41話『正体不明の墻壁』
《エメラルド》
ーー最悪すぎる展開だ。
いや、戦闘になることは尾行している時から覚悟していた。しかし、ここまで不利な状況に陥るとは思いもしなかった。
涼太は首を締めてくる手を力尽くで払いのけると、例の男と更に距離をとった。だが、彼にとって距離というものは関係ないのかも知れない。奴は空間を飛び越えてくる。さっきだってそうだ。彼が手を伸ばせば空間に亀裂が走り、涼太の目の前にもその空間の割れ目が出現した。彼の手はその即席のトンネルを通り抜け、涼太の首根を強く捕らえた。
彼の持つ宝石の力は一体なんなのだろうか。
焦る所為か、上手く思考がまとまらない。
そんな時、彼は不気味に笑うと手を一度叩いた。
……何か来る。
涼太はそう直感した。次は一体どのような攻撃を仕掛けてくるのか。それはきっと、涼太の思考の至らないような理不尽な進攻なのだろう。涼太はどんな攻撃にも対応できるように、姿勢を低くして身構える。
しかし、彼は涼太の思考の斜め上を行くような行動をとった。
「……そういえば、私だけが君の情報を一方的に知っているのは“フェア”じゃないね。」
涼太は目を丸くして彼を見つめた。
急に何を言い出したかと思えば、
「私の名前は南雲一譲。南の雲に一つを譲る、と書くしがないサラリーマンだよ。歳はこう見えても31だ。趣味は読書、特にミステリー系統が好みでね。対して苦手なものは朝の通勤ラッシュ。私は人混みというものが一二を争うほど嫌いなんだ。故に祭りやイベントなんかもあまり好まない。だからなるべく私は駅から駅へと歩くようにしている。それはそれで健康的だろ?」
一譲と名乗った男は、延々と自分語りを始め出した。その話に横槍を入れるように、涼太はわざと大きく舌打ちをした。
「……そんなもん知りたくねぇよ。」
「……つれないねぇ。」
男は残念そうに肩を少しあげ、吐息を漏らした。
一つ、仮説は立っている。
一譲の持つ宝石の力は、空間にワープホールを設置する能力なのではないか。実際に、涼太は何度かその目で確認した。空間に無機質な円が生成され、その輪を潜り抜けるようにして空間を越える。
問題は、果たして奴の異能はそれだけなのか、という所だ。
何か隠している……というよりかは、まだ全てを見せてはいない気がしてならない。涼太は一譲から、ドス黒い猟奇的な邪気のようなものを敏感に感じ取っていた。彼から一須臾たりとも目を離してはならない。そんな感情が涼太の警戒を促進させた。
今の段階では何も言えない。
憶測だけで彼の異能を断言は出来ない。分からない事を只管考え続けるのは水面に絵を描くようなものだ。
涼太は難しい考えを取り払い、身軽になった足を動かして一譲に向けて駆け出した。そして、躊躇いなく彼に向けて拳を振るう。無駄な思考を捨て去った彼の拳は、目にも留まらぬ速さで発射された。
そんな彼を目の前に、一譲は慌てる事なく、ただ、前に手を緩やかに突き出した。
その手には一体どの様な意図があるのか。
奴は必ず何かを仕掛けてくる。彼の顔にぶら下がった不敵な笑みが物語っている。ただ、今はこの握りこぶしを彼の鼻面に叩き込む。それだけに集中すればいい。
涼太がそう考えた時、既に奴は目の前から消えていた。
何が起こったのか。それは闘争本能か、ただ脳が冴え渡っているのか。数瞬の内に涼太の思考は正解に辿り着いた。
奴がそこから消えたのではない。
涼太が“移動させられた”のだ。
涼太が飛び込んだ時、気付かぬ内にワープホールを通過してしまっていたのだろう。一譲のあの手は、涼太の目の前にワープゲートの門を開ける目的があったのかも知れない。
涼太はそのまま前へ大きく跳びのき、急いで振り返る。すると、一譲は既に涼太の目の前に立っていた。彼の持つ痺れるような威圧感の所為か、涼太から見て一譲はやけに大きく見えた。それに加えて彼の見下すような視線に寒気を覚え、涼太は大袈裟にその場から飛び退く。
このままではやられる。
涼太の警戒心が、警鐘を掻き鳴らす。
こうなれば、こちらも出し惜しみしている暇はない。『宝石の力』には、『宝石の力』でやり返す。涼太は決心したように小さな声で呟いた。
「ーーメラメラ。」
途端に涼太の体は炎に包まれ、いかにも超能力者といった風貌に変化した。紅蓮に揺らぐ火焔は、近づく者を暴圧するように燃えている。
炎を取り巻いた涼太を眺めて、一譲は軽く拍手をしながら得意げに笑った。
「見てたから知ってるよ、君の能力。擬音を口にすると、その効果がそのまんま現れるようだね。」
「……見てたって、一体どこから見てやがったんだ。」
涼太の質問に対し、一譲は悪戯に笑って「それは秘密だよ。」と答えた。
「……そうかい。」
涼太は炎の衣を着込んで飛びかかった。
それでも彼は、相変わらず余裕の笑みを絶やさない。それでいてやはり目は笑ってはいなかった。
涼太が手を薙ぐと、赤い焔が刃となって一譲に斬りかかった。火焔を纏う涼太でさえ、熱風が肌を沁みて伝わってくる。それはまさに、身と心を共に焼き尽くす烈火の劔だった。だのに、一譲は依然としてその場から動こうとしない。元より避ける気が無いかのように、断固としてそこを退かない。
彼に炎の剣先が届こうとした瞬間、矢張りとも言ってもいいが、燃え盛る火と一譲の間隙に割って入るようにワープホールの入り口か開いた。
それは勿論、涼太も分かっていた。
そして、涼太のすぐ背後にその出口は姿を現した。その空洞から既に火の粉が舞い始めている。直ぐに豪火は涼太のもとに帰ってくることだろう。
しかし、涼太は避けるでも受け止めるでもなく、そのワープホールに自ら“飛び込んだ”。
炎に包まれながら、獣のような咆哮をあげながら涼太はトンネルを潜り抜けて一譲の目の前に出現した。その拳は固く握り締められており、今にも振り下されようとしていた。立ち昇る炎の演出もあってか、その拳一つで全てを無に帰してしまいそうな迫力が涼太にはあった。
そんな涼太の常軌を逸した行動に、今まで余裕の色を貫いていた一譲の顔にも焦りが見えた。
だが、焦燥の様子はただの一瞬だけであった。
涼太が放った拳は、彼には届かなかった。
それは、先程のワープトンネルのようなものではない。彼と拳の間に、まるで透明の壁が生成されたような感じだった。どれだけ拳を押し込もうとも、硬いコンクリートの壁に拳を押し付けているような感覚だった。何度も何度も拳を振るおうとも、そのインビジブルな鉄壁を突き破ることは不可能だった。その壁の向こう側で、一譲は気味悪く笑っていた。
「いやぁ……危なかったよ。久しぶりに冷や汗をかいたよ。まさか、秘密にしていた隠し球を使う羽目になってしまうとはね……。」
涼太は一度後退し、すぐさま小さく呟いた。
「……トゲトゲ。」
そう言った途端に、彼の腕から無数の棘が飛び出した。突出した棘は、一譲に向けて勢いよく伸び続ける。しかし矢張り、彼に届く寸前に透明色のバリアによって阻まれた。
涼太は棘を引っ込め、その反動で回転しながら指を銃の形に構えた。
「バキューン!」
口にした擬音と同時に、涼太の指から弾丸が放たれた。声が形となった銃弾は、大気を掻き分けて一直線に一譲へと駆けていく。が、その一歩手前で障壁が、行く手を邪魔する。
どう足掻こうとも、この一譲と涼太を隔てる無色透明の壁を越すことが出来ない。彼の異能はワープ系では無かったのだろうか。まとまり始めていた涼太の思考が、再びバラバラと空中分解し始めた。彼の持つ宝石の力が一体何なのか。それが分からない限り、太刀打ちの仕様がない。
涼太は彼を強く睨みつけた。
その刹那、涼太は強い違和感を感じた。
いや、違和感ではない。
涼太は自らの目を疑った。
ほんの一秒前までそこで微動だにしなかった彼が、今では彼の影さえその場から消えていた。もう少し簡単に言おう。
“彼の姿はそこには無かった”。
今回はワープゲートが仕掛けられていた様子はない。涼太の眼に映る景色も、彼が消えた以外に変化は無い。
そして再び、涼太の思考は巡る速さを増した。
同時に、涼太の鼓動の速度は速くなる。
呼吸は荒くなり、冷や汗が止まらない。
何故なら気づいてしまったからだ。
彼は既に“涼太の背後に立っている”事に。
それはまるで瞬間移動だ。
高速移動なんて生温いものではない。
「面白いでしょ? 私の力。」
背後から語りかけてくる彼の声は、まるで涼太を嘲謔するかのような音色だった。含み笑いをしながら発せられた声は、涼太を心の奥底から震え上がらせた。死の想像がより現実的なものとなる。
ーーーそして、この街全域に響き渡るような衝撃音が、涼太の耳を劈いた。




