65話『翼を生やすための障害』
《ペリドット》
空間に開けた闇深い穿孔を通り抜けた先。
そこは月明かりはあるものの薄暗く、街の灯りは一切届かぬ暗晦とした空間だった。周囲には木々が生い茂り、足元にも植物が繁茂している。あまり詳しくはないのだが、恐らくフクロウと思われる鳴き声まで聞こえる。
そう。今、裕仁がいる場所は物静かな森の中だ。都会にある病院にしては珍しく、裏手には自然が多い。どうやらそこは日中には患者たちの散歩道となっているようで、順路の立て札なども所々見受けられる。その小道の中間地点、やや広い広場に二人は到着した。広場といってもただ、木々が生えていない唯一の平地である。そのお陰か、月華は葉に遮られる事なく二人を照らしている。その昔、鬼が住んでいたことから『鬼の広場』などと呼ばれているらしいが、今では老若男女の散歩道だ。昼間ならば子供達が駆け回り、老人達がその様子を朗らかに見つめていたことだろう。
だが、そんな人々はおろか、古代の鬼達も想像していなかっただろう。再びこの地にて、命を懸けた最後の闘争が行われようとしていることを……。
「夜間は、この森は病院側によって立ち入り禁止にされる。勝手に入られて遭難なんてされればたまったもんじゃないからな……とは言っても、ただのバリケード程度だが。」
裕仁は手足をほぐしながら、静かに呟いた。
「つまり、ここならば誰も来ない……という事か?」
巳空は物珍しそうに周りを見渡すと、軽く笑う。ただ、矢張り彼の目は笑ってはいなかった。
「……夜の森は初めてか?」
裕仁は、物見遊山するような態度の巳空に問いかけた。これから血が流れる戦闘をするとは思えない様子だった。それは彼の余裕から来ているのか、それとも単にこの景色が珍しいのか。どちらにせよ、まるで裕仁が眼中にないと言いたげな振る舞いだった。
「……あぁ。気に入ったよ。とても静かで落ち着ける場所だ。煩い街中と比べれば……数十倍はマシなところだ。」
そう感想を述べた後、彼は「残念だ」と口を開いた。
「……本当に残念だ。こんなに心地の良い場所で………。これから殺し合わなくちゃならないのが。」
彼の光の灯らない目がこちらに向いた。
瞬間、彼の顔は既に裕仁の目と鼻の先にあった。驚愕した裕仁は反射的に上体を逸らし、そのまま後方へ転回の要領で巳空の接近を回避する。突然の事に、裕仁は何も考える事が出来なかった。一度経験した事があるとはいえ、超常的すぎる彼の速度に裕仁の反応は追いつかなかった。刹那に回避が成功したのも、奇跡と表現しても文句はない。本当に奇跡そのものだった。
部活にも入らず、スポーツと言えるスポーツに全く触れて来なかった裕仁には、厳しい速度だ。反射神経が金切り声を上げている。
これは想像以上に不味い。
着地した後に咄嗟に前方を確認すると、巳空は狂気に満ち満ちた笑みを浮かべている。あれは正に犯罪者の目だ。地味な容姿に隠した、生粋のサイコパスそのものだ。
彼はすぐさま、無防備に見つめる裕仁に目掛けて疾駆する。今から回避など不可能に等しい。それ程までに彼は超人じみている。
だが、それは“何も力を持たない人間”ならばの話だ。
今から空間を切り離している暇はない。裕仁は咄嗟に一枚の葉っぱを掴むと、“この葉が元々ついていた木”に繋げる。それは、雪乃の持っていた“ガーネット”の超能力だ。彼女の能力を見ていれば、彼女は何度か“元の形に直す”ように繋げていた事がある。例の包丁の時や、貯水タンクの梯子の時のようにだ。それは今、自分が使用してみて初めて分かる。何も考える事なく、ただ“繋げる”と思えば、それは元の場所へ戻ろうとするのだ。逆に裕仁を捉えた時の縄などは、“このように繋げる”や“どこに繋げる”と命令しながら使用することによって成せる技だ。
今はただ、裕仁は回避のためだけにこの異能を使用した。だからこそ、葉は自分がなっていた木の元へ帰ろうとする。その葉を握りしめていることによって、裕仁は低空飛行しながら巳空の強襲から逃れることに成功する。
ただ、そのような隙だらけな状態を見逃すほど巳空は甘くない。
巳空は愉快げに指銃を構えると、照準を空飛ぶ裕仁に向けた。彼にとって今の裕仁は動く的だ。まるで射撃ゲームのような感覚で、彼は指から銃弾を発射させた。
「バン」
彼の効果音とともに、裕仁に銃弾が飛来する。裕仁は握っている木の葉は離さず、まだ宙を浮遊する。だが、命中させる気は更々なかった。
裕仁は既に、葉に新たな“命令”を与えていた。木の葉は突如として方向を転換し、裕仁を引き摺るような形で右折した。そのまま裕仁は低空飛行のまま巳空の横側へ回り込むと、彼と同様に襲撃を仕掛ける。その間、巳空は何度も何度も指銃を発砲させる。しかし、一度も命中する事はなかった。
たった今裕仁の手の内にある葉は、思いのままに操縦できる未確認飛行物体だ。その機敏な機体のハンドルは裕仁が握っている。速度を調整するペダルも裕仁が足をかけている。全ては裕仁が手に触れている時点で、自由に操れる状態だった。
裕仁は雄叫びをあげながら、巳空へ突撃を嗾けた。同時に裕仁は体を揺さぶり、反動の勢いを利用して巳空へ蹴りを繰り出した。
しかし、それもひらりと軽く躱され、裕仁は地面に滑り込んだ。
「……会話の最中でいきなりやってくれるじゃねぇか。募る話もあるだろうによぉ。」
裕仁は音を立てて掌や靴で土を盛り上げながら勢いを殺すと、巳空に嫌味を飛ばす。
巳空は手首を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ってくる。これ以上ない威圧感だ。骨のように細い体躯をした男に、これ程までな圧力が出せるものなのだろうか。親や体育教師よりも数倍恐ろしく感じる。それは実際に命を削る戦いの最中だからだろうか。ただ、目の前の彼からはそういった感情を一切感じない。ただ単純に楽しんでいるかのように、拳を振るってくる。まるで戦闘狂だ。彼の目は更なる楽しさを求める目だ。最大の愉悦を欣求する目だ。
「……俺はもっと、楽しみたいんだ。だから早く心を躍らせたくてね………。お前らと戦って、生まれて初めて“楽しい”と感じた。だからもっと……」
俺を楽しませてくれ。
まるでRPGに登場する魔王のような台詞を彼は口走った。だが、彼を魔王と見立てても何ら遜色ない。ただ、対する勇者はレベル1の臆病者だ。さらに言えば、ここにコマンドはない。ただ一方的に魔王に虐殺される勇者は、何と可哀想な事だろうか。
まさに今、裕仁はそのシチュエーションに酷似した世界にいる。
巳空は裕仁の“待った”など御構い無しに猛攻してくる。またもや正面からの堂々とした突撃だ。表裏のない、清々しい猪突猛進だ。ただ、回避できない点に難ありだ。
裕仁は片足を少し上げると、地面に思い切り振り下ろして迎え撃つ姿勢をとる。すると、先ほど裕仁が滑り込んだ地点の土砂や小石、木の枝が浮かび上がった。それらは全て空中で一時停止すると、巳空に目掛けて駈けた。
対する巳空は手を前へ差し出し
「びゅーびゅー」
と口にして手を薙ぎ払った。彼の手の軌道から強大な旋風が巻き起こった。幾ら高速で飛来しようとも、所詮は砂利だ。唐突に出現した風にあっという間に攫われてしまう。
だが一瞬とはいえ、小さな砂嵐は巳空の視界を遮ることに成功した。すぐさま裕仁は、その須臾の間に生まれた隙を利用して“立ち位置を入れ替えた”。かの一譲の利用していた“空間を自在に操る”能力だ。この異能も、安定していれば最強クラスに強力な異能だ。だが、所有者によってその力量は異なる。一譲のように屈強で動揺しない精神の持ち主でなければ、裕仁達があそこまで苦戦することはなかっただろう。裕仁も、どちらかと言えば感情が荒ぶる性質の持ち主だ。この異能を使いこなす程、裕仁は強くない。それこそ、雪乃の方が向いている。
それは自分でも良く分かっていた。
だからこそ、この異能は使用する場面を選ばなければならない。
そして今。居場所を入れ替えた事によって、巳空は裕仁に背を向けている。巳空も秒にも満たぬうちにトリックに勘付くだろう。この一瞬がチャンスだ。
裕仁は“タンザナイト”で使えそうな“障害物”をその場に生成し、“ペリドット”で巳空に飛ばす。このコンボは予想以上に使用しやすいものだ。
急いで生成した所為か、その障害物とやらは様々だ。裕仁の頭の中で思い描いた障害物が、そのまま形となって現れた。例えばハードルや、赤色のパイロン、そして警告色のバリケード。それらが全て、巳空に目掛けて突撃を仕掛ける。
その時、巳空は異変に気付いたようで、背後を振り返った。瞬間、ハードルが巳空の眼前に迫る。巳空は咄嗟に手で防御すると、なんとハードルを受け止めてしまった。だが、まだパイロンやバリケードが巳空に総攻撃を仕掛ける。さすがに防ぎようのない猛攻かと思われた。
裕仁は彼を甘く見ていた。彼に接近した障害物はまるで何かに弾き飛ばされるかのように、巳空に反射して四方八方へと分散した。
そして巳空は怯む事なく前進する。どのような攻撃が来ようとも、何ら影響を与えないと言わんばかりにその一歩一歩は確かな足取りだ。
しかし、彼は何かに足を取られたように前へと躓いた。
そして転ぶのを回避しようと前へ足を踏み出した際、彼は幾つもの散らばったビー玉くらいの大きさの球に足を掬われてしまう。さぞ驚いた事だろう。“タンザナイト”の“障害物を生み出す”異能は、このような陰湿な使い方も出来るのだ。裕仁は首を討ち取る勢いで派手に転んだ巳空に飛びかかると、腕を“ダイヤモンド”の異能で硬化させて振りかぶった。そしてそのまま、裕仁は巳空の頭部目掛けて拳を振り下ろす。
だが巳空は横に転がって回避すると、手を使わずに宙を蹴るようにして跳ねて立ち上がった。裕仁はそのタイミングに合わせて、硬化させた足を回して巳空を一蹴する。しかし、巳空は裕仁の蹴りを屈んで回避すると即座に内側に手を回し、そして足の進行方向に弾かれてしまう。そのまま裕仁は回転し、巳空に背を向けてしまう。裕仁は瞬時に全身を硬化させる。その判断は正しかった。
巳空は一歩引くと間合いを取り、足を刀のようにしならせて蹴りを繰り出した。
彼の攻撃の威力は予想外なまでに底上げされており、幾ら硬化していたとは言えど並大抵のものではなかった。一瞬呼吸が止まるような感覚を覚え、咳き込むと同時に唾液が口から飛び出る。もし、“ダイヤモンド”で硬化させていなければどうなっていただろうか………そんな事、考えたくもない。裕仁は衝撃に身を任せたまま、前方へ投げ出される。
だが、着地の際に裕仁は自身のスニーカーに手を触れていた。すると、裕仁の体は突如後退し、巳空に向かって高速で裕仁自身が強襲する。そして裕仁は体を捻ると、巳空の頭側部に肘を叩き込んだ。矢庭な出来事に、巳空も反応が遅れたようで、裕仁の奇襲は功を奏した。巳空は蹌踉めきながらも、冷静に裕仁と距離をとった。
「やっと………一撃喰らわせたぜ。」
裕仁は誇らしげに拳を握ると、巳空にドヤ顔を披露する。これ以上ないほど腹立たしい顔が出来たと、裕仁は自負している。
巳空は顔を歪めると、口角を吊り上げた。
「………そいつぁ……よかったな。」
ここで裕仁は少し、巳空に違和感を感じた。
彼の目線は裕仁を見ていない。その更に奥を目視していることに気がついた。
何かあるのだろうか。裕仁は警戒を高めると、巳空は愉しげに口を開いた。
「………おっと、思わぬ乱入者の登場だ。」
すると、何やら葉が擦れ揺れる音が聞こえてくる。土を踏みつける独特の音の速さから、かなり駆け足である事が伺える。どこか子気味の良いリズムだ。静かな夜だからこそ、その音は耳に良く届いた。
裕仁は慌てて自身の背後を振り返る。
まさか、彼に協力者がいるとは思えない。巳空の持つ宝石と、裕仁の持つ宝石で合計12個になる筈だ。これ以上このゲームに参加者はいない。だからこそ、その跫の正体が気になった。
「来る………‼︎」
裕仁は未知の存在に力強く身構える。
そして、音の正体は裕仁の前へと躍り出た。
木々の影から勢い良く飛び出してきたのは、裕仁の予想外の人物だった。思わず開いた口から、情けない声が漏れた。
「え…………、誰?」
そう。飛び出てきた女性に、裕仁は全く見覚えがないのだ。彼女は宝石争奪戦とは関係のない人物なのだろうか。そうだとしても、こんな夜中にこの森へ足を踏み入れる理由がない。だったら、参加者なのだろうか。だとしても、彼女は宝石を所持していないのは明白だ。もしかすると、巳空が彼女に宝石を分け与えて協力体制を敷いたのだろうか。いや、巳空がそのような回りくどい真似をする筈がない。そんな事をしなくとも、彼は容易に裕仁に勝利できるからだ。
訳が分からず狼狽する裕仁を見て、巳空は悪を体現したかのような見下した微笑を貼り付けた。
「……なぁに、ちょっとした余興だよ。すぐに分かるさ。」
どうやらこの件に、巳空が絡んでいるのは間違いないらしい。ならば矢張り、彼女は何かしら巳空と繋がりがある人物であることに違いない。彼女はポニーテールを揺らし、動きやすそうな生地で繕われた控えめなサルエルパンツを着用している。上は幾ら夏だからといっても、この深夜には少し肌寒い薄着だった。
そんな若々しさを全身で表した女性は、まるで裕仁を親の仇のような目で睨みつける。傷一つ残らず研いだ剣先のような鋭い視線に、裕仁は思わず肩を震わす。彼女の怨嗟に満ちた瞳には鈍感な裕仁ですら、剥けた皮膚に触れられたような感触を与えた。だが、裕仁には彼女に恨まれる覚えもなければ、面識すら一切ない。
そんな形相の中、彼女はふと目に涙を溜めた。
全く訳のわからない展開に、裕仁はただ狼狽える事しか出来なかった。
女性は一縷の涙を流しながら、更に裕仁を強く睨む。そして彼女は漸く、裕仁に口を開いた。
「…………お前か。」
その言葉はとても小さく、静寂な夜でさえ聞き取る事が難しかった。しかし彼女は覚悟を決めたように裕仁に向かい合うと、まるで叫ぶような号哭の声を上げた。
「お前が“和陰”を殺したのか‼︎」
彼女の口にした名で、裕仁の中で全てが繋がった。同時に、腹わたが煮えくりかえるような感情が裕仁の中で沸騰した。
「……てめぇ、巳空ァ‼︎」
裕仁の忿怒ですら、巳空は道化師のような飄々とした笑みで軽く受け流していた。




