44話『勇気ある決断』
《サファイア》
太陽は今頃、反対側を照らしているのだろうか。妙な胸騒ぎを感じた海音は、静寂に包まれた夜の街を自室の窓から覗いていた。聞こえてくるのは、一階下のリビングから漏れてくるテレビの音声。そして住宅街の家壁を撫でる程度の夜風の音だけだった。昨晩に比べれば、少々風が強く吹いているような気がする。これもまた、海音の感じた胸騒ぎに関係あるのだろうか。
それに偶然か、今夜は満月だ。
満月の夜というものは人を狂わせたり、事故が起こりやすくなるという話を何処かで聞いたことがある。何ともオカルトじみた話だが、その説はどうやら事実らしい。信じ難い話なのだが、何かのインスピレーションが働くのだとか何とか。海音には到底理解のできない世界だが、その所為か世の中には“月恐怖症”なるものがあるらしい。
そんな事を何をするでもなく ぼーっと考えていると、不意に海音の後ろから物音が聞こえた。唐突だったが、確かに何かが動くような小さな音が海音の耳に入りこんだ。その気付くか気付かないかの瀬戸際のような物音は、海音の浮ついた意識を現実へと引き戻す事となる。同時にまた、あの胸騒ぎがした。
そして海音は振り返ると、その騒ついて落ち着かない心情の正体が海音の目に映り込んだ。
「私の……ぬいぐるみが……!」
海音の熊のぬいぐるみが、まるで命を吹き込まれたように動いていたのだ。二足で立ち上がり、引き出しを階段のように利用して机の上へと登ろうとしている。よちよちとしたあんよは、何処か可愛げのあるものだった。しかし、その事自体には大して驚きはしなかった。ぬいぐるみが歩くなど現世ではあり得ないが、この現象は以前にも経験したことがある。
その当時の出来事が、この現象を操れる張本人……『ルビー』の宝石を所持する“常葉葵”との出会いだった。
もうあれから一、二ヶ月以上も経過しているかと思うと、時の流れというものは矢のように過ぎて行くのだと改めて実感させられる。気が付けば季節はもう夏になろうとしている。
しかし、それは今問題ではない。
解せないのは、どうして『ルビー』の異能が発動しているのか、というところだ。
あの葵がただのイタズラで海音のぬいぐるみを操ったりはしないだろう。当然、構って欲しいなどという理由でもないはずだ。何か必ず、緊急の理由があるはずだ。
………などと考えてはいるが、心の底では既に何となく分かっていた。でも、海音は認めたくはなかった。その考えに及ばないように、自分自身でその思考に重く蓋をしようとしている。それでもその結論は、中から凄まじい力で蓋をこじ開けようとしていた。到底海音一人の力では、抑えきれるはずもなかった。
海音が葛藤している内にも、ぬいぐるみは不慣れにも必死に動き、机の上に転がっているペンを重々しく持ち上げた。やはり、何かを伝えようとしている。
……嫌だ。見たくない。
その内容もある程度想像がついてしまう。
海音の鼓動はどんどんと早くなっていく。
ぬいぐるみが……葵が何を海音に伝えようとしているのかを認知してしまうのが怖いのだ。
そんな苦しむ海音に構うことなく、ぬいぐるみは開きっぱなしのノートにゆっくりと文字を書き始めた。そのぎこちのない動きで滑らされるペンは、案の定ミミズのような文字だった。それでも、その一文字一文字はしっかりと読めるように大きく書かれていた。
そして遂に、海音はノートに書かれた文字を全て読んでしまった。見たくないと思っていても、どうしても見てしまうのだ。葵が残そうとしている言葉だ。見ない方が失礼だと海音は無意識の内に思っていたのだ。
『約束を守れなくてごめん。』
そこには、その一言だけ書かれていた。
不思議なことに、その一言だけでも海音は全てを完全に察することができた。
その考えを更に強固なものにするかのように、ぬいぐるみはその場で力尽きたように動かなくなった。糸切れたようにだらんと腕を垂らし、足からは力が抜けてパタリと倒れてしまう。それは、葵の持つ宝石『ルビー』の力が消えた事を意味していた。
その様を見ると、海音の目頭は熱くなり、自然と両目から涙が零れ落ちた。頰を伝い落ちるその水滴を指で拭うも、一粒、また一粒と涙は止まる事無く溢れ続ける。
きっと、いや、絶対に“約束”というものはあの時の誓いだ。あの観覧車のゴンドラでの契りに違いない。「みんなで生き残ろう」という、言葉通り命を懸けた約束だ。
しかし葵が残したのは、「守れなくてごめん」という悲しい一言だった。それがどう言う意味を持っているのか、幼い海音でさえ直ぐに理解することができた。
信じたくもないし、認めたくもない。
こんな結末を誰が予想していただろうか。
彼女もきっと、明日が来る事を当然のように思って、日常に取り残されたまま突如幕を下されたのだろう。そんな薄倖な事があるだろうか。
だが、残された海音はそれを受け入れなくてはならない。それがどれだけ難しい事であろうと、過酷なことであろうと。この厳しい現実を乗り越えなければならない。
泣いているだけでは、何も進めないんだ。
折角、葵が伝えてくれたのだ。もしかしたらその時、彼女は激しい痛みに苦しんでいたかもしれない。楽しかった過去を思い出して悲痛な気持ちになっていたのかもしれない。親や姉妹の事を思って謝罪の念に駆られていたのかもしれない。それは海音には分からない。
しかしそんな中、葵は最後の力を振り絞って海音にこの言葉を残した。出会ってたったの二ヶ月……仲良くなってから一ヶ月程度だったが、良くしてもらった事には変わりない。きっと敵のままでいたならば、こんなに苦しむ事も無かっただろう。でも、葵と友達関係になった事を後悔したくは無かった。寧ろ、とても良かったと思っている。
だからこそ受け入れて、前へ進まなければならな。
海音は葵の言葉を伝えたぬいぐるみを強く抱きしめると、急いで二人に連絡をした。その二人とは勿論、言わずもがな裕仁と雪乃だ。
こういう時、携帯という存在はとても有り難い。
『葵姉ちゃんに何かあったかも知れない。ぬいぐるみが、「約束を守れなくてごめん」と文字を書き残して動かなくなった。』
海音は、取り敢えず要点だけを抑えて文字を打った。その指は小刻みに震えていた。歯を食いしばっていないと、また涙が溢れそうになってしまう。
それからの返信は早かった。
『分かった。俺達が見てくる。』
『海音は家で大人しくしていなさい。時間も時間だしね。』
しかし、その内容に海音は不服だった。
裕仁や雪乃は、海音は待機しておくように言った。それに対して納得がいかなかった。
どうして、私は行ったら駄目なのだろう。
どうして、私は葵の元に駆けつけてはいけないのだろう。
そう行った感情が海音の中を渦巻いた。
まるで仲間外れにされているようで、自分だけチームメイトじゃないみたいで。観覧車での約束で、私達は一つのチームになった筈なのに。
『どうして私は行ったら駄目なの?私だって戦いたい。私だって、葵の仇を取りたい。』
このまま黙って静かに待つだなんて出来ない。もう、誰一人として失いたくないのだ。この件で裕仁と雪乃も失ってしまうと考えると、居ても立っても居られない。それなら、二人と共に戦いたい。皆と戦い、勝つも負けるも共有したい。
それでも雪乃は、海音の同行を断固として拒否した。
『今回ばかりはダメよ。危険すぎる。貴方はまだ中学生なの。それにこんな夜遅くに、親になんて言い訳して家を出るのよ。今回は私達だって死ぬ可能性があるの。』
雪乃の言いたい事は分かる。
勿論、雪乃も海音の気持ちを痛いほど分かっているだろう。
きっと、海音をなるべく危険な目に合わせたくないのだ。今までだって、雪乃は海音をなるべく巻き込まないように立ち回っていた。あのタンザナイトに襲撃された時だって、雪乃は必死に安全策を考えて危機を切り抜けた。海音が危うくならないように、一人で全て背負いこんでいた。だから、こうやって自分だけ安全な場所で待っていることなんて出来ない。いつも危険な役割を背負いこむ雪乃を考えずにはいられないのだ。
なんとかして海音は、自分の意思を伝えようとする。
『でも……』
海音が抗議の文を打ち終える前に、裕仁が遮ってメッセージをよこした。
『大丈夫だ。俺たちに任せとけ。』
その力強い一言に、海音は指を止めた。
裕仁だっていつもそうだ。
馬鹿みたいにお人好しで、人を守って自分だけが怪我を負って。何時だって損な役回りを自ら選んで進んでる。そして命懸けで戦って、傷だらけの顔で弱々しく笑顔を作る。
海音はその時に初めて思ったことを思い出した。
「……あぁ。……いつも、いつだってこの二人に私は守られていたんだ……。」
そして悔しいが、まだ彼らの前に立って守れるほど海音は強くなかった。でも、それでも。
『……ごめん。やっぱり我慢できない。葵の仇を私も取る。私達、三人でとりたい。』
もう、ただ守られている存在じゃあ嫌だ。今度は私が守る番だ、といった格好いい台詞は言えないが、二人の陰でビクついてるだけじゃあ葵に笑われてしまいそうだ。
これからは、二人と肩を並べて戦いたい。互いに背を預け、互いの力を信じあって共闘したい。それが海音の唯一つの願いだ。
『三人で仇をとって、初めて葵は報われる。初めて葵に胸を張って言える。「私はもう、守られているだけの存在じゃあない」って。』
既読がついて、少し間が空いた。
さすがに我儘が過ぎるかもしれない。海音だってその自覚はある。せっかく二人が私を危険から遠ざけようとしてくれている。気を遣って安全な所で待機しているように言ってくれている。
その二人の好意を、海音は無下に断ろうとしているのだ。それも自分勝手な理由でだ。
だが、間違っているとは思わなかった。
これが海音の尊重すべき意思であり、正しい道だと思っている。今日、ここで「はい、分かりました」と言って待機していたならば、必ず後悔する。行動に移さずに後悔するならば、移してから後悔した方が何倍もマシだ。
海音も、この主張を折るわけにはいかない。後悔だけは絶対にしたくはないのだ。
暫くして、一件のメッセージが届いた。
数十秒の間だったが、海音にとっては数分、数十分のように長く感じた。彼らの返信が怖かった。呆れられて突き放されるのだろうか。それとも強く叱責を受けるのだろうか。それでも海音は、全てを受け入れる気でいた。
送信主は裕仁からだった。
『分かった。』
海音は、少し目を疑った。
まさか、そんなにあっさりと認めてもらえるとは思ってもいなかった。
『ちょっと、裕仁?』
雪乃も思わず、裕仁に疑問の声をあげた。そんな雪乃の文面を無視し、裕仁は自身の考えを述べた。
『ただし、条件がある。“危なくなったら、すぐにサファイアを使用して逃げろ。俺たちを置いてでも、見捨ててでも逃げろ。”それが条件だ。』
裕仁にしては、珍しく命令口調であった。それ程までに、今回は鬼気迫る状況なのだろう。しかし、それは海音も実感している。戦場に連れて行け、と言うのは何も蛮勇なだけではない。自分も命を落とす“覚悟”をしているからだ。
『ありがとう。大丈夫、私に逃走で勝てる人なんて、誰もいないよ。』
そして集合場所を即座に決定すると、海音は携帯をスリープモードにした。そして、小さく虚空に呟くと、もう一度強く覚悟を決めた。
「葵……見ててね。」
海音は自分の机に開いたままのノートのページを乱雑に千切ると、「少し出かけます。すぐに帰ります」と書き置きを残した。これでもし母親や姉が海音がいないことに気づいても、警察などに連絡することはないだろう。それでも心配はするだろうから、少し忍びなく感じる。それに、もしかすると二度と帰ってこれなくなるのかもしれない。その時、家族は一体どんな気持ちになるのだろう。海音はそのような負の感情を振り払うように頭を振るうと、靴を玄関からこっそりと部屋へと持ち込んだ。そして固く靴紐を結ぶと、自分の部屋の窓の鍵を解錠した。そして音を立てないように窓をゆっくりと開けると、海音は二階の窓から颯爽と飛び出した。
「……『サファイア』」
家壁を傾け、滑り降りるようにして海音は夜の街へと舞い降りた。
これは海音にとって、一世一代の決断だったに違いない。




