49話『清水の舞台から飛び降りるつもりで』
《ペリドット》
静かな夜風を切り裂いて動き出したのは一譲の方だった。
一譲は一瞬で裕仁達の陣営の中央に姿を現わすと、とん、と地面を爪先で軽く蹴った。
すると、その場を中心にして空間が揺らぎ出した。簡易的な地震のようだ。だが足元は非常にぐらつき、立っているのもやっとだった。そんな中、一譲だけは平気で歩み寄ってきた。
裕仁は一層のこと前傾姿勢をとり、その場で耐えて立ち続ける事をやめた。そして裕仁は器用に手で体を支え、そして持ち上げて一譲へ足を振り抜く。
しかし裕仁の蹴りを、一譲は空間を切り開いて逃れた。やはり、彼の弱点は雪乃の言う通りみたいだ。ヒートアップしていく攻防の中で、息が乱れないなんて事はない。どれだけ超人じみた力を手にしようとも、元はどうしようとも人間なのだ。殴られれば血が出るし、刺されれば死ぬ。それだけは変わらない。それでも、少なからず体力の差というのは存在していた。四捨五入して二十歳の若者と、三十過ぎのサラリーマンとでは少しばかり運動能力が異なる。今の所優勢なのは、若者集団である裕仁サイドである事は間違いなかった。
だが、弱点を見つけたからと言って、一譲の能力が弱くなったわけではない。その部分に目を瞑れば未だ最強の能力だ。それを覆すには、弱点を利用し続けるしかない。
ーー空間の出口は、まだ出現していない。
彼のワープは、入口と出口を同時に作る事が前提ではないようだ。亜空間の中に留まり、機を伺っているのだろうか。その間、裕仁達はこの路地に死角が生まれぬよう注視していた。何処から奴が出てこようとも、直ちに反応が出来るように。
……まだ、彼が閉じこもってから数秒しか経ってないだろう。だが、既に数分が経過したような錯覚に陥っていた。警戒心と集中力は共にピークに達していた。神経は研ぎ澄まされ、視界は驚くほど明瞭としている。ただし、その完璧に近い状況が長く続かない事は裕仁もよく知っていた。警戒心というものはギターの弦の様なもので、強く張れば張るほど切れやすくなるのだ。裕仁の警戒も既に、切れるか切れないかの寸前にあった。
その瞬間、雪乃の背後に空間に亀裂が走りだした。裕仁は、すぐさま目にした物を声にして危機を伝えた。
「雪乃! 後ろだ‼︎」
しかし雪乃は険しそうな表情で左右を見た。
「ーー何をやってるんだ‼︎ お前のすぐ後ろに“出口”があるんだ!」
それでも雪乃は動かない。
「……いいえ、違うわ裕仁。」
雪乃は珍しく、深刻な表情で口を開いた。何時ものように冷静で、何もかもを見通したような面持はそこにはなかった。冷や汗を流し、焦りに満ちている彼女の表情を、裕仁は初めて見たような気がした。
「“全員の背後”に、空間の出口は生成されている……‼︎」
その一言に、雪乃以外の全員が振り返った。そこには見紛う事なき、あの暗い無機質な世界との扉が開かれていた。
「……一体、“何処から”出てきやがる?」
涼太が苛だたしげに呟いた刹那、その空間の一つから手がゆらりと這い出した。
それは、海音の背後に作られた穴だった。
「海音っ!」
裕仁は瞬時に、海音とその手の間に割って飛び込んだ。しかし、それ以上その手が飛び出す事はなかった。
ーー何故、あの男はそこで攻撃を中断したのだろうか。
裕仁の脳裏に、そんな疑問が浮かび上がる。裕仁が海音を護るように庇ったからだろうか。一人一人その空間に引き摺り込む事が奴の作戦だったのか。いや、それなら予定を変更して庇った裕仁を引き摺り込めばいいだけの話だ。しかし、彼はそうしなかった。
「……最初から私に攻撃なんてしようとしていない……?」
海音も頭の中で糸のように絡まる情報を一つ一つ丁寧に解きながら、一つの可能性を口にした。それが、海音の感じる嫌な予感の正体へと近づくトリガーとなった。その小さな仮説は海音の中で組み立てられていき、遂には大きな真実へと帆を進めた。
「この手はきっと“ダミー”だった! 注意と視線をそこに集めるため“だけ”の!」
海音が叫んだ瞬間、一譲本体が揺らぐように姿を現した。登場したのは、涼太の背後に設置されている次元の穴からだ。
涼太は咄嗟に身構え、そして一譲に指を向けてオノマトペを口にした。
「ーーバンっ‼︎」
すると、涼太の指から音の銃弾が飛び出した。たとえ指銃だったとしても、その速度は本物の銃に等しい。当然回避させる暇も与えず、涼太の放った銃弾は一譲が穴から出る前に見事命中した。
ーーーはずだった。
その場にいた彼らは、驚愕の色を浮かべた。
「………まさか……。」
「……嘘……でしょ?」
「俺たちの……立ち位置が……」
そう……涼太の放った指銃の被害を受けたのは。
「……“入れ替わって”やがる‼︎」
予想外にも裕仁だった。
《エメラルド》
涼太が撃ち抜いたのは、一譲ではなかった。
共闘している仲間……裕仁だった。やはり一譲は、まだ何かを隠していたのだ。その隠し札をこの土壇場で切りやがった。“空間を自在に操る”能力……。格上の能力だという事は分かっていたが、想像以上の力量の差だ。四人がかりでも、まだ戦況は彼の掌の上にある。それに、あれから彼は一切呼吸を乱してはいない。常に平静を保ち、移動も攻撃も異能を駆使してなるべく足で動こうとはしない。しかしその行動は、彼の弱点は“本当だ”という事は顕著だった。心が折れそうになる。
そして裕仁の立っていた場所には、まるで何事もなかったかのように一譲が自然に立っている。涼太達の立ち位置を一瞬でシャッフルしたのだろう。こんな事も可能ならば、きっと彼の想像次第で、用途は無限に湧いて出るのかもしれない。
早めに決着をつけなければ……。
一譲の隣に立っているのは雪乃だ。
「嘉島! すぐにそこから離れろぉ!」
涼太は誰よりも早く駆け出し、一譲目掛けて異能を発動しようとした。しかし、先程のシャッフルを思い出すと、迂闊に攻撃が出来なかった。また、攻撃を仕掛けた瞬間、立ち位置を入れ替えられるとまた被害が増えてしまう。そのたった一瞬の逡巡が、戦さ場では命取りとなるのだ。一譲は雪乃に危害を加える事なくその場から消えると、涼太の目の前に立ちふさがった。何度も見た、彼の瞬間移動だ。
だが、涼太に一譲の魔の手が届く事はなかった。一譲の足元から突如として立方体の柱が生まれ、彼を乗せたまま天高く聳え立った。そしてその細く高い柱は徐々に傾き始め、人が立ってはいられないであろう大きな傾斜が作られた。
「……これで少しばかり、驚いてくれればいいんだけど……。」
雪乃は、あの高さから一譲を振り落としても、彼が落下して地面に叩きつけられる絵を想像できなかった。きっとまたこの場に帰ってきて、何か予想外の事をして来るに違いない。
しかし、予想に反して彼はそのまま上空から降ってきた。そのまま一譲はピクリとも動かない……彼はあまりにも呆気のなさすぎる最期を迎えた。こんな終わり方があるだろうか。不完全燃焼も良いところだ。
ーーこんな終わり方が有るはずがない。
涼太がそう思ったのと同時に、雪乃は辺りを警戒しながら言った。
「……落下した衝撃音がしなかった。この一譲は間違いなく“偽物”よ…………!」
「偽物………?」
最早何でもありの世界だ。
雪乃が言うには、射程内の空間は自由自在に操れるらしい。まさか、自分自身の“虚像”まで作れるとは想像していなかった。だが、それよりも恐ろしい事がたった今発覚した。
「……つまり、彼は既に“射程内”にいる………?」
涼太は辺りを見渡すも、海音、雪乃の姿しか捉える事が出来なかった。
だが少し、海音の後ろの空間が“揺らいだ”のが見えた。陽炎のようにではない。人型が移動するように、一部の空間だけ浮き上がるように揺らいだ。その正体は奴しかいない。
「……姫宮の後ろに既にいるぞ‼︎」
それは徐々に色を持ち、背景から一譲の姿が浮かび上がった。姿の幻影を見せる事が出来るのだから、姿くらい消す事は容易だろう。海音もすぐさま振り返り、その場を飛びのこうとした。
だが、雪乃は予想外の一言を口にした。
「いや、海音は“動かなくて良い”………いや、“動かないで”。」
「どういう事だ⁉︎ 攻撃されるぞ!」
涼太は必死に叫び、再び指から弾を発射させた。奴は海音のすぐ目の前に立っている。そう遠くない距離だ。身長差もあり、一譲の頭部はかなり狙いやすい。仮に女性二人と一譲が入れ替わったとしても、頭部狙いなら命中する可能性は無いに等しい。涼太は安心して彼に指銃のトリガーを引くことが出来た。
しかし、その銃弾は一譲の頭部をすり抜けるようにして通り過ぎて行った。
「なん………だと?」
海音を襲うようにして出現した一譲も、空間内に映し出された“偽物”だった。撃ち抜かれた瞬間、彼の姿は靄のように背景に溶け込んで消滅した。ここにきて漸く、涼太は雪乃の言葉の意味を把握することになる。
そして涼太は、一譲の次の行動を無意識のうちに察知した。
「ーーもくもく。」
涼太の体が触れることのできない“煙”へと変化した瞬間、涼太が先程まで立っていた場所がまるで渦のように捻られ始めた。あの渦に巻き込まれていたならば、涼太の体はどうなっていたのだろうか。体は捻り切られ、骨は軽快な音を立てて粉砕していたかもしれない。想像するだけで恐ろしい。
その渦の向こう側には、今にも倒れそうな風に弱々しく立つ一譲の姿があった。
「くっそ! ここに来て新技のオンパレードかよ!」
涼太は煙を一点に集めて体を元に戻すと、悔しげに、そして焦り気味に声を荒げた。
「あいつ、一体どれだけ隠し球もってんの?」
「……流石に、想像以上ね。」
雪乃と海音も、最早状況を判断するだけで精一杯だった。この戦闘は、明らかに宝石の持つ異能力の“スペックの差”が理不尽な迄に関わっている。涼太の異能もかなり汎用性の高い上位の能力だろう。だが、格の違いという物がはっきりと目に見えていた。四人の宝石所持者が固まっていても、一人の宝石所持者には敵わない。所謂“無理ゲー”。彼に攻撃を加えるどころか、指一本触れられない。本気になった彼からは、紙一重で逃れる事しか出来なかった。その上、既に一人はダウンしてしまっている。涼太の誤射……一譲が隠していた使用用途によって倒されてしまった。残りは三人。それも涼太以外は女性。更に言えば一人は中学生だ。所持している異能も『物と物を繋げる』、『障害物の生成』『角度を操る』『擬音を操る』というものだ。『空間を自由自在に操る』彼からすれば、弱小も良いところだろう。実際、その大半は彼に通じなかった。
まさに、万事休すだ。
「もう、あいつも喋んねぇな。」
戦闘中にぺらぺらと余裕ぶって話しかけていた一譲も、何も口を開かない。彼にとってもこの闘いはもう遊びでは無い。命を賭けた死闘である事を認識している証拠だった。
「私達ももう、一か八かの“勝負”に出るしかないわね……。」
雪乃はこの張り詰めた空気の中、場違いなほど抜けた溜息をついた。その後表情を一気に引き締めると、一直線で一譲に駆け出した。その後を追うようにして、海音も疾駆した。
「涼太にーちゃんにだけ、任してらんないからね。」
そして雪乃は床に転がっていたあの時の標識を引き寄せると、それを固く握り締め、一度空気を凪いだ。今思えばあの標識も、一譲が空間を削って切断したものだろう。雪乃が一譲との距離を詰めると、一譲は半歩後ろへ下がろうとした。雪乃はその足の移動先に小さな段差を設けた。彼の足はその段差に引っかかると、やや後ろへと体勢を崩した。その1秒にも満たない隙を、雪乃は見逃さない。標識の削り取られた断面を一譲に向け、そのまま槍の要領で突き刺そうとした。
しかし空間は寸前で切り離され、一譲に矛先が届くことはなかった。だが、その断裂技も雪乃の前では通用しない。瞬きする間に断ち切られた空間は修復され、雪乃の持つ標識は一譲目掛けて突かれた。が、又もや立ち位置の入れ替えが行われた。雪乃の攻撃の先にいるのは涼太だ。それでも雪乃は焦ることなく、自らの足場を能力で上へと持ち上げた。一譲は海音のいた場所へ移動している。
雪乃は彼を“座標”に設定し、彼に標識を投げつけた。雪乃の“繋げる”能力によって、この標識はたった今から“自動追尾弾”となった。その他にも停まっていた自転車や置かれていたゴミ箱、雪乃の生み出した金網のフェンスなどを全て彼に“繋げ”始めた。
海音も周りの被害など気にせず、思い切り角度を傾けた。一譲から見れば上り坂となり、海音から見れば下り坂となった。だが、それは坂と呼べるほど生温いものではなかった。これを形容するならば“蟻地獄”だ。這い上がることのできない急斜面。更に一譲には、様々な障害物が襲いかかった。次第に角度は直角に近くなり、海音や一譲はおろか、涼太も立ってはいられなくなった。体は宙に浮き、まるで重力が横向きになったかのように、長い路地をすり抜けるように落下運動が始まった。
「うおおおぉぉぁぁあ⁉︎」
涼太は不意な出来事に思わず叫び声をあげた。ここから目視できる足場は、遥か下にある路地を抜けた建物の壁だけだった。そこまで体感だけで二、三十メートルはある。マンションで言えば六、七階程度の高さだ。落ちれば、確実に死ぬ。
だが、海音と涼太の足元には、先程まで地面だったアスファルトから壁が迫り出してきてくれた。
「………助かった。」
涼太と海音はその足場代わりの壁に着地すると、落下していく一譲を確認した。
彼は叫び声一つあげることなく自由落下を続ける。しかし、大きく変化した角度は程無くして戻るようで、徐々に傾斜は坂道へと角度が緩くなっていっている。これなら彼が落ちる前に、いつもの平坦な道に戻ってしまうだろう。現に、一譲は既に緩やかな坂道へと戻りつつあるアスファルトにしがみついていた。
雪乃はそんな彼を引き剥がすべく、アスファルトから細い柱を打ち出した。
空中へと押し出されていく一譲だが、彼に驚きや焦りといった表情は見られなかった。彼は手を一振りすると、追尾してくる諸々のガラクタを空間ごと削り取った。そして斜面は平凡で平坦な路地に戻り、海音の異能の効果は切れてしまった。だが彼の体はつい数分前の高さ程ではないが、かなり上空に投げ出されている状態だ。一譲の体が限界まで浮き上がり、落下を始めようとしていた。しかし一譲は焦らない。彼は自分の落下地点に、空間に大きめの亀裂を走らせた。
これは、この空間に穴が生成される前兆だ。また奴の空間に逃げられてしまう。そうなれば、折角二人が生んでくれた流れをリセットされてしまう。
「そうはさせるか!」
涼太は強く地を蹴ると、空高く飛び上がった。
「……“バサバサ”」
そう口にすると、涼太の背から純白の翼が広がるようにして生え出した。翼を動かしたことはないが、不思議と手足を動かすような感覚で羽ばたくことが出来た。そのような神々しい姿で、涼太は一譲目掛けて飛行した。
当然、一譲も黙ってその様を見つめているわけでは無い。体を縦に横にとアクロバットに回転させて涼太に向き直ると、再び空間を捻り始めた。涼太は巻き込まれる寸前で急旋回し、その渦を間際で回避した。だが、その回避行動によって、もう涼太は一譲へ追いつくことが不可能となった。涼太の飛行速度と一譲の落下速度は大して変わらない。今から追いかけようとも、先に一譲は空間の穴に飛び込むだろう。
涼太は翼を解除して、自らも落下を開始させた。雪乃や海音だって、一か八かの勝負に全てを賭けた。それを無駄には出来ない。涼太もまた、分の悪い賭けに身を賭した。
「メラメラ」
涼太は、あまり遠距離攻撃を持ってはいない。それでも、数は少ないが威力は高火力だ。涼太は身に纏った炎を一譲に向けた掌に集め、それを増幅。そして、一気に放射した。決着は、奴が穴へと辿り着くまでに付けなければならない。空間を切り離されても、雪乃がいれば如何にかなる。今は何としてでも、奴を食い止めなければならない。
だが、炎の猛軍はまるで滑っていくように逸らされていった。間違いなく空間が切り離されている。だが、それを雪乃に繋げて貰えばいいという事を、一譲も当たり前だが知っている。
だから一譲は炎を真正面から食い止めるわけではなく、緩やかな曲線を描くように空間を切り離し、まるで誘導するかのように炎を逸らしたのだ。当然、その逸らした先は雪乃達のいる場所だ。海音は涼太の炎が飛来する角度を著しく変化させ、その場から逃れた。巻き込まれる事は無かったが、それでも今から空間を繋げて貰っても間に合わない。
涼太は賭けに負けたのだ。
そのまま一譲は亀裂を広げて穴を生み出し、その中へ落下していった。
だが一譲の目の前には、目を疑う光景があった。
「……これは予想できたか?」
なんと、一譲の開いた空間の穴隙から姿を現したのは、リタイアした筈の裕仁だった。頭部から血を流してはいるものの、彼の目には不屈の光が灯っている。
確かに、涼太は疑問に思っていた。
先程から裕仁の姿が、まるで見えなかったことを。
涼太が裕仁を撃ってしまった後、彼の姿は何処かへ消えてしまっていたのだ。本来、その場に倒れていなければおかしいのだ。だが、涼太達にはそんな事を考えている暇はなかった。心の何処かで無意識的にそう感じていても、脳でしっかりと認識するまでには至っていなかった。
勿論、涼太がそう考えていたのだから一譲だってこれは予想外の出来事だっただろう。
「ーーー驚いたな?」
裕仁は、涼太に撃たれたその時からずっと、この無空間に“身を潜めていた”のだ。そして一譲が穿孔を開ける、この瞬間を狙っていたのだ。
裕仁は落下してくる一譲の顔を手のひらで受け止めると、そのまま横へ薙ぎ払った。
その刹那、一譲の体は加速を開始し、悍ましい速度で吹き飛んだ。一度呼吸を乱した一譲には、異能使用の“空白時間”が生まれる。その時間は弱点というには短く、大体三秒から五秒程度のものだ。だが、それで十分だった。
一譲の体はビルの一階にあるショーウィンドウを突き破り、その向かい側にあるビル壁に思い切り叩きつけられた。さすがにその壁を穿つ事は無かったが、それでも大きく罅が生じていた。
それでも一譲は血反吐を吐きながらも、まだ立ち上がろうとする。裕仁は涼太の背を叩くと、軽く頷いた。涼太も彼の思考を直ぐに読み取ると、一譲に向かって駆け出した。すると裕仁の異能によって、速度は今まで体感した事がないほど上昇していった。そして奴の突き抜けて割れてしまったショーウィンドウを飛び越え、ビルの中へと駆け込んだ。そしてよろりと立つ一譲へ、涼太は華麗に回転を加えて一蹴りを放った。フェイントを加えた、上段の回し蹴りだ。躱すという行為すら取れなかった一譲は真面に喰らい、その勢いに逆らう事なく倒れ伏せた。
「……やった………のか?」
それから彼は、立ち上がる事は無かった。
息はあるようで、死んではいない事は確かだった。恐らく気絶しているのだろう。
ーーーこうして長い夜は終わりを迎え、過去最大の敵である“南雲一譲”は大理石の床に力なく倒れ込んでいた。
……だが、こんな言葉がある。
『旅人よ、心せよ。“夜明け前”が最も暗いのだと。』




