52話『戯れる死神の跫音』
《サファイア》
面倒な展開となってしまった。
やっとの思いで葵の仇を取ったと思えば、次に現れたのは巳空と名乗る第一印象“根暗野郎”だ。奴は突拍子のない事を口走ったかと思うと、ここで全員を殺すなんていう更に巫山戯たことを飄々と口にしやがった。海音も思わず心の中で毒づく。
彼を一言で表すと「狂ってる」。
あんな狂人と戦うのは、何が起こるかも分からないので絶対に嫌だった。命がいくつあっても足りない。それに、彼は宝石を四つも所持している。と言うことは、既に三人は殺していることになる。きっと奪い取っただけじゃない。雪乃との会話から分かる通り、奴は必ず殺した後に宝石を略奪している。
だから雪乃が逃げると言った時、海音は全力でサポートする事を心に誓った。逃走は海音の得意分野だ。能力も、逃走戦にはうってつけだった。
そう強く意気込んだったのだが、案外あっさりと逃走を成功させることができそうだ。
雪乃が奴を壁に繋げてくれたお陰で、奴は海音達を追ってこれない。その間に海音達はビルの上へと姿を消す。これで奴は完全に見失う筈だ。
…………そう思っていた。
全員がビルを登りきった直後の出来事だった。海音がビルの角度を戻そうとした時、巳空に動きがあった。巳空は自身が繋げられた壁をたったの“一殴り”で破壊し、余裕綽々と束縛から抜け出した。引っ付いたままの瓦礫を砕くように払い除けると、彼は悪党のような笑みを浮かべた。そんな様子を見た海音はビルの角度を垂直に直し、
「奴が来る‼︎」
そう一言だけ力強く叫んだ。
その瞬間、何か黒い影が海音の視界を横切った……いや、縦へ通り過ぎた。
海音は瞬時に見上げると、そこに居たものに目を疑った。あり得ない。そんな言葉が海音の脳裏をよぎった。
「嘘でしょ………?」
海音の頭上を通り過ぎようとしていた正体は、先程まで地上にいた筈の巳空だった。照る月と重なり、彼の姿は黒色の悪魔のようにも思えた。この最低最悪な状況の所為か、海音は彼の事を“死神”と呼んだ。
涼太もそのような光景に思わず、引き攣った声をあげた。
「こいつ……この高さの建物を“飛び越えて”きやがった……‼︎」
正確にこのビルが何階かは分からないが、10メートル以上ある事は確かだろう。その高さを彼はたったのひと蹴りで飛び越えて来たのだ。彼の身体能力は異常だ。人間という生物の枠を大きく超えている。間違いなくこの並外れた運動能力は、彼の持つ宝石の内の一つに付与されている異能だろう。
早速追いつかれ、焦燥に海音と涼太は焦燥に駆られる。この死神から逃れる方法を必死に模索する。だが、裕仁と雪乃はまだ落ち着いている様子だった。
雪乃は彼の行く手を阻むようにコンクリート製の障壁を生み出し、その間に裕仁は空間に人が通れる大きさの穴を開けた。これは一譲が使っていた“空間を自由に操る”異能の効果だ。だが、聞いたところによるとその射程はたったの25メートル。その範囲内であれば、どこにでもワープすることが可能だ。巳空のあの脚力を見れば、25メートルなどあってもないようなものだろう。それでも、この場で呆気なく捕まるよりかは幾分かマシだ。
海音達はすぐにその穴へと飛び込み、裕仁も最後に空間の裂け目へ身を投じた。
海音が着地したのは、範囲の際にあるビルの屋上だった。ただ、やはり25メートルというのはそれ程遠くはなかった。小学生でも5秒あれば追いつける距離だ。大通りを挟んで向かい側にあるビルの屋上には、先ほど雪乃が生み出した壁が高く聳えている。しかし、その壁もあっという間に亀裂が生じ、奥からは巳空が姿を現した。もう、海音達に後ろの様子を確認している暇などない。とにかく遠くへ逃げなければならない。裕仁もその考えと同じようで、次々とワープホールを作り出していく。
だが、幾度となく潜り抜けようとも、奴は全く遅れることなくついて来る。曲芸師でもあのようなビルの飛び越え方はしない。器用に高さの異なるビルを、アスレチックを楽しむように追跡してくる。何方かと言えば、裕仁達がワープする速度よりも奴の方が早い。それは彼の遊んでいるような態度を見れば分かる事だった。このままでは、間違いなく追いつかれてしまう。
そんな時、ふと不自然な動きをする者がいた。先行する裕仁の進行方向から逸れ、一人だけふらりと別方向へ歩みを進めていく。その人物とは雪乃だった。彼女は突如横へと駆け出した。まさかとは思うが、彼女はこのビルから飛び降りるつもりだ。幾ら何でも無謀すぎる決断だ。さらに不自然なことに、彼女は「自分の後に続け」などと言い出した。雪乃は馬鹿な女ではない。それは海音達がよく知っている。この高さから落下すれば間違いなく死ぬ。そんな判断も、今の彼女は出来ないでいる。海音は雪乃に大きな違和感を抱いた。だが、そうしている間にも彼女は助走を終えようとしている。
「なっ⁉︎」
その挙動に咄嗟に反応したのは裕仁だった。
彼は雪乃が屋上から飛び出した瞬間、彼女の手を寸前のところで捕まえた。
だが、現実は漫画のようにはいかない。
裕仁はその勢いに耐えきれず、雪乃と共にビルの屋上から投げ出されてしまった。
「うぉおあ⁉︎」
「裕仁‼︎」
この展開は予想外だった。“雪乃が助かる”のかと思ったら、“裕仁と一緒に落下する”という最も酷な未来を神は選んだ。
海音はすぐに屋上の端に駆け寄ろうとした。だが、その行為は涼太によって阻められた。
「雪乃が! 裕仁が!」
海音は涼太の腕を振りほどこうとするも、涼太はそのまま海音を担ぎあげた。中学の女子程度の力じゃ、男性の大学生には敵わない。海音は足掻くも、涼太に抱えられたまま内部へと通じる扉に目掛けて走り出した。
海音はその時、視界の端にあの男の姿を目撃してしまった。雪乃のあの無謀な行動も、きっとあの男の所為だ。男は不敵な笑みを浮かべると、
「……残り二人。」
と呟いた。あの薄気味悪い笑顔は、海音の目に強く焼き付いてしまった。涼太が海音を止めたのは、この男から海音を何とかして逃がすためだろう。あのまま海音がビルから落下した二人を追いかけていたら、確実なタイムロスとなってしまう。そうしている内に、巳空に捕まってしまっていたかもしれない。
この状況での涼太の行動は、正しい選択だった。
「ガチャガチャ、ガチャリ」
涼太は施錠されたドアノブを回しながら呟くと、冗談のように鍵は解除された。ノブは不自然なほど回り、スチール製のドアは涼太によって開かれた。
扉の中は階段が四角螺旋状に続いており、その間は吹き抜けのようになっている。よくある質素なコンクリート製の無柱螺旋階段だ。名前を聞けばお洒落に感じるが、所詮はビルの非常階段的な役割だ。所々壁にもシミができている。
だが、この階段は涼太にとってとても幸運な事だった。学校にあるような階段だった場合、“この方法”が使えないからだ。
スクエア状に螺旋を描き、中央に柱のない階段の利点はたった一つだ。
“最上階”から“最下層”まで空間がぽっかりと空いている。
涼太は後ろ手に扉の鍵を閉めると、階段を降りるのも煩わしいと言いたげに海音を担いだまま階段の手すりを乗り越えた。その瞬間、海音は嫌な予感がした。それは最早“予感”では無く、“予知”に近かった。するとやはり涼太は吹き抜けへと飛び込み、一直線に落下を始めた。
「きゃああああああああ‼︎」
落下時に浴びる突風と、目紛しい視界の移り変わりに海音は叫び声をあげた。遊園地にあるフリーフォールに感覚は近いのだが、あれはアトラクションだ。今現在はただのノーマルな落下であり、そこに安全装置など存在しない。恐怖は倍以上に跳ね上がる。
そんな自由落下の途中で、涼太は落ち着いた様子で一言呟いた。
「ーーふわふわ」
すると先程まで失神寸前の速度で落下していた筈が、突如パラシュートが開いたかのように落下速度は緩やかなものとなっていた。そのままゆっくりと滑空を続け、涼太は適当な階層で落下を止めて手すりに掴まった。何階かは分からないが、取り敢えず辿り着いたこのフロアの奥へと侵入していく。
海音はこれもきっと、奴を振り切るための涼太の作戦なのだろうと感じていた。奴は恐らく、海音の落ちていく絶叫を聞いて最下層まで飛び降りたものだと思うだろう。まさかこうして別の階層に降り立っているとは思うまい。
その瞬間、屋上の方から凄まじい音が響いた。この特徴的な衝撃音は、扉が破られた音だ。鍵が開かないからか、巳空はどうやらドアを破壊するという手段を取ったようだ。
そしてその破壊音は、巳空が海音達を追ってきていることを意味していた。
涼太は海音の手を掴むと、どうやら“姿を消す”ことにしたらしい。これが巳空に見つからないための最善の策だ。
「ーースケスケ」
すると、涼太の姿はゆっくりと消えていく。そして握られている海音までもが、背景と同化していく。数秒も経たぬ内に、海音と涼太は完全な透明人間となった。そのまま物音を立てぬよう、慎重にこのフロアを駆け抜けていく。
どうやら何かの営業部署のようで、ズラリと並んだ長机に、数台のパソコン機器が設置されている。そして幾つかの部屋に分かれており、少し通り過ぎていくと大きなフロアに出た。どうやら多目的ホールのようだ。パイプ椅子と机が整頓されて並び、その前には大きなスクリーンが垂れていた。ここで会議やプレゼンなどが行われているのだろうか。まぁ、今の海音には全く興味のないことだった。
そんなホールの前に涼太は立ち、海音に話しかけた。今は少し透明化の効果が緩み、薄っすらとだが涼太の姿が確認できた。
「ここで隠れていてもいいが………。もし奴が虱潰しでこのビル内を捜索した場合、此処もいずれは見つかってしまう。」
その意見には、海音も納得だった。いつまでも隠れていることなど出来ない。それは分かりきっていることだ。それにあのイカれた男のことだ。もし海音達を見つけられなかったら、このビルを倒壊させて生き埋めにする、などといった無茶苦茶な事もやりかねない。どっちみちこのビル自体に留まる事が危険だった。
そこで、だ。と涼太は海音に話し出した。
「俺たちは奴の“裏をかく”んだ。」
涼太は得意げに、海音にそう言った。涼太にはどうやら、あの男を出し抜く策があるようだ。でなければ、あれ程のドヤ顔は披露出来ないだろう。
「裏をかく?」
海音は涼太に聞き返した。
すると涼太は、確信めいた表情で持論を述べていく。
「まず、あいつはきっと俺達が“下に逃げた”と思っているはずだ。まぁ、それは間違ってはいない。だが、“飛び降りた”という事は当然“一番下まで降りた”と普通は考えるだろう。」
だったら、と涼太は指をくるりと回転させて口角を上げた。
「つまり“ここ”から、屋上へ戻ればいい。」
涼太はそう言って、この部屋に設置されている窓を指差した。
「………ここから?」
海音は涼太の言うことを理解できなかった。階段も使わずに、どうやって登るというのだろうか。何か外側に非常階段があるのだろうかと思い窓の外を伺った。そこはそれなりに高く、外に足場になるようなものも何もない。恐らくここは3階か4階だろう。まだ落ちれば余裕で死ぬ高さだ。ビルの壁は当然ながら垂直だ。手をかけられるような場所もない。そこを一体、どうやって涼太は攻略するというのだろうか。
そんな海音の不安を他所に、涼太は海音の前でしゃがみ込んだ。何をしているのかと思って見ていると、涼太は海音を見て急かすように言った。
「ほら早く、俺の背にしがみついてろ。」
本当にどうするつもりなのだろうか。海音も子供とはいえ人間だ。それなりの体重だってある。その重りを背負い、涼太はこの窓から屋上へ登るという。仕方なく海音は涼太の背に乗ると、涼太は透明化を解除た。
そして鍵を解錠して窓を開けると、涼太は躊躇なく外へ身を乗り出した。海音にとっては本日何度目かの恐怖体験だ。リアルな死の直感が海音の脳内を苛む。だが涼太は平気な顔をして、そのまま壁に手を貼り付けた。
「ーーペタペタ」
涼太は手の平を吸盤のように壁にひっつけると、器用に垂直の壁を上り進めていく。海音一人分の体重など物ともせず、軽やかに涼太は頂上を目指した。
こちらの窓は大通りには面しておらず、まだ人目にはつかない方だ。だからといって、壁にしがみついている人間を見れば誰であろうと驚くだろう。目撃されると恥ずかしいので、海音はこの通りに通行人が現れないように心底願った。
そうして登り続ける事、数分。
涼太は少し息を切らしながらも、片手を屋上の縁に手をかけた。此処でようやく終点、正真正銘のゴールだ。涼太はもう片方の手も屋上にかけ、自分としがみつく海音の体を引き上げた。妙な達成感が涼太と海音を包み込む。ここでコーヒーでも飲んで心を落ち着かせたい気分だ。
……だが、屋上に待っていたのは安寧ではない。まさしく絶望だった。
「ーーどうして!」
海音は涼太の背から降りると、目を見開いて怯えた。涼太も同様の反応だった。ひどく狼狽し、言葉を詰まらせる。二人とも驚きの色を全く隠せなかった。それ程までに、目の前にあるものが衝撃的だったのだ。
ーーー彼女達の視界の先には、貯水タンクの鉄骨に悠々と座る巳空の姿があった。
「追ってきてたんじゃ………⁉︎」
涼太は、思わず声を荒げた。詰まっていた言葉が時間差で飛び出したといった感じだ。海音はちらりと扉の方を確認した。するとやはり、スチール扉は見るも無残に破壊されていた。
ただ、ここで海音は気づいてしまった。
彼は、ただ“扉を壊した”だけだったのだ。
「……追ってなどいない。ただ、お前らが“勘違い”しただけだ。私が“お前達の後を追いかけている”とな。」
その言葉を聞いた瞬間、海音も涼太も歯を食いしばった。確かにその通りだった。海音達は“勘違い”をさせられていた。“扉が壊された”イコール“奴が追ってきている”ではない。奴はただ扉を壊し、あたかも後を追っているように“演出”したのだ。それにまんまと引っかかり、海音と涼太は自ら巳空の待つ屋上へと帰ってきてしまったのだ。
「屋上に帰ってくることを………“読んでいた”とでも言いたいのか?」
涼太がそう問うと、巳空は目を閉じて微笑を浮かべた。
「読んでいた、と言うのは違うな。私がそう“仕向けた”のだ。」
巳空はそう言うと、ふと思い出したかのように言った。
「あぁ、そう言えば藍浦裕仁に私の“異能”について説明をした時、お前らはまだ私の術中だったのか。ならば、改めて説明しようか。私の持つ宝石の内の一つ………“ムーンストーン”の異能は『人に勘違いをさせる』能力だ。」
巳空の異能の正体を聞いた瞬間、海音は最初から自分達が良いように操られていたことを悟った。海音達に“追われている”と勘違いをさせ、そして巳空は海音を追って“一番下まで降りた”と思わせた。だから、自然と海音達の考えは絞られていく。“隠れる”、“上階へ登る”、そして“外へ逃げる”だ。だが、きっと外へ逃げようとした場合“待ち伏せされている”などと吹き込まれるのだろう。その状況に合わせて勘違いをさせ、最終的に屋上へ帰ってくるように仕向けられるのだろう。
最初から出来レースのようなものだったのだ。
「足りない脳で頑張って裏をかいたようだが………残念だったね。結果はこの有様だよ。」
涼太は一度深くため息をついた。
それには諦めが含まれていたに違いない。奴からは逃げられない。そのような負の感情が心を蝕んでいく。
「はぁ………もう、諦めるか。」
涼太は月を見上げ、そんな言葉を口から零した。海音は彼の様子を、ただ黙って見ていることしかできなかった。声のかけようがない。何故なら、自分自身も半ば絶望しているからだ。悔しいが、あの男の異能は恐るべき厄介さだ。精神に語りかけてくる異能からは逃れられない。無意識のうちに、行動が奴に操られてしまっているからだ。海音も疲れた様子で、ゆっくりと目を閉じようとした。
だが、涼太はそんな海音を強く押した。
「あぁ。諦めるさ。無様に尻尾巻いて逃げることをよぉ……。」
涼太は一歩前へ踊り出て、巳空に向き直った。
「ちょ………何してるの⁉︎」
海音はそんな涼太を必死に止めようとした。彼と戦うこと自体が無謀なのだ。だが、海音の制止を涼太はまるで聞かない。
「どうしてもっと早く思い浮かばなかったんだろうな……。こうすれば、確実に一人は逃げられると言うのに。」
涼太は海音に目を合わせると、力強く語りかけた。
「海音、お前は逃げろ。嫌だとは言わせねぇ。俺がこいつを足止めする。」
まただ。
結局、人に守られてばかりだ。
海音はいつも、周りの人間に助けられる。それでいて、海音自身が他人の役に立てたことは少ない。これじゃあまるでお荷物じゃないか。海音は自身の無力さを嘆いた。
「足止め? 面白いことを言うね。それじゃあ私はお返しに、君の息の根を止めようじゃないか。」
巳空は手のひらを大きく広げると、それを涼太に向けた。その動作を見て、涼太はもう一度大きく声を上げた。その声量は、怒鳴り声に近かった。
「……早く行け‼︎」
その声に海音は驚くと同時に、自分がまだ未熟であることを呪った。もっと大人だったら。もっと強い宝石だったら……。
そんな悔しい感情を反芻しながら、海音は扉に向かって駆け出した。そして壊れた扉の枠を通り抜ける際、
「……待ってて。すぐに裕仁と雪乃を呼んでくるから‼︎」
と、それだけを言い残し、海音は戦場と化すであろうこの屋上を後にした。その目には、少し涙が溜まっていた。




