68話『夜軍の攻防』
《ペリドット》
「さぁ、第二ラウンドだ。」
彼の言葉は、酷く無機質な声音だった。まるで壊れかけのラジオから流れ出す何の感情もない声だと感じた。ただ裕仁はその中に、心なしか憎悪に似た感情を感受した。僅かながらだったが、確かにそれは巳空の激情の一部なのだろう。常に瞳が淀んでいる彼から、初めて憤慨のような感情が顔を出したとも言える。
だが裕仁は狼狽えない。最早恐れている状況ではないからだ。
勿論、完全に恐怖の念を払拭した訳ではない。今でさえ、裕仁の中に黒い靄が粘り着くように蔓延っている。それでも裕仁の中には既に、靄すら寄せ付けぬ“揺るぎない意志”が確立していた。
………目の前にいる男は悪魔だ。それは裕仁の主観による比喩ではない。誰の目から見ても彼の内面は“悪魔”と形容するに等しい存在だ。尫弱な人間の精神に閾下侵入し、我が物顔で操り、「全て思い通りだ」とほくそ笑む。ほら見ろ、悪魔そのものじゃないか。
被害者である彼女ーーー結局、名前は聞かず終いだった和陰の仲間ーーーの涙を目の当たりにし、裕仁は改めて誓ったのだ。悪の権化である巳空を、刺し違えてでも絶対に倒さなければならないと。彼は聞いただけでも既に、和陰と絢成の二人を殺害している。恐らく他にも手にかけているだろう。雪乃と涼太も彼の毒牙の餌食になりかけた。言わば、殺人未遂に遭っている。
まるでゲーム世界の中で敵兵を仕留めるように、躊躇なく現実でも平気で刃物を突き立てる。子供のゲーム脳よりもタチが悪い。
だからこそ、もう動揺しない。彼の行動や思考にいちいち驚いていては心体が持たない。彼はこういう狂人なのだと吹っ切れるしかなかった。
………そして、その時は唐突に訪れた。
巳空は力強く地面を踏み込むと、余波に合わせて土を巻き上げる。その範囲は裕仁の下まで及ぶ。突如として舞った土砂に、裕仁は思わず目を閉じてしまった。と言うよりかは、無意識的に目を保護してしまったのだ。これは反射反応であり、ある意味防ぎようのない行為だった。
瞬間、裕仁の腹部に強い衝動が走った。
目の瞑った暗闇の中でさえ、裕仁は何が起こったか瞬時に理解する事ができた。いや、腹部にのしかかる鈍い痛みによって強制的に理解させられたのだ。
「………っは!」
口内に溜まった唾液を吐き出すと、裕仁は推進力に逆らう事ができずに吹き飛ばされる。
だが、裕仁は至って冷静だった。瞬時に背後の空間に裂け目を加えると、その隙間へと逃げ込む。そして巳空の頭上に出口を設置し、裕仁は踵で鼻面を潰そうとする。しかし、巳空は驚異的な反応速度を見せる。空間の間隙から飛び出した裕仁の足を捕まえると、裂け目程度の穴から裕仁を引きずり出した。そのまま巳空は力任せに裕仁を振り回すと、ハンマー投げのように手を離した。
裕仁は空中で回転を加えて巳空に目の焦点を合わせると、彼は既に指銃を構えている。あれは涼太の技だ。威力も本物。決して当たるわけにはいかない。
「“バン”」
巳空は裕仁に聞こえさすように揚言した。
裕仁は何とか片足のみ着地すると、パルクールのバタフライツイストのように回転して回避する。しかし、一発のみではない。巳空は楽しむように「“バン”、“バン”、“バン”」と連続で射撃を行う。裕仁は大きな円を描くように、広場を回り込みながら指銃を回避する。そして人一人隠れられる程度の岩陰に飛び込むと、“ペリドット”の能力でその岩を巳空の方へと突撃させた。
彼は飛来した岩を、足で払いのけるように蹴り砕いた。裕仁から見ればまるで埃を払いのけるような手軽な作業のように見えた。だが、裕仁のターンはまだ終わっていない。破砕された瓦礫の数々を、彼を中心に“繋げた”。バラバラとなった岩石は、巳空の引力に引かれるように集結を始める。
その刹那、石塊は空中で急静止した。
理由は明白だった。巳空が「ピタリ」と擬音を口にしたからだ。巳空はその内の一つを軽く指で押すと、その一つだけが動きを取り戻した。そして周りに散らばった石飛礫に反射すると、打ち当たった反動でその石も動き出した。その石もまた破片に衝突すると動き出し、更にその石片も弾かれるように運動を取り戻す。そうして波紋が広がるように、巳空の周りの石塊は反射を繰り返し、その速度を上昇させていく。何やら手品を目の当たりにした気分だった。石と石がぶつかる独特の音を奏でながら、踊るように巳空の周りを飛び交う。
そして遂に、その内の一つが裕仁に飛来する。裕仁は屈んで躱すと、念のため“ダイヤモンド”で全身を硬化させる。すると直ぐに、第二波が訪れた。裕仁が横へ飛び退くと、一度目に発射された石と二発目が綺麗に衝突し、左右へと別れた。それは、裕仁が回避した方向だった。奇妙な反射の仕方をした石に驚きを隠せない裕仁は、反応が間に合わずに頭部への命中を許す。
………硬化しておいて良かった。
裕仁は勢いに逆らわずに一回転すると、体制を瞬時に立て直す。一発当たった程度で心が折れるほど柔ではない。そのような考えを抱いているうちにも、第三、第四の石の弾丸が押し寄せる。躱すことは造作もない。しかし厄介なのが、意味不明な“跳弾”だ。
正面から押し寄せる岩石の雨を、裕仁は障壁を生成して防ぐ。だが、それにも限界がある。跳弾を利用して側面から幾つも回り込んでくる。
……ならば、壁を作り出して閉じこもれば良いのではないか。そう考えるのは自然な話だろう。だが、その一見完璧にも思える対処法には、目に見えた地雷が設置されている。
確かにこの破砕された石の弾丸はやり過ごせるだろう。ただ、その後が問題なのだ。巳空はいとも容易く壁を貫いてくる。つまり壁の中に引きこもった時点で裕仁の敗北が決定する。空間を切り放そうにも、四方八方から飛び交う跳弾を全て防ぐことは不可能に近い。正に八方塞りだ。
……だったら簡単だ。
裕仁は勢いよく前へと躍り出ると、当ててくれと言わんばかりに無防備に走り出した。当然、巳空は裕仁を狙って石を反射させる。
そこが狙い目だった。
裕仁は巳空との立ち位置を“入れ替える”と、小さく「ザマァみろ」と呟いた。先ほどまで裕仁を狙っていた石は、全て巳空に降り注ぐという算段だ。
だが巳空は小さく何かを呟くと、その場から動くことなく石の弾丸を受け入れる。すると飛来した筈の石飛礫は全て、巳空の体をすり抜けていったのだ。巳空の体は煙のように搔き消え、そして元の人型へと形を戻す。巳空はきっと“もくもく”と擬音語を発したのだ。
窮地を切り抜けたのは良かったものの、逆手に取った攻撃を上手く躱された事に少々苛立ちを感じる。自信のあるものを悉く否定されたような気分だ。
それでも、裕仁は攻撃の手を休めない。
巳空付近の空間を繋げ、簡易的なワープホールを生成し、裕仁はその中へ飛び込む。そしてタイムラグなしに飛び出すと、勢いに任せて回し蹴りを繰り出す。
しかし裕仁の蹴りは、見事に空ぶった。
巳空の攻撃を恐れて全身硬化させたのが凶と出ているのだろうか。皮膚を堅甲にした所為か、モーションが重い。自身の四肢である事を疑うくらいだ。だが、この効果が無ければ裕仁の首はいとも簡単にへし折られてしまう。それこそ、子供が小枝を拾って片手で折るくらい簡単に、だ。巳空の持つ“宝石の能力”が、彼の膂力を大幅に向上させている。その威力は、通常の数倍と言うには生温い。数十………いや、大袈裟かもしれないが数百という可能性もある。いくらダイヤモンドとは言えども、強い衝撃が正面から来るといとも容易く砕け落ちる。堅牢を纏う裕仁にとって、巳空はそれを打ち砕く破城槌なのだ。
だが、それは巳空にとっても同じ事なのかもしれない。
最大限まで硬化させた裕仁の一蹴を、巳空は受け止める事なく“回避”をしている。それを意味するのは、“当たりさえすればダメージが通る”という事だ。
これは妄想の域を出ないのだが、恐らく巳空は“痛みは消せていない”と思う。
彼は何度か、裕仁の前でコンクリートを砕いたことがあった。それも“拳”でだ。ただ、それはきっと裕仁の見間違いなのだろう。誰であろうと、コンクリートに殴打を食らわせると拳が悲鳴をあげる。裕仁は以前硬化した和陰を殴った時、皮が剥がれると同時に血が流れ出たのを思い出した。だが皆も経験あるだろうが、掌……母子球から手根部あたりによる掌底ならば痛楚は幾分もマシだ。その上、威力も折り紙つきだ。だからこそ、巳空は“手のひら”でコンクリートを打ち砕いていたのだと思う。それでも、対人ならば拳を使用しても問題ないのだろう。拳に伝わる痛みも、世間一般の喧嘩と同じだからだ。
ただ、相手が目視不可な鎧を着込んだ裕仁だ。なので彼は拳での攻撃は控え、なるべく裕仁の攻撃を避けるようにしているのだろう。
巳空は裕仁の蹴りを回避したと同時に回転すると、その遠心力を利用して掌底を顎へと振り抜く。どちらかと言えば、逆手のビンタだ。裕仁は上体を反らして紙一重で躱すと、そのまま足が縺れたように地面へと背から倒れ込んだ。
巳空は更に追い込む。足を高く振り上げると、転倒した裕仁を目掛けて踵を振り下ろす。だが、裕仁は回避をしようとしない。一回横へ転がるだけで、巳空の踵落としは避けることができる。だが、それをしなかった。
裕仁は真っ向から、振り下ろされんとする踵を邀撃する。
裕仁は両足を揃えて振り上げると、上空に目掛けて突き伸ばす。いわゆる跳ね起き……“ネックスプリング”だ。それと同時に、裕仁は巳空の踵を器用に弾き返したのだ。事態はいとも簡単に形勢逆転した。踵落としは片足を上げている分、容易にバランスを崩す事ができる。火力の高い大技だからこそ、隙が生まれる。
巳空は地面にまだ着いている片足に力を込め、急加速して一旦距離を取ろうとする。しかし、巳空は何かに激突した。まるで背中から地面へ投げ落とされるような衝撃が走る。まるで撃ち落とされた鳥のように、巳空はその場へ倒れ込んだ。その何かは、まるで検討がつかなかった。感触からして樹木の類ではない。かといって、無機質な壁でもない。目で確認しようにも、巳空の視界には何も映らない。巳空の背後には通常通り、夜の森林が広がっている。ただ、裕仁の一言によって巳空は全て理解した。
「……逃すわけねーだろ。」
巳空を遮った壁の正体とは、“切り離された空間”だった。一譲はこの能力を“相手を接近させない”為に使用していた。しかし今、裕仁は“相手を遠くへ逃さない”為に使用したのだ。空間の壁に強く衝突したことにより、初めてまともなダメージが巳空に通った。だからこそ、チャンスは今しかない。巳空が噎せているこの間に、叩き込めるだけ攻撃を叩き込む。雪乃や涼太。そして和陰やあの女性、巳空に殺された全ての人の怨嗟や憤慨を乗せ、巳空に鮮明に刻み込む。
ただ、巳空が大人しく受け入れる筈もない。彼は裕仁の接近に気がつくと一度大きく咳き込んで立ち上がった。
巳空はもう後ろへは下がれない。退路は絶った。なので、彼の行動は既に裕仁には見えていた。
彼は必ず、直線で仕掛けてくる。
予想通り、巳空は超速で裕仁にめがけて駆けてくる。そして秒にも満たぬ内に、裕仁と巳空の距離は目と鼻の先になった。彼の全力の速度に、常人はまるで反応ができない。時間を停止させられ、その間に接近されたような感覚だ。彼が疾走する間、時間は止まっているのかもしれない。
………さっきまで、手を抜かれていた?
裕仁は漸く、目の前に繰り広がる事態を飲み込んだ。ただ、もう遅かった。
そして巳空は棒立ちのままである裕仁の側頭部に、躊躇なく肘を打ち込む。
《ムーンストーン》
………ここで巳空は、強い違和感を感じた。
確かに、裕仁に肘を命中させた。タイミングも距離感も完璧だった。それは紛れもなく、巳空の瞳に映った光景だ。
なのに、だ。
……まるで感触がない。
まるで色の付着した靄を掻き分けたような手応えのなさだった。
すると、突然裕仁の姿はまるで虚像だったかのように搔き消え、かわりに迫りくる拳が姿を現した。指から軋む音が聞こえるほど固く握り締められており、巳空にはその握り拳がひどく巨大に見えた。それ程までに強い意志の篭った拳だ。
そして一瞬、静寂が訪れた。
その途端、何も見えない。何も聞こえない。
何処にもいないような、何処にも立っていないような………曖昧な感覚が、巳空を支配する。
徐々に感覚が戻ってくると、まず巳空を襲撃したのは“痛み”だった。それも鋭いような、鈍いような。二十年弱生きてきた人生の中で、一、二を争うほどの痛覚だった。そして次に、自身が宙に浮かんでいると理解した。何も見えなかったのではない。何もない夜空しか目に映っていなかったのだ。次第に回転するように視界に木々が映ると、再び背に衝撃が襲いかかった。
「………がっ………あ」
倒れ伏せた巳空の口元から、何かが伝い落ちるのを感じた。親指で拭って確認してみると、鮮明な赤色が目立って見える。口を切ったのだろうか。どうやら血が流れているみたいだ。
………血を流すのはいつ振りだろうか。そもそも、今までないのかもしれない。
目の前に立つ男は、初めて巳空に血を流させた男だ。初めて空を見上げさせた男だ。だからこそ憎しみが込み上げる。これまた初めて、巳空は悔しさという感情を味わった。
「………立てよ。今のはまだ横腹を撃たれた“雪乃の分”だ……あと何人が行列作って控えてるか、自分で数えてみやがれ。」




