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4話『ガーネット』





「ーー宝石ちょうだい?」





挿絵(By みてみん)






彼女がそう言葉を発した瞬間、周囲の空気が凍ったように感じた。


「……え?」


裕仁は思わず聞き返した。同時に自身の耳を疑った。


しかし聞き間違えようがなく、確かに彼女は「宝石を寄越せ」と裕仁に宣告した。曖昧に言葉を濁すことなく、堂々と清々しく強請った。これは明らかな敵対宣言だ。どのように都合よく思考を逆転させようとも、それ以外にこの言葉の解釈の仕様がない。裕仁の思惟が滞るほど、それは余りにも唐突な宣戦布告だった。しかし裕仁は、ここでいくつかの疑問を抱いた。


何故、彼女は『宝石』の存在を知っているのか。


何故、彼女は裕仁が『宝石』を所持していることを知っているのか。


疑問はまるで尽きない。考えれば考える程、湧水のようにとめどなく溢れてくる。蓋をしようにも湧き出る力に押し返されてしまう。だが略奪宣言をされた今、裕仁が長考している暇などなかった。現に裕仁が勝手に思考を巡らせている間にも、彼女は新たな行動に身を移していた。


雪乃は無造作にポケットから何かの袋を取り出すと、その中身を撒き散らすように空中へとばらまいた。それは小さく細かに砕かれた、何かの破片だった。しかし、何の破片かは見分けがつかない。しかし、材質は何となく分かる。その破片の一つ一つは、煌めく夕日に反射しているようで、ダイヤモンドダストのような繊細な輝きを放っている。どうやらそれらは、薄い金属片のようだ。まるで強い力によって叩き割られたように破片の大小は様々で、角も整ってはいなかった。


裕仁は無意識のうちに、人工的に生成された星屑に目を奪われてしまう。それ程までに幻想的で、魅力的な光景であった。しかし、そう感じているのは裕仁だけであった。雪乃は破片には一切目もくれず、土を後方に蹴り飛ばした。彼女は微塵の躊躇いもなく、この金属片の雨の中を突っ切るつもりだ。そんな彼女の目線は、確実に裕仁を捉えている。普段よりも鋭く、まるで一直線に心臓を射抜くような視線であった。


裕仁は当然、狼狽した。


それは彼女が宝石を奪うために襲撃してきたからではない。いや、勿論それもある。しかし最も大きな理由は、彼女が一体何をしたいのかが理解できなかったからだ。雪乃がたった今行った行動は、ただ空中に金属片をばら撒き、その中を裕仁目掛けて突進している。非常に理解に苦しむ。彼女はどうして破片を空中に撒く必要があったのか。目線を誘導するにも、他にも方法は幾らかあったはずだ。それに、わざわざ正面から打って出て宣戦布告をする必要もない。校舎裏に呼び出して、後ろから奇襲という手段もあったはずだ。考えすぎかもしれないが、勿論その行動には意図があるはずなのである。そうして再び裕仁は、答の出ない思考に溺れ始めていた。


しかし裕仁の集中力を掻き乱す原因は、雪乃の不可思議な行動だけではなかった。いや、不可解な行動にはまだ続きがあった。


雪乃の手には、包丁の柄のような物が固く握り締められているのが見えた。だが、それにはどういう訳か肝心の刃が付いていない。彼女が握るのは、ただの柄のみだ。一体その棒切れで何ができるというのだろうか。単純にそれで殴りつけるつもりなのだろうか。ならばもう少しリーチの長い有利な武器を準備するはずだ。やはり、彼女の行動は何一つとして理解ができない。刃の付いていない刃物などただの棒、付け焼刃以上に役に立たない。その脅威は毒性の無い河豚に等しい。牙や爪の捥がれた虎に等しい。つまり鬼胎を抱く対象にすらならなかった。しかし、それが裕仁にとって恐怖を抱く理由となる。


「一体そんなもので何をする気だ……?」


裕仁はただ困惑するしか無かった。もしその行為がこうして裕仁を狼狽えさせる事が目的であったならば、それは大がつく程の成功だ。見ての通り、裕仁に十分すぎる影響を与えていた。


しかし雪乃は、裕仁に向かって猛進をやめない。それは一切の迷いなく、裕仁をこの場で刈り取ろうとしている証拠だ。彼女はまさに、狩猟の最中のような目をしている。強く、決意しているような瞳だ。一体何がここまで彼女を突き動かしているのだろうか。裕仁は動乱させることが目的という甘い考えは直ぐに放棄した。彼女は金属片が降り注ぐ地帯を、猪のように進撃してくる。今から「ちょっと待って」「やめよう」などと言える雰囲気ではなかった。


今更ではあるが、裕仁はこの状況について未だに整理が出来てはいない。まだ脳内は雑然としていて、お世辞にも片付いているとは言えなかった。それはこの状況が余りにも急展開で突発的だからだ。なので裕仁は、最重要項目である一つの事だけを考えるする事にした。それは現在、唯一理解できている事柄。


「襲撃を受けている」ということ。


それ以外の複雑に絡み合う感情は、重荷以外の何者でもない。仕方なく、一度にその場に捨て去ることにした。全力を尽くすべきは、生き残ることだ。どれだけ格好悪くとも、どれだけ地面を這おうとも命があれば笑い話にできる。とにかく今は、彼女の猛攻を退かなければならない。彼女の目的は、この状況の元凶でありながら、この状況を打開する切り札でもある“宝石”………裕仁の所持する“ペリドット”の略奪だろう。そのために、雪乃は裕仁を襲っている。


それだけが分かれば、他はいらなかった。


雪乃は握った柄を、走りながら顔の付近に構えた。裕仁もそれに合わせ、流れるような動きで構えをとる。勿論、ただの見掛けだけだ。裕仁に武道の心得などない。それどころか喧嘩も碌にしたことがない。つまり戦い慣れをしていないどころか、暴力を振るった事も数える程度である。殺し合いなど尚更だ。自分で言うのも何だが、平静な世界に生まれ、博愛的に過ごしてきた臆病な青年だ。虫さえも故意に殺した事が無い。窓から逃がし、元気に育てと願うほどだ。


こういった略奪戦というのは『経験』がものを言う世界なのだろう。相手を下す経験。苦渋を飲んだ経験。知略戦の経験。そして情報戦の経験。そういった数々の経験が知識と見識を潤わせる。残念ながら、裕仁にそのような潤沢な経験など微塵もなかった。


その点で言えば、雪乃にもそういった経験があるとは到底思えない。プロの殺し屋なら兎も角、相手は自分と同じ平凡な高校生。“経験”や“知識”は共に恐らく同列。つまり、“素人”対 “素人”の戦いだ。勝敗は五分五分から動かない。そこから勝利を掴みとるには、どれだけ機転を利かすことが出来るか。どれだけうまく立ち回れるか。どれだけ『宝石の力』を応用できるか。それらによって全てが決定するに違いない。立てかけた棒がどちらに倒れるか分からないように、どちらに転ぶかなど神ですら知らない。此ればかりは運などでも、神頼みなどでもどうにもならない。自身の決断で全てが決まるのだ。


裕仁は襲い掛かる雪乃から視線を反らすまいと目を凝らす。瞬きすらも許されない、刹那の油断が勝敗を分ける……かもしれない。刃のない刃物で襲撃が成功するなど、彼女も考えてはいないだろう。きっと何か“罠”があるはずだ。なので迂闊に雪乃に進んではいけず、そして後退も出来ない。裕仁に可能なのは、この場で彼女を迎え撃つ事だ。


その結論に思考が至った時、裕仁にとって予想外の出来事が起こった。


宙に舞った無数の金属片は、矢庭に奇妙な光に包まれ始めた。決して眩しくない、薄っすらとした優しい光だ。その瞬間、既に落下を始めている破片達は墜下をやめた。空中に急静止し、その場に設置されたかのように動きが固まった。まるで、その空間だけ時間が止まっているかのように。


そしてそれらの破片は、等速で同じ方向へ動き出した。その行き先を目で追うと、全て彼女の持つ包丁の柄へと集束し始めていた。


突然の事件に、裕仁は反応が遅れた。


裕仁の背後にまで飛んでいた破片が、彼女に吸い寄せられていく。それはつまり、“破片の軌道上に裕仁が立っている”という事だ。裕仁は慌てて躱そうとするも、既に四方は破片の波が押し寄せている。どうやら知らぬ間に囲まれていたのだ。裕仁は瞬時に身を翻すも、幾つかの破片が肌を掠めた。ブレザーを越して裕仁の皮膚を軽く裂き、複数の小さな破片が裕仁の背に突き刺さる。だが小さかったお陰か、痛みはチクリとする程度で動けなくなるほどではない。どちらかというと、掠った腕の方が焼けるように痛い。赤い線が細く走り、そこから赤い膨らみが生まれる。此方も切り傷程度だが、裕仁にとっては嫌いな痛楚だった。


「なっ……⁉︎」


驚愕の色に染まる裕仁に、雪乃は一雫の躊躇いも無く刃を横に振り抜いた。気がつけば、雪乃の手元にある柄には刃が生えている。間抜けな声を漏らしながらも裕仁は体を後ろに反らせ、紙一重でそれを回避した。予測不可能な第一撃は、髪が数本飛び散る程度の被害で済んだ。


「……どんな願いを押し付けてくるのかと思ったら、やっぱりロクな事じゃなかったな。」


裕仁は雪乃の目を真正面から見つめ、精一杯の強がった減らず口を叩く。


「心配しないで。殺す気はないわ。」


それに対し、雪乃は光を灯さぬような冷徹な視線で裕仁を見下す。その瞳にはやはり躊躇いという言葉はない。裕仁から宝石を奪い取ることはもはや決定事項であり、それ以外の道はないと言いたげであった。


「さっきも言ったはずだぜ……俺は嘘が嫌いだ。さっきも包丁を躊躇無く振り抜いただろ?」


「貴方なら避けるって分かってたもの。」


「物は言い様だな。」


裕仁は流れる冷や汗をそのままに後ろ足を一歩下げ、瞬時に体制を立て直した。その間に雪乃は刃物を器用に逆手へと持ち替え、もう片方の手を添える。そして魚を銛突きするように、裕仁に目掛けて突き出した。裕仁とてそう易々と刺されるわけにはいかない。これ以上痛いのは体が耐えてくれない。痛いのはこの世で二、三番目くらいに嫌いなのだ。裕仁は更に後方へと飛びのいて鋭い斬撃を躱した。しかしその大袈裟な回避は、相手に隙を与えるものだった。


素早い対応と行動。それらは足が地に着いていることを前提とする。空を自由に飛行が出来るというのならば話は別だが、一般常識として人間は空を飛ぶことは出来ない。「不可能は無い」と悠々と語ったナポレオンでさえ空は飛べない。無論だが、ただの高校生である裕仁も非行は出来ても飛行はできない。今回の裕仁の減点部分は、“足を浮かしてしまった”ことだ。両足が地面に接地されていない間は完全な無防備な状態となってしまう。


まして、雪乃がその隙を見逃さない訳がなかった。その動きを読んでいたのか、雪乃は既にブレザーの袖から何かを掌へと滑らせるように落としていた。まるで洋画でよく見る袖リロードのような動作であった。その何かを、雪乃は流れるような動作で、裕仁に向けて勢い良く放り投げた。警戒している裕仁には、それが何なのかすぐに把握できるだろう。


雪乃が投擲したのは、数本に短く切り分けられたロープのような縄状のものだった。また何かが起こる。そう感じた裕仁は、身体中に思い切り力を込めた。


「……悪いが、大人しくしててもらうぜ! 俺の平穏のためにな!」


裕仁は顔に飛んできた紐の一つを手で払いのけ、無理矢理な姿勢で着地した。変な体勢で足をついた所為か、着地の際にバランスを崩してしまう。だが、そんな事は気に留めない。こうなったら直進あるのみだ。倒れそうになる所をなんとか手で支えると、先程の彼女と同様に裕仁は、紐が降りかかる中を豪快に正面突破を仕掛けた。雪乃はその勇姿を嘲るように見ると、悪戯っぽく微笑んだ。


「あら、真正面から向かってくるなんて格好いいじゃない。でも、もし私に触れたら『変態』って大声出すわよ。警察行きだろうけど、それでも良いの?」


「さっきまで刃物振り回してた奴が言う台詞か?」


裕仁は咄嗟に突っ込みながら、彼女を逃さないように観察していた。前回の失態もある。目を離したからこそ、刃物による攻撃を受けた。その反省点を次回に生かそうとするのは、自然な闘争本能と言える。同じミスを繰り返すまいとする学習能力の必需性。それはスポーツでもビジネスでも同じことが言えるだろう。


それに、雪乃は手にまだ何かを持っている。それは既に刃物から別の物へと変わっていた。それは、此方に投げ寄越した紐の一欠片のようだ。巻いてある緑のテープから、それがどうやら端の部分であると理解した。解れぬよう、複雑に編み込まれているのも見て取れる。


それを見た裕仁が思ったのは、「迂闊だった」という事だ。


裕仁がそう思った理由は、すぐに雪乃によって実行された。雪乃が操った金属片のように、彼女の手元に切り落とされたロープは再び引き寄せられていく。次々と彼女の手に持つ欠片に紐は集合し、連結されていくのが窺えた。


どうやら切り離した縄は順番通りに繋がるわけではなく、自由に連結部分を選択できるみたいだ。まるで裕仁を囲い込むようにロープは連結を続け、縄は元あるべき形に戻っていった。


そして裕仁は訳が分からぬまま、集まってきたロープに複雑に絡められてしまった。否、既に胴部分を腕と共に縛られていた。この切り離されて自由に繋がる縄は、長い一本の縄よりも厄介だ。短く、数多く切られているが故に裕仁は回避が出来なかった。裕仁の動きに合わせて、自在にロープの形と連携を変えられる。それが彼女の持つ能力の強みだった。


何も考えずに突進したせいか、裕仁も自ら縄の射程範囲に踏み込んでいたようだ。蝿が薫香につられて自ら粘着シートに飛び込むようなものだった。裕仁は少し、浅はかであったと後悔の念に駆られた。


それに比べて、ふぅ、と安堵の息を吐きながら、雪乃は地に倒れ伏した裕仁を見下ろした。


「……まさか、こんな簡単に捕獲できるなんて思ってなかったわ。案外頭が悪いのね。知ってたけど。」


「……奇遇だな。俺もこんなに簡単に捕まるなんて思ってなかったよ。案外お利口なんだな、俺って。」


裕仁どころか、雪乃ですらも軽く驚いている。これは気を一時的に惹くためだけのものだったのかも知れない。或いは博打だったのかも知れない。何れにせよ、裕仁は彼女にとっての御都合主義な展開を演じ、こうして無様に捕まってしまったのだ。今では情けなく、芋虫のように地面に転がされている。


「まぁ、面白いから良しとしましょう。」


雪乃は裕仁を縛った紐の先端をしっかりと握りながら、ゆっくりと近づいてくる。どうやら逃がしてくれるつもりは無いらしい。ただ彼女にエンターテイメントを提供してしまっただけのようだ。


「早速宝石は頂くわ。どうせポケットの中でしょ?」


とんとんと歩み寄ってくる雪乃を、裕仁は説得力のない格好で呼び止めた。


「……おっと待て。まだ宝石をお前にあげるとは一言も言ってないぞ。」


そんな敗者の戯言のような言葉を、雪乃は容赦なく鼻で笑い飛ばした。


「そんな体勢でまだ私と戦うつもり? 今の貴方ができるのは私に許しを乞うか、豚の丸焼きごっこだけじゃないかしら?」


彼女の動きは止まらない。縛られて身体を拘束している相手に畏れ慄けと言う方がおかしいかも知れない。裕仁の言葉など唯のハッタリ、若しくは負け犬の遠吠え程度にしか思われていない。それどころか、雪乃はその言葉の一切に耳を貸そうとはしなかった。


しかし、それが有り難かった。


思わず裕仁は、勝利を確信したかのような笑みを浮かべた。今こそ、逆転劇の幕を開ける瞬間だった。


「いやな………俺の『宝石の力』ってまだ一度も見せてなかったよな…?」


『宝石の力』という単語に、雪乃はピクリと反応した。最初こそ気には留めていなかったものの、雪乃は徐々に事の重大さに気づき始めたようだ。顔には若干の焦りの色が伺えた。余裕だった表情は既に剥がれ落ちている。雪乃は転がされた裕仁に強く問いかけた。


「……一体何をしたの? 若しくは、何をする気?」


裕仁はやり返すように鼻で笑うと、情けない格好で顔を限界まで上げて忠告をした。


「先にぶっちゃけるとね………。その紐、今直ぐに手放した方がいいよ?」


雪乃にとって、その言い方はきっと非常に悩ましいものだったに違いない。たった今、雪乃には二つの選択肢が与えられたのだ。


その一つは、言われるがままに紐を離して距離をとるという選択だ。しかし、もしそれが裕仁の虚言だった場合、足は縛っていないので逃げられる形となる。手と胴体を縛っている以上、その光景を他の人に見られるのは不味い。いくら放課後とは言えど、ここは学校だ。先生は勿論、まだ部活中の生徒だってわんさかいる。まだ発見されるのが生徒だけならいい。何かの冗談でこんな間に合っているとまだ誤魔化せる。最悪なのは先生に発見された場合だ。即刻で生徒指導室にお呼ばれし、延々と説教される事は回避不可能だろう。裕仁もそれは面倒だが、雪乃にとっても面倒だろう。


そして二つ目は裕仁の言葉を鵜呑みにしないことだ。その場合逃げられはしないが、もしハッタリでなければ何か痛い目にあう可能性がある事になる。裕仁の異能が何か分からない以上、その言葉の信憑性を確かめることが出来ないだろう。


雪乃はどちらを選択しても、結果よろしくない展開に持ち込まれてしまったのだ。ただ無様に床を這い蹲る少年に、優勢であった雪乃は追い込まれている。圧倒していたはずの相手に追い込まれている。


そして彼女は一度深呼吸をした後、選択した。

優柔不断でなく、さっぱりと後腐れなく決断できるのが彼女の良いところだ。


「……ハッタリね。貴方は嘘を愛しているもの。」


その言葉を聞いた裕仁は深くため息をつき、雪乃をじろりと見上げた。彼女はこの反応を見て、自分の直感は的中したのだと感じただろう。


しかし、全くの真反対だった。


雪乃の握り締めた紐は、突如前方に途轍もない力で引っ張られた。思わず雪乃の体は宙を浮いた。縛られた裕仁も雪乃と共に、同時に宙を舞う羽目になった。


ーーそれも、超高速でだ。



「きゃああああああああああああああ!?」



雪乃は思わず悲鳴を上げた。手は離したいが、離してはならない。唯一の命綱から手を離すという行為は、ただの自殺行為に過ぎないからだ。この瞬間に手を離すという事は、走行中の特急列車から飛び降り下車するようなものだろう。地面に衝突する事は間違いない。落下した衝撃は大した事無くとも、摩擦は凄まじいものだろう。恐らく肌は地面に裂かれ、大怪我は回避できない。無傷で生還など何十万分の一の確率に等しい。危険そのものな道を賭けで選択するのは、非常に現実的では無かった。


「だから言っただろぉおおおお! “ 手を離しとけ”ってなぁああああ!」


裕仁も同様に叫び声を上げていたが、その表情は勝ち誇っていた。ただ、“出し抜いてやった”という愉悦よりも“思った以上に速い”という感情の方が勝っていた。何より、裕仁は身動きすら取れずにこの運動に巻き込まれているのだ。




この現象の種明かしをするならば、裕仁は既にロープに“命令を与えていた”というだけという簡単な話だ。それも『後方に全力でぶっ飛べ』といった単純な指令だ。だが、胴と共に腕を縛られていては、裕仁がロープに触れることはできない。命令を与える暇など無かったはずだ。ならばどうして、ロープに命令を与える事ができたのだろうか。それもまた、答えは簡単だ。簡潔に言えば、“縛られる前に触れておけば良い”のだ。


金属片が雪乃の持つ柄に集まった時、裕仁は彼女の持つ『宝石の力』に対して二つの仮説を立てた。一つは『壊れたものを治す力』。そしてもう一つは『物と物を繋げる力』だ。予め刃物の刃の部分を砕いておき、それを投げる事によって視線の誘導。そして“宝石の力”で繋げて相手に奇襲。よく考えられた作戦だ。


そして『宝石の力』の発動条件はその物体の一欠片を自身の手の内に持っておくことだと想像できる。実際、彼女は繋げる時、刃物の場合は柄を握りしめ、ロープの時は一つの切れ端を手に持っていた。


それだけ分かれば後は簡単だ。わざと投げつけられたロープの一つに触れて、命令を与えておく。命令の発動は自身でコントロールできることは昨日の時点で検証済みだ。裕仁は雪乃に何も無策で正面突破を仕掛けたわけではない。飛来するロープを払いのける事で、ごく自然に、疑われることなくロープに触れる事が目的であったのだ。


後は直進して“わざと”捕まり、そして自身諸共彼女を吹き飛ばす………穴だらけで成功率も低い酷い荒技だったが、思いつく限りこれが一番やり易い。そして怪我人も出ない最善の選択の筈だ。


……というのは結果論だ。


まぁ、“わざと”と言っておけば策士になった気がして気持ちがいい。少し賢くなった気分を味わえる。実際は本当に捕まってしまっただけだった。念には念を入れてロープに命令を与えておいたが、まさかこんな簡単に捕らえられるとは夢にも思っていなかった。捕まる気など毛頭なかったのに。そして裕仁の与えた「全力で」というのも想定外の速度だった。


「全力で」は流石に言いすぎたかもしれない。音速突破……とまでは流石にいかないが、それなりの速度は出ている。一般乗用車程度なら軽く追い抜かせるだろう。かなりストイックなジェットコースターに身を委ねている気分だ。それ程までに高速度で吹き飛ばされた二人は数秒も経たない内に、校内にある茂みに悲鳴もろとも仲良く吸い込まれていった。





「………痛ぇ。」


なんとか無事に生還したようだ。

生と死の瀬戸際を彷徨った気分で、裕仁は茂みから這い出した。三途の川が一瞬見えたような気がするが、きっと気がするだけで本当は思い込みに近いのだろう。それでもこの一瞬の間に走馬灯が何度もループで繰り返し見たのは、疑いようもなく真実だろう。


痛いと感じるのは生きている証拠だ、と昔の偉い人が言っていた気がする。まさにその通りだ、と裕仁は軽く笑った。ただ、笑うと体の至る所に痛みが走る。どうやら、枝や葉で幾つも切り傷が出来ているようだ。何なら数カ所刺さっている。


意識も飛びそうだったが、何とか耐え切った。絶叫マシンが苦手な裕仁にとって、あの速度は地獄以外の何者でもない。所々出血はしているものの、なんとか生きている。本当に、よく生きていたものだと裕仁は何度も生の実感を繰り返し感じる。裕仁を縛り付けていた紐もどうやら飛んでいる途中で千切れたらしく、今はもう解放された自由な状態だ。


裕仁は手で制服に付着した葉や枝を払い落としながら、横目に雪乃を見た。


雪乃は裕仁が丁度“盾代わり”になったらしく、茂みに突撃したにしては不思議なくらい無傷だった。だが、あまりの恐怖に気絶してしまったようであった。今では小生意気な口は開かずに、しおらしく倒れ込んでいる。


「……これだから女子の相手は疲れる。」


裕仁は溜息を吐きながら雪乃に被さった葉を軽く払い除けると、なるべく平坦な地面に寝かせてやった。







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