71話『聲』
《ガーネット》
時は少し遡り………明かりの消された一室。真っ暗となった病室の中で雪乃は一人、小さく肩を震わせていた。既に消灯時間は大幅に過ぎ、病室内は暗闇と化している。唯一の光源は月明かりのみだ。真夜中の病院とは少々不気味なもので、怪談話のメイン舞台となっているのも納得がいく。仮に霧のように幽霊が出没したとしても、何ら不自然ではない。丁度、季節も夏だ。この空間を覆うネガティヴな雰囲気も相まり、特に何者でもないような物が超自然的な物に映ってしまう。人間の目とはいい加減なモノだ。昔の人はよく“幽霊の正体見たり枯れ尾花”と言ったものだ。人は闇中で物を明瞭に視認できない場合、勝手に霊的要素に置き換えてしまうのだ。その思い込みに人間は勝手に怯え、勝手に縮こまる。
だが、雪乃が小刻みに震えているのは心霊に対する恐怖ではなかった。そして夏の夜特有の寒気が襲ってきたわけでもない。
閑静な室内から聞こえる微かな歔欷の声が、それを強く物語っていた。
………雪乃は今夜、上手く寝付けずにいた。
裕仁の放った一言が、ずっと雪乃の胸を締め付けていたからだ。最初こそ、雪乃は経験者として裕仁に知恵を与え、サポートし、撃戦を潜り抜けて生き残ってきた。それは当然、運が混ざり込む要素もあった。絶対に勝ち目のないような戦闘もあった。それでも未だ命がこの体の中にあるということは、雪乃と裕仁、そして海音と心を通わせて共闘していたからだ。
だが、今はどうだ。
雪乃は怪我を負い、こうして運命を全て裕仁に委ねている。雪乃は裕仁に協力する事が叶わず、逆に足手まといとなってしまっている。それを自覚してしまったからこそ、雪乃は裕仁に宝石を渡すしかなかった。それ以外の選択肢は雪乃には残されていなかった。その所為で、彼一人に全てを背負わせてしまっている。本当にそれでいいのだろうか………。
そんな時の事だった。
雪乃は急に、病室の扉がゆっくりと開いていく事に気がついた。急いで薄いタオルケットに顔を埋め、あたかも眠っているように息を潜めた。当病院の医師の誰かだろうか。いや、違う。確実に“ゲームの参加者”………つまり、巳空だ。
どうして……どうして彼が“此処にいる”。
あまりにも雪乃の居場所の特定が早過ぎる。わざわざ近所の病院ではなく、少し離れた辺境の地を選んでいるのにだ。どの様な手を使ったのかは分からないが、余りにも予想外の展開だ。裕仁もまさか、2日でこの場所を特定されるとは思っていなかったのだろう。既に彼は帰ってしまっている。雪乃を守るものは何もない。
彼の跫が雪乃に歩み寄る。室内どころか、館内に響き渡るような靴の音がとても脅威に思えた。普段ならば、このような跫音は好きだ。革靴やヒールが、硬く平らな地面に着く音はとても痛快に感じる。しかし、今はただの恐怖の対象に過ぎない。足音恐怖症だと言う人々の気持ちも、今なら少し分かる気がする。
そして彼の跫は雪乃のベッドの近くで止まった。雪乃は体を少し丸め、荒ぐ呼吸を何とか抑え込もうとする。宝石は既に裕仁に手渡してしまっている。今の雪乃に、彼と対抗する力は一切持ち合わせていない。つまり、抵抗もただ虚しいだけなのだ。雪乃はここでゲームオーバー……つまりは死亡するのだと悟った。
その時、不思議と謝罪の言葉は家族にではなく裕仁に向けて放たれた。勿論、心の中でだ。
…………ごめん、裕仁。
私もあの“約束”……守れそうにないや。
あの時、四人で結んだ“観覧車の誓い”。
葵も不運な事に約束を守りきれなかったのだが、どうやら雪乃も破ってしまう事になりそうだ。
……きっと、みんな驚くだろうな。
次の朝が来て、巡回してくる看護婦は腰を抜かすかもしれない。見舞いに来た裕仁は泣いてくれるかな。母も父も、私の死の真実を知らずに惜しむのだろうか。そう考えると、自然と涙がこみ上げてくる。
……やっぱまだ、死にたくないな。
誰だって、そう思うに違いない。
唇と共に、ひたすら己の無力さを噛みしめた。これから抵抗することも許されず、一方的に命を奪われる。そのような感情を初めて味わい、雪乃は悔しさに再び涙をこぼした。友絵も雪乃を庇う時、こんな重々しい感情に打ち勝ったのだろうか。結局、雪乃は彼女の仇を取ってやる事が出来なかった。友絵を殺害した敵は勝手に殺され、ドラマチックな展開など一切なかった。友絵の死を、雪乃はただの犬死にしてしまったのだ。現実は彼女たちが思っていた以上に救いがないものだった。
これはその罰なのかもしれない。或いは、償いなのかもしれない。一人だけが生き残り、悠々と人生を楽しみ、そして肝心のゲームで最後まで戦い抜けなかった。
……もし、あの世というものがあるのならば。
雪乃は友絵と会えるのだろうか。それとも、雪乃は一人寂しく地獄へ落とされてしまうのだろうか。
もし彼女と向こうの世界で出会えたならば、何と声をかければいいのだろうか。まず最初には謝るべきだろうか。それとも冗談っぽく笑って話しかけるべきだろうか。その方が後腐れなく、彼女とまた笑って話せるだろうか。
……そんな事はわからない。もう、何も分からないのだ。
雪乃は固く目を閉じ、ひたすら神に祈りを捧げた。特に敬虔な信者でもないのだが、最早自分の手ではどうしようもない場合はただ祈るしかないのだ。後はただ、奇跡を信じるしかない。
雪乃は気が狂いそうなほど祈った。
………助けて。 私を、助けて………。
…………裕仁。
その瞬間、とある一声が巳空の動きを止めた。同時に、雪乃は己の耳を疑った。
「よぉ、待ってたぜ。」
その声は、とても自身に満ち満ちていた。そして、雪乃の感情を一気に昂らせた。彼の声をたった一声聞いただけで、妙な安堵感が雪乃の中で溢れ出した。雪乃の“心情の容量”は限界量を超え、つい感極まって涙が溢れ出した。恐怖の色一色だった雪乃の心に、彼は一瞬にして平穏をもたらしてくれたのだ。
……神はこの世にいたのだ。
……ありがとう、本当にありがとう……裕仁。
雪乃は何度も、何度も心の中で感謝の言葉を述べた。しかし、この感謝の念は言葉では言い尽くせなかった。誰かが聞いたら呆れ果てるほど、雪乃は裕仁に心の中で感謝を述べ続けた。
それから裕仁は、巳空を連れて何処かへ消えた。彼もこの日で全てを終わらせる気だ。この夜に、全ての決着をつける気だ。
やはり彼は、一人でこのゲームの片をつけるつもりなのだろう。空間に穿った間隙に消えていく彼の背中は、何処か頼りになるようで、それでいて煙のように掻き消えそうで雪乃を心配させた。
このまま、彼が遠くに行ってしまいそうで………。
………そして現在、病院の裏手にある森の方が騒がしい。
時々轟く爆裂音、木々の騒めく音。それらの騒音が敏感に雪乃に伝わる。殺気めいた鋭い空気が、窓の隙間からすり抜けてくるように雪乃に突き刺さる。
雪乃は上体をゆっくりと起こすと、窓に縋り付いた。だが見えるのはガレージのみで、肝心の森林の散歩道は一切様子を伺えない。
雪乃はすすり泣く声を上げながら、滑らせるように窓から手を離した。髪を荒く搔き撫で、俯いて肩を震わせる。こんな弱り切った様子は、絶対に裕仁には見られたくない。だが、今はこの部屋に雪乃は一人だ。
だから人目を憚らず、雪乃はたった一人でこの重苦しい感情に慟哭した。
今、雪乃は不安で仕方がないのだ。
裕仁は無事だろうか。
彼は巳空に勝てるのだろうか。
もしも、だ。
もし、裕仁も彼に敗れ………死んでしまったならば。雪乃はもう、精神が衝撃によって砕かれてしまうだろう。それはもう、木っ端微塵にだ。“友絵の死”によって大きく開いてしまった穴を、唯一埋めてくれていたのが“裕仁の存在”なのだ。彼が雪乃の心のドーナッツホールを優しく塞いでくれている。だから雪乃はこうして日常の中に生きている。だが、今度大切な人物を失って見たらどうだ。既に壊れかけた雪乃を支える柱は、たちまち崩壊を始める。支えることのなくなった精神は脆弱であり、そして二度と修復することはないだろう。既に感情の移動が激しく、もう雪乃自身でも制御ができなくなってしまっていた。
心の拠り所を失ってしまえば、今度こそ雪乃は立ち直れない。
両手で顔を覆い、ただずっと涙を流し続けた。
その瞬間、どこからか語りかける声がした。
「まーた、落ち込んでんの?」
もちろん、この病室には誰もいない。巳空も裕仁も、今は森の中で闘争に身を投じている。では、一体誰の声だろうか。その声は何物にも遮断されず、そして遮蔽される事なく雪乃の元へと届く。その声は寝静まった病院とは場違いなほど明るく、今の雪乃には耳が痛くなるほど陽気な声だった。
雪乃は目元を抑えながら、今にも掻き消えそうなほど小さな声で呟いた。
「……しょうがないでしょ。」
それを聞いた声の主は、少々ため息交じりの声で雪乃に言葉を投げかけた。
「今、雪乃は裕仁が闘ってるのに、何もできない自分を責めている。違う?」
それは、図星だった。雪乃は何も言い返す事が出来ず、ただ黙り込むことしかできなかった。
「…………」
再び声は、病室内に響いた。
「別にしょうがないんじゃないの? あんたは腹に銃弾食らって重症。宝石も裕仁に預けた。んじゃあさ、今の雪乃に何ができるっていうのさ。」
また、雪乃は黙った。口を噤み、目を伏せてただただ時が過ぎるのを待った。声の主は呆れたように溜息をつくが、少し微笑の声を漏らした。
「……ま、あんたに心配するような“仲間”が出来て何よりだよ。」
それから暫く、沈黙の時間が訪れた。雪乃は何も話そうとはせず、ただただ顔を下げ続けた。そんな様子を見たからなのか、声の主は仕方なく話を切り出した。
「どうしても心配だ……って言うならさ、思い切ってみない?」
声の主はまるで雪乃の心中を何もかも見透かしているように、自信ありげに口にした。
「迷ってるフリしてるけどさ、もう心の中ではとっくに決めてんでしょ? 私はただの背中を押す係………その為だけに、貴方に声をかけている。今の雪乃を止める資格なんて私にはないもの。」
雪乃は目から涙を零しつつ、目線を足元へやる。そんな弱気でやりきれない雪乃に対し、声の主は遂に叱咤の声を上げた。
「いつまでくよくよしてんの! 涙拭いて! 立ち上がって!」
本気で怒っているわけではなく、あくまでも励ましだ。雪乃は意を決したようにベッドから立ち上がると、溜まった涙を拭う。
そして病室にある両開きの棚を開けると、奥に隠した物を取り出そうとする。そう、裕仁が忘れていった果物ナイフだ。看護師に見つかると厄介なので、隠したままだった。それを手に取ると、雪乃はゆっくりと病室の扉を開けた。
そのまま非常階段を伝って一階へ降りると、廊下に誰もいないことを確認して女子トイレへと身を隠す。そしてその中にある小さな窓を開き、細い体躯を利用してすり抜けた。病室の窓は開くとブザーが鳴ると何処かで聞いた事がある。そして、病院から脱出した事が知られれば、強制退院だとも聞いた事がある。だが、今の雪乃には関係なかった。
雪乃がすべき事は、この戦いの収束をこの目で確かめる事。そして、その命運を裕仁1人に背負わせない事。
「走れ‼︎」
雪乃はもう一度涙を拭うと、感謝の言葉を告げた。ただ、そこには誰もいない。そう、誰もいないのだ。だが、雪乃には彼女の声が確実に聞こえた。それは病院の心霊現象にあてられてなのか、それとも雪乃が心の中に作り出した虚像なのか。
どちらにせよ、雪乃は彼女に励まされた。
もう、貴方に弱いところは見せない。だから心配しないで。静かに、休んでいて欲しい。
どうか、安らかにーーーー。
「………ありがとう、“友絵”。」




