51話 『語られなかった真実』
《ペリドット》
どうやら、まだ夜は終わらないらしい。
鴉も逃げるような喧騒も幕を閉じ、漸くこの路地にも静寂が戻ったと思われた。だがしかし、その空間に新たなる闘争の種が蒔かれた。神は明らかに裕仁達に戦闘を望んでいる。そうでなければ、この展開は有り得ない。まさに最悪中の最悪だ。
どこから湧いて出てきたのか、突如こうして現れた暗い雰囲気を持つ男は、更にここにいる全員を困惑へと導いた。この男が発した意味を持つ言葉に、四人は己の耳を疑う。それは、裕仁の求めていた答えだった。だが、知りたくはなかった。そして真実がいかに冷徹で残酷であるかを知ってしまう。
「それは、こいつが“宝石争奪戦”の“経験者”だからだよ…………それも、“前大会の準優勝者”だ。」
ーーーーーなぁ? 嘉島雪乃……。
彼の発した言葉によって、雪乃の表情は一気に凍りついた。“経験者”、“前大会準優勝”。それらの単語に、雪乃は過剰なまでに反応を示した。勿論のことだが、裕仁達は何が何だか理解していない。唐突に知り合いでもない奴がこの場に来て、意味のわからない荒唐無稽なことを口にして、それを「そうだったんですか」で簡単に片付けられるはずもない。
裕仁達はただひたすらに、その言葉の真意を探っていた……というよりかは、この男の言葉が“嘘である”と言い切れる確証を、脳内に収納してある情報から整理して模索していた。
確かに、雪乃の言動や行動は常人離れしている。それらの理由が“一度経験している”からだと言えば、それで何の矛盾もなく解決するだろう。正直に言えば、薄々裕仁もそうなのではないかと感じていた。
だが、信じられなかった。いや、信じたくなかった。こんなゲームが過去にも行われていたという事実を、そしてそのゲームに雪乃も参加していたという事を。
雪乃のこの顔を見ていれば分かる。それは裕仁に限った話ではない。誰が見ても明らかな程に、彼女は本気で驚愕している。その様子は必然的に、この男の発言が“真実”である事を示していた。雪乃は訝しげにその男を睨み付けると、裕仁達には分からない内容の会話を始めた。
「貴方は“あの男”の……使いか何かかしら?」
“あの男”というのは誰の事か分からないが、何と無く過去に何かしらの因縁がある事は理解できた。黒髪の男は意味ありげな笑みを浮かべると、雪乃の質問に返答した。
「いや、あの男は既に“死んだ”よ。」
その言葉に、雪乃は再び吃驚の色を見せた。いつもならすんなりと状況を受け入れる怜悧な雪乃であっても、この時は思わず聞き返してしまっていた。それ程までに、“あの男”という人物が死亡したことが意外な事だったのだろう。
「………死んだ?」
気がつけば、雪乃の表情は更に険しいものになっていった。男は念を押すように、何度も何度も同じ意味の言葉を繰り返した。
「あぁ。確かにあの男は死んだ。確実に死んだ。間違いなく、一片の誤りなく死んだよ。もう、この世にいない。」
雪乃は漸く合点のいったような顔をし、更に鋭い眼差しで男を見つめた。その表情は、何時もの冷静な彼女に戻っていた。
「成る程……貴方が“殺した”のね。」
男は歪んだ不気味な笑みを浮かべると、ただ一言、「正解。」とだけ言った。
「雪乃………。」
会話の内容はさっぱり分からない。同じ国の言語なのに、まるで二人だけ生きている世界が違うかのようだった。それでも裕仁は馬鹿ではない。雪乃の目の前に立つ男が敵だということは理解していた。
裕仁は雪乃に話しかけようとした。だが、唐突に裕仁の体は彼女の元へと引き寄せられた。雪乃の持つ“ガーネット”の異能だ。そうして裕仁の肩を掴み、雪乃は耳元で小さくボソリと呟いた。
「………話は後。 とりあえず今は、目の前の男から“逃げる”事に専念しなさい。」
それだけを言い終えると、雪乃は裕仁を押して体から離した。何気に、逃走を主とした撤退戦は初めてかもしれない。それも雪乃が「逃げることだけを考えろ」と言うくらいなので、余程の緊迫した状況なのだろう。確かに皆、一譲との戦闘で疲弊しているに違いない。その状態で、“あの男”という人物を殺害した目の前の男には敵わないという事だろうか。それとも、完全に回復した状態でも………。
ーー奴には勝てない。
精神が掻き乱されていくように、この男の前に立つと不思議な感覚に陥ってしまう。別にネガティヴになっているわけでもなく、恐怖でどうこう、というわけでもない。なのに、どうしてもこの男に“勝てる”というビジョンが見えなくなる。自分でも分からないが、とにかく“奴に手を出せば負ける”という想像が脳内を埋め尽くしていく。まるで心が暗雲で曇っていくように、負の感情に支配されていくようで……。
そこで、裕仁は小さな違和感を抱いた。
ほんの先程まで、特にその様な俯き気味な感情を抱いてはいなかった。そもそも、闘う前から敗北を認めるという行為に前例はない。いつだって、勝てる見込みのない勝負だって我武者羅で勝ち抜いてきた。和陰や一譲との戦闘は本気で死を覚悟した。そのような修羅場を潜り抜けてきた。その筈なのに、まるで不意に流れ込んで来たこの感情が、忽ち自身の感情をも覆いかぶさり呑み込んでいく。徐々に徐々にと抱いていた信念が軟弱なものに書き換えられていく。それも強制的にだ。自分の心が勝手に支配されていく。そんな体に虫が這うような気持ち悪さに、裕仁は思わず呻き声をあげた。
「ーーっうぁあ‼︎」
それと共に頭部に激しい痛みが走り、裕仁は瞬時に頭を抱えた。
その瞬間、裕仁の心情は突如晴れやかとなった。割れるような痛みはほんの一瞬で消滅し、それと同時に精神を乗っ取ろうとしてくる黒い靄が晴れ、意識は正確に覚醒した。誰かが裕仁の心の中を操作しようとている。その頭痛は、裕仁の中に残った心情による抵抗だったのかもしれない。
そして、そんな異能を使用する人物の心あたりは、あった。
と言うよりも、“こいつ”しかいないのだ。
裕仁は思わず、興味深そうに立っている男に双眸を向けた。
「へぇ……。“人に勘違いさせる場合、違和感を抱かれるとその時点で無効となる”。 これが“もうひとつの制約”………説明書通りだな。」
男はぶつぶつと呟くと、顎に手を当てて何かを考え出した。
「一度異能が発動すれば“逃れる術はない”と思っていたが………それは間違いだったか。まさか、違和感に気づいて“自力で解除する”奴がいるとはな………。」
「“勘違いをさせる”………それがお前の能力なのか? 何方かと言えば“思いこませる能力”だな。」
男は面白そうに笑うと、良いおもちゃを見つけたと言わんばかりにゆっくりと近寄ってくる。
「確かに、この強力な力は“思い込み”させることに近いのかもしれない。だが、結局のところは“勘違い”をさせる程度だよ。少しでも疑われれば、上書きした異能は綻んでしまう。“思い込み”のように、深く妄信的にまで人に間違いを植え付けることはできないんだよ。まぁ大概、違和感を抱かれる事はないんだけどね。そこにいる君のお仲間たちのように。」
そう言いながら男は裕仁の前に立つと、指をパチンと鳴らした。それがまるで合図のように、雪乃や海音、そして涼太の様子が少し変化した。やけに怯えた様子から、普段の彼女たちに戻ったといった様子だ。どうやら、裕仁だけでなく彼女たちにも同じ勘違いをさせていたらしい。
「最早だだの宝石を回収する“作業”と思っていたが……お前とは案外楽しめそうだ。」
男は狂気そのものを宿したように口を三日月にして笑うと、懐から宝石を取り出した。それも一つではない。両手にそれぞれ二つずつ。つまり、彼は四つの宝石を手にしていた。
「私の名は“因幡巳空”。私が手にしている宝石は四つ。」
裕仁は、彼の言いたいことをすぐに察した。同時に、この戦闘は避けて通れないものだと瞬時に悟った。
「藍浦裕仁が二つ。嘉島雪乃が二つ。姫宮海音、瀬良涼太が一つ。そこに倒れている常葉葵、南雲一譲に一つずつ。それも恐らくお前達が回収したんだろう。」
男は持っている宝石を力強く握り締め、不敵な笑みを浮かべた。
「合計12個………。この場に既に揃っている………。つまり、ここでお前らを殺せば、宝石は全て揃う。」
その言葉を聞いた瞬間、裕仁は
「あぁ、やっぱりな。」
と、呆れたように口にした。その一言が、試合開始のゴングの役目になってしまった。雪乃は動き出そうとする巳空の片足が浮いた瞬間を見極めて、“繋げる”異能で彼を壁へ密着させた。その隙に雪乃は声を張り上げた。
「逃げるわよ‼︎」
「悪いな。おねむの時間だ。今日はお前と闘うより、帰って寝ることが最優先なんだ。」
その声に促され、海音や涼太も雪乃に続いて疾駆する。一体いつから“勘違い”をさせられていたのだろうか。だが、“勘違い”を解除されても、雪乃の“逃げる”という判断は変わらなかった。という事はやはり、巳空と戦うにはそれなりの準備が必要という事なのだろう。四つの宝石のうち、一つは精神に作用するものだった。正体は“勘違いをさせる”というものだ。疲弊しきった体でなくとも、恐らく奴が本気で認識の出来ないような“勘違い”をさせたならば、容易に仕留められてしまうに違いない。裕仁にとっても、最善の策は逃走しか思い浮かばなかった。
こうして、夜の街を舞台とした追いかけっこが新たに幕が開かれた。だが、今回は海音の時と違って逃走側だ。この緊迫感と緊張感は、疲労した心身には厳しいものがあった。一譲との戦闘という大舞台があったにも拘らず、少しの幕間を挟んで第二部が開始された。裕仁達も、全力という言葉も残滓のようなものだった。
ならば早期決着しかない。
最早一台も車の通っていない大通りに飛び出すと、海音は目の前にある建物の角度を大幅に変化させ、緩やかな坂道を作り出した。
「ここは私に任せて………逃げることにだけは自信があるの。」




