だが、巳空はこの音に反応を示した。巳空はゆっくりと裕仁のいる斜面へと迫り来る。その間、裕仁はひたすら息を殺し、草葉の中に息を潜める。こんな少女漫画に出てきそうな台詞でなんだが、鼓動音が相手に聞こえそうで恐ろしい。それ程までに、裕仁の心臓は大きく脈打つ。
……そして、命運の分かつ瞬間は訪れた。
巳空は、そのまま裕仁の横を通り過ぎていった。彼は大きく跳躍すると、サーカスのように木々を伝って移動していく。だからこそ、葉隠した裕仁を見つけることができなかったのだろう。
物音を立てぬようにゆっくりと顔を出すと、裕仁は駄目元で小石をいくつか順番に投げた。狙いは宙を移動する巳空ではない。斜面を下りきった先にある低木が投擲先だった。
石の命中した低木は、静かな夜の森に大きく揺れ音を出した。そして次に、その少し奥の葉が揺れる。その音は、まるで裕仁が走って移動しているかのような音だった。
だが、次の小石は先程とは反対側の葉を揺らしてしまった。その数瞬、巳空は顔の向きを変えて斜面を登り始める。
……巳空は気づいてしまったようだ。
“裕仁が投石によって巳空を誘導していた”という事実を。
だが、心配はない。
これもまた、裕仁の作戦の内の一つだった。
もし貴方が巳空の立場だったならば、この状況をどう捉えるだろうか。
無論、“斜面とは小道を挟んだ反対側から石を投擲し、居場所をごまかしている”と考えるだろう。
だからこそ投擲に失敗し、本来音の鳴るはずのない地点から葉の擦れる音が発生してしまったのだ、と。
この場合、誰も“斜面から投石している”とは思わないのだ。
巳空はそのまま斜面を登り切ると、反対側へと姿を消していった。
その隙に裕仁は爬行しながら斜面を下って行く。戦場で行う匍匐前進のように、ゆっくりと慎重に利き腕を動かす。目指すは取り敢えず、彼女を拘束していた地点だ。記憶が正しければ、丁度裕仁の進行方向の先だ。何とか生き延びたとは言っても、まるで生きた心地がしない。彼はまだ、裕仁のすぐ側にいる。少しでも物音を立てれば、言葉通り飛んで来るだろう。一瞬の油断が命取りだ。
斜面を下りた後も這いながら移動し、慎重に慎重を重ねて進み続ける。それも直線的ではなく、常に一定距離で曲がりながらジグザグと体を引きずる。
そして裕仁は、恐らく例の場所へ到達した。やはり、木の根による拘束は解かれた形跡があり、彼女の姿はそこにはなかった。
……やっぱり、か。
裕仁がそう思った瞬間、何処からか啜り泣く声が聞こえた。その声には聞き覚えがあった。裕仁の闘争心に着火した、あの虚しく弱々しい泣き声だ。裕仁はその音源の方へ視線を向けると、思わず声を出してしまった。
「……いた!」
彼女は逃げることもなく、何をするでもなくその場に崩れるように座り込んでいた。彼女は裕仁を見つけると一度鋭く睨むが 、その後目を背けて下を向いた。膝を抱き寄せ、顔を埋めてしまう。
彼女はどうやら悩んでいるようだ。
「……何しにきたの?」
暫く黙秘を貫いていた彼女は、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……もう、戦いは終わったの?」
裕仁はゆっくりと彼女に歩み寄ると、全てを隠すことなく話し始めた。ここで嘘をついて信用を損なえば元も子もない。裕仁が能力を取り戻すには、彼女の協力が必須だ。
その具体的な作戦内容とは、
「………だから、お前に幾つか“宝石”を渡す。それであいつから逃げるんだ。」
という事だ。異能を封印されたのは“裕仁のみ”。つまり、彼女に宝石を譲渡すれば、彼女はその異能を使用することが可能なのだ。そして、彼女の助けを通じて、巳空からある程度距離を取る。これが裕仁の思いついた、現状で最も成功率の高い作戦だった。
勿論、裏切られる可能性がある。彼女にも大人しく従うメリットがないからだ。わざわざ、危険な境界に足を踏み入れる理由もない。だからこそ、裕仁は彼女に渡す宝石を三つに選別した。
「君に渡すのは、逃走に有利な宝石だけだ……。“角度を変化”させる『サファイア』、“空間を操る”『トパーズ』。そして、元々君が所持していた『タンザナイト』……。」
そして、一つの可能性を提示した。
「悪いけど、このままだとお前も奴に殺される。使えなくなった駒として捨てられる……。だから、俺と共にこの森から逃げるんだ。死にたくなきゃな………。」
すると彼女は、驚愕の表情を浮かべる。その表情は、分かりやすく恐怖に支配された顔つきだった。裕仁は彼女の肩に触れると、彼女を揺らして我に返させる。彼女は正気を取り戻すと、震えた声で裕仁に確認をとろうとする。
「本当に……和陰を殺してないのね?」
裕仁は真っ直ぐと彼女の目を見据え、嘘偽りないことを目で語りながら頷いた。
「あぁ、神に誓ってもいい。」
これは間違いなく真実だ。彼女はそのような裕仁の真摯な態度に折れたのか、静かに目を閉じて首を縦に振った。
「分かった………あなたを信じる………。そういえば、自己紹介がまだだったわね……私は水瀬衿花……和陰とは恋人同士だったわ。」
ただし、と彼女………衿花は言葉を加えた、
「協力するのは、あなたを逃がすまで……。そして、あなたが和陰を殺したと確信を持った瞬間……私はあなたを殺す。」
裕仁は第一段階は一件落着といったように、安堵の笑みを浮かべる。衿花と協力体制になった事によって、裕仁の立ち位置は良い方向へと傾き始めた。暗澹とした濃霧の中で、漸く希望の光を掴み取ったのだ。
「……それでいい。」
その時、二人の元へ歩み寄る足音……。
葉の隙間から木漏れる月明かりが、彼の顔を照らし出す。渦巻いた黒髪に、暗く濁った特徴的な目。
彼を前にして二人はその場に立ち上がると、その威圧感に負けじと不敵な笑みを浮かべる。まるで、勝利を確信したような太々しい微笑みだ。
「………よし、これで2対1だ。反撃タイムといきますか。」
ーーー再び、ここから戦局は大きく動き出した。




