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5話 『生き残る為に』

《ガーネット》



日は傾くように沈み始め、空という広大なキャンパスが茜色に染め上げられた頃……嘉嶋雪乃は静かに目を覚ました。


眠りから覚めて薄く開いた瞼に、眩しい夕日が容赦無く差し込む。唐突に飛び込んだ光に、雪乃は反射的に目を固く閉じてしまう。そして二、三度開閉を繰り返し、雪乃の目にもようやく景色が明瞭に映り始める。開いた視界には天井というものが映らず、橙かかった天穹だけが無限に広がっていた。どうして私は野外で眠っていたのだろうか。それが雪乃の抱いた最初の疑問であった。芝が気持ちよくて昼寝でもしていたのだろうか。はたまた急な眠気に襲われて倒れてしまったのだろうか。目覚めるや否やこのような自然に囲まれた光景が広がっている事に、雪乃は少し混乱していた。


……この前後の記憶は曖昧であった。


「どうして此処で」ではなく「何故自分は眠っていた」のかが分からない。未だに寝惚けているのだろうか。記憶の断片がミキサーに撹拌されたように混濁し、手際よく整理整頓ができない状態にあった。経緯を繋げるピースが上手く当てはまらない。ただ混ざり合った記憶の中でも、はっきりと覚えているものが一つだけあった。それは“何か途轍もない恐怖を味わった”という事だ。しかし、その内容もまた霧かかったように朧げだった。曖昧ではあるが、あまり思い出したくないと自ら記憶に蓋をしているようだった。それでも、記憶の断片が何度もリフレインする。まるで砲台から自分自身が発射されたかのような………。


何かを思い出しそうなのだが、上手く脳が回らない。これが防衛機制というものなのだろうか。眠る前の一連の出来事を、無意識的に記憶から消去しようとしているのかも知れない。雪乃は溜息をつきながら、額に片手を当てた。心なしか揺れている感覚が残っている。長時間乗り物に乗っていたような気分だ。そんな時だった。


「よぉ。随分と遅いお目覚めじゃねーか。良い夢見れたか?」


後ろの方から声を掛けられた。その呼びかけは、普段から聞き慣れた声主によるものだった。雪乃はまだ起き上がろうとはせず、横になった状態で首だけを怠そうに彼の方へ向けた。其処には当然と言うべきか、やっぱりと言うべきか。裕仁の姿があった。


彼を見た瞬間、不意に濁流のような勢いで前後の記憶が流れ込んできた。彼が記憶を思い出させるトリガーとなったようだ。その際、急な情報量の多さに軽い頭痛が雪乃を襲う。やがて堰を切ったように満たされていく記憶の断片は、パズルのピースのように一つずつ綺麗に繋がっていく。断片的だった物語は、完成されたストーリーとして一つに収束し始める。その結果、完全体となって記憶は雪乃の脳内でリピート再生された。それは雪乃がこの数十分の間の一部始終を、起承転結を淀みなく思い出した事を意味していた。彼女の記憶を覆い隠していた濃霧が晴れ渡った証拠だった。


……裕仁をまんまと罠に嵌めたつもりが、逆に雪乃が罠に嵌められたこと。不用意に飛び込み、襲撃には失敗したこと。情けなく返り討ちに遭ってしまい、そしてこれまた情けなく気絶していたこと。それらの全てを雪乃は脳内で反芻する。そして無様で仕方が無いな、と雪乃は両手で顔を覆うと自嘲気味に鼻で笑った。そして何度か顔を擦った後、目だけを出して裕仁に視線を向けた。


「……おはよう裕仁。とても心地よい悪夢だったわ。」


「そうかい、元気そうで良かったよ。」


裕仁は木に凭れ掛かりながら微笑する。


勝利を収めたはずの彼の体にも、大小深浅と様々な切り傷が彼方此方にあった。それに関しては可哀想に、と完全に他人事だった。大きめの傷にはガーゼや絆創膏を貼り、大袈裟にも包帯などが巻かれていた。保健室に行ったのか、応急処置は既に済んでいるようだ。雪乃は粘りのある視線で見つめながら、軽く不平の言葉を漏らした。


「……どうせなら私も保健室にでも運んでくれれば良かったのに。」


「うるせぇ。静かに寝てろ。連れて行ったところで保健の先生に何て説明すりゃいいんだよ。」


裕仁は口調とは裏腹に優しい声音でそう言うと、雪乃の元へ何かを投げて寄越した。雪乃はそちらに目線をやると、少し驚いた。


「ほら、絆創膏だ。傷があったらそこにでも貼っとけ。」


彼は雪乃のために、絆創膏をくれたのだ。ただ、それだけでは特に驚きはしない。問題は、その量だ。


「……これだけの絆創膏、あんたどっから持ってきたのよ。」


絆創膏の片方を持ち上げると、繋がった状態の絆創膏がするりと垂れる。その数は数える事すら面倒だと思える量だ。雪乃は疑わしげな目で裕仁を射抜くと、彼は何も悪怯れる様子もなく口にした。


「なぁに、ちょっと保健室からくすねてきただけだ。余った分は後で返すから問題ねぇって。」


雪乃は上半身だけを起こすと、小さく笑った。だが同時に、どこか不自然であると雪乃は感じていた。彼に別段変わったところは何処もない。彼の態度も口調も、その優しさも、何も変わらない。だが、何時もと変わらないこの会話が不自然でならなかった。


そう、彼が雪乃に対して優しいのが不思議でならないのだ。


何故、刃物を振り回した雪乃にこうも普通に接してくれるのか。何故、あれだけ酷い事をしたのに優しくしてくれるのだろうか。


結果が無事であれど、刃物を突きつけた相手には多少なりとも怒りの念を抱いて然るべきだ。例えそれが友人であったとしても、だ。怨嗟を抱く相手として、会話すらも拒絶されてもおかしくない。抑えきれない憤懣を存分に行使されても、文句の一つさえ言う資格はない。此方にその気はなくとも、相手にとっては殺人未遂と同等だ。逆に殺されても、雪乃には惨めに嘆く権利もない。その程度の事を雪乃は裕仁に向けてしてしまったのだ。友情の破壊どころではない。人として、あるまじき行為をしてしまったのだ。


……なのに、だ。


裕仁は普段の様子とは全く変わらず、雪乃と自然に接してくれている。一人で先に逃げ帰る事もなく、雪乃が目覚めるまで待っていてくれた。襲撃した張本人より被害者である裕仁の方が切り傷や出血は多い。だのに、だ。なのに何故、加害者の雪乃に優しく微笑みかけてくれるのだろうか。それに加え、どうして雪乃の分の絆創膏を持ってきてくれたのだろうか。それも怒られるかも知れないような方法で。


雪乃には、それが不自然でならなかった。


「どうして……私と普通に接してくれるのかしら? 私はあなたに酷いことをしたのに。」


雪乃は申し訳なさそうに俯くと、今にも消えそうな声でそう問うた。裕仁は雪乃のその言葉を聞いた途端、まるで予想外だと言いたげな表情を浮かべる。その彼の笑みは、人を苛立たせるのに限っては一級品であったと思う。


「へぇ……酷いっていう自覚症状はあったんだな。珍しい事もあるもんだ。」


「茶化さないの。」


雪乃は間髪入れずに言い返した。


それから裕仁は一度息を吐き、そして目線を夕日に反らしながら再び微笑んだ。


「……変わらないさ。俺もお前も、ただ『宝石』に踊らされた被害者の一人だ。こんなゲームがなければ、お前が刃物を振るう事もなかった。」


そんな裕仁の優しい言葉に、雪乃も思わず笑みが零れた。彼は馬鹿だ。大馬鹿だ。


「殺しかけたのに?」


「殺す気はないって言ってただろ?」


「あら、そうだったわね。すっかり忘れてたわ。」


雪乃の発した冗談に一度溜息を吐いてから、裕仁はゆっくりと立ち上がった。そして、どういう意図か、雪乃に手を差し伸べてきた。彼の手のひらは思っていたよりも大きく、逞しく感じる。雪乃は少々困惑気味ではあったが、少し考えた後にそっと裕仁の手を握った。彼の手のひらは少し冷たかった。それは、ずっと外で雪乃の目覚めを待っていてくれたからなのだろうか。それから雪乃は彼に促されるままに、そっと静かに立ち上がった。不思議と体には痛みはなかった。


裕仁は雪乃の頭に手を乗せるように置くと、一、二度軽く叩いて無邪気に笑った。こういう事を平気でする辺り、彼が馬鹿である所以なのだろう。


「だがまぁ、何も無しで全て許す訳にはいかねぇな……ってことで、勝者としてお前に一つ“命令”を与えようじゃないか。」


「命令……ねぇ。」


雪乃は“命令”という言葉に、何かを悟って目を瞑った。


このゲームで勝者が下す命令といえば、“宝石の譲渡”以外に存在しないだろう。此処では宝石が全てと言っても過言ではない。このゲームにおいて、宝石以上に価値のあるものなど存在しない。宝石を手にさえすれば容易に人智を超えた力が手に入り、自身の命を守り、十数年では使い切れない程の金が手に入る。一石二鳥どころの得ではない。この先円滑に物事を進めるのには破格の命令だ。しかし、そうなれば裕仁は得をしても、その時点で雪乃は破綻。所謂ゲームオーバーだ。宝石と力を失い、取り返す術はない。


実質的脱落者の第一号となる事になるのだ。


雪乃は、此処は足掻かずに大人しく宝石を差し出すことにした。せめてもの償い、という意図がそこにはあった。元より自分が蒔いた種だ。それが自分に返ってきただけ。自業自得、因果応報。ただ、それだけのことだった。


当然、やり残したことはある。悔いもある。どうしても叶えたかった事柄もある。その為に、雪乃は命を懸けるつもりでもいた。しかし、裕仁の行動は、雪乃に少なからず影響を与えた。こればかりは仕方のない事だと割り切る事も大切だ。


……もう、あの様な思いはしたくないから。


ただ、やはりタダで宝石をあげるのは雪乃の心は許さなかった。一つ、ただ一つだけ、裕仁に雪乃の思いを託そう。それは雪乃がこのゲームに積極的な参加を決意した理由……彼ならば、話せば分かってくれる筈だから……。


「ーーー宝石ならあなたにあげるわ。その代わり…」


「“俺と組め”。」


裕仁は、雪乃の言葉を望まぬかのように強く言葉を被せた。彼は真っ直ぐとした揺らぎのない視線で、雪乃をしっかりと見据える。その言葉に偽りなし、と瞳で必死に語りかけてくる。


雪乃は当然驚いた。


何故彼は「宝石を寄越せ」 と命令しないのか。このゲームの勝利条件は『宝石を手元に12個集めること』だ。勿論、雪乃の持つ宝石ーーー『ガーネット』も収集する対象に含まれている。彼はこのゲームに勝つ気はないのだろうか……いや、そもそも参加する気はあるのだろうか。雪乃はそっと瞼を閉じた。


彼は優しすぎる。


彼の弱点は、長所でもあるその“懇篤”さだ。優しさは甘さに繋がる。その分、他のプレイヤーに隙を生みやすい。困ってる“フリ”をされて、助け舟を出したと同時に、背後から躊躇なく鋭利な刃物で刺されたらどうする。怪我をして痛がる芝居をされて、治療中に『宝石の力』で襲撃されたらどうする。相手は平気で不幸な嘘をつく。平気で弱者を虐げる。これは間違いなく、正直者は損をするゲームだ。


このままでは、彼がこのゲームで生き残ることは出来ないかもしれない。別段、自身が死ぬわけではないので興味はないと言いたいところだが、彼は一応親友だ。いや、その関係も雪乃の中では先程壊れてしまった。


だが、彼が。普段と変わらず接してくれる彼が、その馬鹿みたいに優しさを振る舞い続けながら死ぬのは黙って見ていられない。興味は無いが放って置くわけにはいかない、と雪乃は思った。


理由は何故だか分からない。雪乃自身ですら分かってはいないのだ。だが、彼が見知らぬ誰かに優しく接した結果、無残にも殺されるのを想像するだけで胸が締め付けられるような気分になる。胸糞悪い展開を妄想するだけで、不思議と怒りが込み上げてくる。


そもそも矛盾している。彼を殺しにかかった雪乃自身が、何故彼が死ぬのを恐れるのか。考えても理解ができない。雪乃は珍しく自身の感情に困惑し、振り回されているのだ。これまで親友として接してきたからなのか、それとも先程優しくされたからなのか。自身の悪事を、まるで悪戯をした子供を宥めるかのように許してくれたからなのか。


理由は分からなくとも、自分がそう思うのならばそうなのだろう。雪乃はそう割り切る事にした。感情など、考えても分かる様なものではない。


………いや、本当は分かっている。ただ、“思い出したくない”だけなのだ。


雪乃は自身の感情に再び蓋をすると、冷静に裕仁に向き直った。裕仁に脱落してもらう訳にはいかない。彼には勝手にのたれ死んでもらうわけにはいかない。それは彼のためにも、そして雪乃のためにも。


雪乃は決心した。


「ふーん………『俺と組め』ねぇ…。それはプロポーズと受け取ってもよろしくて?」


「よろしくねぇな。ただ『宝石』を持つプレイヤーが固まってた方が、襲われた時ちょっとは心強いだろう?」


雪乃は軽く微笑むと、長い髪を少し横へはけた。


「……仕方ないわね、組んであげるわ。それで、あなたの最終目標は何?」


雪乃は真っ直ぐな目つきで裕仁を見つめる。彼と組む前に、彼がこのゲームに乗り気なのかどうかを確かめておきたかったのだ。最終目標は何だ。そう問われた裕仁は迷う行為を一切見せず、即座にこう返答した。


「生き残ることだな。」


その回答を聞いた雪乃は、今までで一番の微笑みを見せた。上機嫌に表情を緩めて、満面に微笑した。


それでこそ裕仁だ。

それでこそ私が信頼するに足る男だ。


「……欲がないのね。」


「あるさ。“生きたい”って欲が。」


「……そうね。」


次は長い沈黙が訪れた。しかし気まずくはない、どこか心地のよい沈黙だった。互いが無言のまま、大人しい風に揺られ続ける。まるで穏やかな流れの川沿いに、二人して並んで座っているかのような気分だった。


そんな空気を遮るかのように、学校のチャイムはけたたましく鳴り響いた。この時間でのベルは、ただのチャイムではない。最終下校時間の知らせだ。どんな事情があろうと、このベルがなった時点で学校から出なければならなかった。それはこの学校の規則であり、強制的なルールでもある。この校鐘が鳴ってから五分以内に脱出しなければ、校門は慈悲なく閉じられる。そして下校に失敗すると、門番をしている体育教師によって説教を長々と食らうこととなる。お経を聞いているよりも退屈で、無駄に時間を潰すこととなってしまう。それは何としてでも避けたい道であった。


「……やばいな。鞄を教室に置きっ放しだ。」


「奇遇ね。私もよ。」


二人は顔を見合わせると、顔を崩して笑った。それから先程まで衰弱していた事も忘れたように、言葉通り必死に走り出した。




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