47話『無敵の崩壊』
《ペリドット》
「私を殺す、ねぇ……。」
一譲は呆れたように溜息をつくと、再び気味の悪い笑みを浮かべて裕仁達に目線を合わせた。
「君達にそんなことが出来るわけないだろう?」
自信に満ち溢れたような様子で、一譲は「だって」と言葉を続け様に連ねた。
「……その前に“君達が死ぬ”んだもの。」
そんな一譲の勝利宣言に、対立する涼太サイドも不敵に笑って返した。
「お前のその態度が、“傲慢”だって事をすぐに理解させてやるよ。」
騒々しさと静謐さを兼ね備えた夜に、再び戦の火蓋が切って落とされた。涼太が言い終える前より先に、裕仁はその場を飛び出した。裕仁と彼を繋ぐのは細い路地の一本道。またもや正面からの猛突を決め込もうとしている。そんな裕仁の馬鹿の一つ覚えのような行動に、一譲も思わず呵々と笑い声をあげた。
「またお決まりのパターンかね? 次はお得意の背後に回り込む作戦かな?」
だが裕仁は一切の反応も見せず、一譲との距離を黙々と詰める。その間隔は既に十メートルを切っていた。あと数秒もすれば手の届く距離だ。そのまま回転する足を止める事なく、裕仁は奴の命を喰いちぎる勢いで疾駆していた。
だが当然、裕仁は彼に辿り着く前に、見えもしない壁に腕が触れた。掌で撫でてみると、やはり壁が実在する事がはっきりと分かる。肉眼では確認できないが、確かに壁はそこにあった。
その裕仁の無様な姿を見て、一譲は神経を逆撫でするように嘲り笑った。此処まで人を苛立たせる笑い声を上げられる人間を裕仁はまだ知らない。
……勿論、その裕仁の馬鹿げた行為は雪乃の考案した策略なのだが。
ーーー涼太は“奴に弱点は存在しない”と言っていたが、それは違うと断言できる。
もし奴に本当に弱点、或いは異能に制限がなかった場合、一つ説明のつかない部分がある。
それは、“裕仁が奴に触れることが出来た”という点だ。
なぜ一回目の攻撃時のように防御壁を張っていなかったのか。涼太の話の中でも、攻撃は奴に届く手前で見えない壁に阻まれると聞いていた。それは雪乃が言う、空間断裂というものだ。当然、今回も裕仁の動きに合わせて空間を切り離すことなど簡単だったはずだ。だのに、奴はそうしなかった。
それには、必ず何らかの理由があるはずだ。
つまりその原因の特定が、奴にとって唯一の弱点を握る手段である。
逆を言えば、それを見つけない限り奴を倒す方法はない。
ーーだから、もう一度試す必要がある。
「ーー“ツルツル”」
一譲にとっては、不意の出来事だった事だろう。
たった今起こった出来事を簡単に説明するのならば、涼太の一言で足場が滑りやすくなったのと共に、平坦だったこの路地は一瞬で下り坂へと変化した。
一譲の足の着地点が、まるでスケートリンクの氷のように摩擦が消滅し、非常に滑りやすい床となっていた。それに加えて足場は斜面だ。当然立っているのもままならず、雪乃の思惑通りに一譲は足を掬われた。バナナの皮を踏んで転ぶギャグのように、一回転しそうな勢いで彼の体は宙に投げ出された。
透明な壁に手を触れている裕仁は、焦りと吃驚に満ちた奴の表情を目近で拝むことが出来た。その僅かな時間は、まるでスロー再生であるかのようにゆっくり、ゆっくりと世界が動いていた。
ーーそして、裕仁の体を遮っていた空間の壁が消失した瞬間…………。
時間は一気に刻み始めた。
地面に音を立てて倒れこんだ一譲に、裕仁は腕を伸ばした。だが、一譲は摩擦を失った下り坂を逆に利用し、裕仁の指先から寸前で逃れた。が、此方もいとも簡単に奴を逃す訳がない。一譲が逃れた先に、涼太は更なる捕獲網を周到に用意していた。
「“ベトベト”」
スピードスケートのように颯爽と滑り降りていく一譲だったが、その動きは突如として静止した。慣性が働いて運動だけが彼の体に残り、一譲は抵抗もむなしく前のめりに倒れ伏せた。すると一譲の体に纏わり付くような不快な粘り気が、肌を通して伝わってくる。一譲は反射的にその場から飛び退こうとするも、手足がアスファルトに糊着され、自由に動かすことができないでいた。
彼はきっと焦っているに違いない。これで完全に、奴の身動きを封ることができたのだ。先程まで薄氷のようだったアスファルトは、涼太の異能によって鳥黐のように強力な粘着性を持っている。
簡易的だが脱出不可能な“仕掛け罠”に掛かり、身動きの取れなくなった一譲に向けて裕仁は微塵の躊躇いもなく指を伸ばそうとした。
だが、一瞬彼の方が早い。
一譲は自身の倒れ臥す床に穿孔を生成し、自らの体をその空間の穴隙に落下させたのだ。
裕仁は何かを察したのか、すぐ様その場を飛び退いた。瞬間、裕仁の頭上から踵が降って来た。空間の穴の出口は、裕仁の真上に出現していたのだ。
一譲の表情には数刻前の余裕はなく、鋭い眼光を裕仁に向けていた。だが、睨み合う暇も与えないといったように、一譲の体はまるで何に吸い寄せられるように引っ張られ始めた。その吸引元は、手をこまねくようにして引き寄せられるのを待つ雪乃だった。
怒涛の攻撃の波に、一譲は対処するので精一杯な顔つきをしていた。最早、多対一が卑怯などと甘え事を言っている場合ではない。異能で劣っているなら数で押せ。数で劣っているなら頭を回せ。死にたくなければ正々堂々は捨てされ。死後に卑怯と嘆いたところで誰も相手にはしてくれないのだ。
こういった思考は雪乃の受け売りだが、裕仁もいつの間にかこの考えに賛成の意を示し始めていた。だが、完全に同意したわけでは無かった。しかしこの戦いで、裕仁の揺れていた心は一つの結論にて定まった。
“失う前に、その原因を排除する。”
裕仁は、葵という存在を失ってからその事柄に気が付いた。葵の死は、裕仁にはどうしようもない出来事だった。裕仁が認識していない裏で行われていた命のやりとりだったからだ。だが“敵味方関係なく誰も傷付けたくない”など言っている間に、一つ、また一つと守れたはずの命が、指の隙間を通り過ぎて零れ落ちていく。だったら救いたい人の命を確実に護衛し、その命を脅かす者を徹底して排除する。そこに慈悲や哀れといった、悲の感情を持ち込んではいけない。雪乃も今まで、そうして戦ってきたのだ。
奴を間違いなくこの場で仕留める。
その覚悟で裕仁達は此処へ来たのだ。
しかし、一譲も雪乃にされるがままではない。
その際、彼は苦し紛れに腕を振るった。
空間を雪乃ごと削り取る気だ。
そうはさせまいと、海音は伸ばした手を器用にくるりと回転させる。すると、彼の体の角度は少し上向きになり、削る対象をやや“ズラす”ことに成功した。雪乃の頭上の空間が、削除されるように梳られる。この攻撃は非常に恐ろしい。範囲が広い上に、空間は否応なく削り取られる。そこに硬度といった概念は存在しない。防ぎようのない、正に“必殺”の技能だ。
一譲と雪乃の間合いが一足一刀になった瞬間、その僅かな幅に割り込むようにして涼太が足を踏み入れた。
「“カチカチ”」
涼太の腕は固く弾けるような心地いい音と共に、硬質化していくのが見て取れた。彼の腕は読んで字の如く“岩肌”となり、水晶のように朧気な月華を強く乱反射させていた。
そしてその重々しい拳は、一譲に向けられて放たれた。とは言え、やはり一譲も空間を直ぐに切り離して殴打から逃れた。空間の境目と拳は衝突し、金属と金属を打ち合ったような甲高い音が夜街に響き渡った。
それでも諦めが悪いように、涼太は拳を押し続ける。その様子に、一譲は声を張り上げた。
「無駄なんだよォ! 切り離された空間には誰であろうと侵入不可能だ!」
大気を震わすような迫力と、敗北が許されない誇りが闘諍し合う中………一人、冷静な人物が、場の雰囲気にそぐわないほど静かに口を開いた。
「あなたのその防御壁……空間を切り離してるんだってね。」
腕を組んでその場に凛と佇む雪乃は、顔に笑みを貼り付けて言った。
「……だったら、“空間を繋げればいい”。」
一譲は背に妙にひんやりとした水滴が伝い落ちるのを感じた。
瞬間、切り離されていた空間はいとも容易く繋がり、一切の力を緩めなかった涼太の拳は眼前へと迫った。
堅固な壁に守られていた一譲には防御する間も無く、顎元への直撃は避けられなかった。
そして、鈍い殴打音が閑静な路地を劈いた。だが涼太達にとっては、これ以上ない清爽感溢れる清々しい音だった。
雪乃はふふんと微笑を浮かべ、指を唇に添えてその様を見届けた。
「ーーー貴方の異能と私の異能。相性が最悪みたいね………。」
でも心配しないで、と雪乃は強烈なアッパーで二度目の空中浮遊体験をする一譲に勝ち誇ったように告げた。
「……どっちみち、貴方の弱点は“分かっちゃった”から。」




