40話『奇妙な男』
《エメラルド》
ネオンが夜空を焦がす繁華街ーー。
人通りは多く、涼太と同年代らしき若者から四、五十過ぎの中年まで。幅広い年層の人間がそこを上機嫌に歩いていた。しかしそんな中、涼太は一人で何をするでもなく浮浪していた。いつも通りの退屈を潰すための散歩だ。
しかし、涼太はあまりこういった賑々しい場所は好みではなかった。普段は人気の無い路地や、廃れた廃墟なんかに惹かれる趣向の持ち主だ。閑静で、落ち着いているような。そんな物が好きだった。ここにいる人間は大体煩いくらいに派手派手しく喧しい。若い男女カップルのグループは「やばい」と「マジそれ」だけで会話を成立させ、酔っ払ったへべれけ親父は人目も憚らず大声で喚き立てている。夜の繁華街はまさに奇人変人の巣窟だ。
涼太はその中では浮いたような存在だった。周りの色の自己主張が激しく、一般人から見れば不良のような涼太も霞んで見える。涼太もこの道を通るのは不本意だったが、仕方がなかった。本当に仕方がないのだ。
“とある男”が、この先を歩いている所為でーー。
……涼太は、奇妙な男に出会った。
仕事帰りのサラリーマンだろうか。彼は身長がすらっと高く、スーツの上に羽織ったベージュのロングコートがよく似合っていた。もう直ぐ夏場だと言うにも関わらず、そんな物を着込んでいて暑くはないのか……と思ったが、よくよく考えて見ればまだ涼太もファーの着いたコートを着用していた。鼻は筋が綺麗で、目元の堀は深い。まるで整った外国人のような容貌を持っていた。髪は少し金かかった茶系で、基本的に後ろに固めてはいるが前髪が数本垂れている。これまたお洒落な髪型だった。
しかし彼は、妙になよなよしい体躯をしていた。良く言えばスリム、悪く言えば細々しい体つきだ。それが理由なのかは不明だが、涼太がその男を見つけた時、彼は数人の不良に囲まれていた。それはまるで昭和のような光景で、現在では少し珍しいような気がする。“オヤジ狩り”というものだろうか。壁付近に彼を追いやり、複数人で取り囲んでいた。突然の出来事に巻き込まれた所為か、彼はおどおどと慌てふためいている。
その様子は同情を覚えるほど悲惨な光景だった。通行人も少なからずいたが、誰も彼を助けようとはしなかった。そりゃそうか、と涼太は溜息をついた。誰だって喧嘩ごとに好き好んで割って入りたくはないだろう。イチャモンを付けられて暴力的行為を受けるのは目に見える。だから人は見て見ぬ振りをしてその場を早足で通り抜けていった。その間にも不良たちのカツアゲはヒートアップしていた。遂に不良の一人が彼の胸倉を掴んだ。突き刺さるような緊張感が辺りを包み込んだ。
仕方ないから助けてやるか……。
涼太は拳を掌に叩きつけ、瞳を鋭く光らせた。
恩は売っておいて損はない。
お礼に謝礼金を貰いたい訳ではないが、人を助けるのは主人公のような人間が務めるべく仕事だ。そして、悪を懲らしめるのもまた主人公に許された正義執行だ。今こそここで彼を颯爽と助け出し、憧れた主人公という存在に近付くチャンスだ。
涼太がそう息巻いて歩みを進めた瞬間。
遂にはち切れんばかりの怒声を放って、不良の一人が男に向けて殴りかかった。危ない、と思った涼太は急いで彼に駆けつけようとした。が、どう考えても間に合う距離ではなかった。不良の放った拳は涼太が駆けるよりも早く、彼の頰に叩き込まれた。
……しかし、そこで奇妙な出来事が起こったのだ。
「…………え?」
不良と共に涼太は、素っ頓狂な声を上げた。
どうしてだろうか。
確かに命中したはずなのに、彼は何もなかったかのようにそこに直立していた。筋肉質の大男ならまだ分かる。しかし、彼はかなりの細身だ。不良の殴打を受けて何の反応も示さない、というのはやや奇妙に感じた。
だが、問題はそれだけではなかった。
何故か、それと同時に後ろに一歩引いて立っていた不良が鈍い呻き声を上げて地面に倒れ伏せた。
一瞬の出来事に、取り囲んでいた残りの不良達も口を開けて唖然としていた。一方の涼太も口を半開きにして、その場に立ち竦んでいた。
その油断が生まれた刹那に、男は目の前の不良の鳩尾に膝蹴りを放ち、続けて長い脚を生かして一人の不良の顔に靴の踵を叩き込んだ。あれだけ弱々しかった彼の目は、今まさに狩人のような眼光を放っていた。過去、様々な不良を相手にしてきた涼太でさえ、その目には恐怖に似た寒気を覚えた。絢成と命を懸けて闘った時と似たような脅威を感じた。この男は何か違う。
暫く固まって動かなかった不良達は、すぐさまその目を恐れて、倒れ伏せた仲間を置き去りにして散るように逃げて行った。
それから男はズレたネクタイを直し、床に落とした鞄を拾い上げて何もなかったかのようにその場を去っていった。
その小さくなっていく背を涼太は訝しげに睨んでいた。彼のその豹変ぶりにではない。いや、勿論それも驚いてはいたが、もっと疑わしいのはその前の出来事だ。後ろに立っていた不良が、何もされていないにも拘らずノックダウンしてしまった事だ。
実は、涼太は一瞬だけそのタネを捉えていた。
不良の放った拳は、確かに彼の顔に向けて振るわれた。しかし、それが顔に届く瞬間に少しの変化が起こった。本当に誰も気づかないような、些細な変化だった。
その一瞬、彼の頰と放たれた拳の隙間に、小さな円が生成された。その円はまるで全てを吸い込む黒洞のように、不良の拳を円の中へと吸い込んだのだ。そして倒れた不良の顔面の前に、その黒洞の出口が用意されていた。そんな事に気がつける筈もなく、吸い込まれた拳は後方で油断しきっていた不良に不意打ちを喰らわせたのだ。
そして、こんな超能力を使えるのは間違いない。
彼は『宝石所有者』だ。
ーーーこれが、涼太が繁華街を歩いている理由だった。
涼太の視界の遥か先には、例の男が優雅に歩いていた。その後ろ姿からも、彼の清々しく晴れ渡った心が感じ取れる。まるで部屋のゴミ掃除を終えたように彼は鼻唄を口遊んでいた。
涼太が彼を尾行し始めて数分。
彼は繁華街を離れ、暗い夜道に足を踏み入れた。ネオンの看板の立ち並んだ通りを抜けると、人は嘘のように誰もいなくなっていた。それどころか街灯の明かりは頼りなく明滅し、別世界に訪れたような錯覚を感じた。
先を広い歩幅で歩いて彼だったが、暫く進んだところで突如立ち止まった。一体どうしたのだろうか。もしかして、尾けているのがバレたのだろうか。涼太は急いで建物の角に身を隠し、彼が再び動き始めるのを待った。
しかし、彼は動かなかった。
それどころか、彼はとある言葉を呟いた。
「いやぁ、面倒なことに巻き込まれたものだよ……全く。見ず知らずの不良に絡まれて、『金を置いてけ』だってさ……。ま、何とか追い払えたんだけど……。」
涼太は、直ぐに察した。
最初から見つかっていたんだ。そして、まんまと誘い込まれたのだ、と。
「それにまさか……見られたのが『宝石所持者』だったなんてね。」
やはりだ。
涼太は隠れている必要もなくなり、ここは大人しく姿を見せる事にした。
「………バレました?」
「ーー君は確か、瀬良涼太くん…だったっけ?」
涼太は目を見開いた。
彼とは初対面の筈だが、どうしてなのか。
彼は涼太の名前を見事に言い当てた。
「どうして俺の名を知っているんだ? まさか本当に超能力者か?」
この質問をしたのは、確か2回目だったような気がする。その所為か、驚きはしたがそれ程動揺はしなかった。
「見ていたからね。君の活躍を。」
男は顔に笑顔を貼り付け、涼太と真摯に向かい合った。しかし、その目は決して笑ってはいない。表面上の笑顔の裏側には、どれほどの黒い顔を隠しているのだろうか。それが畏怖を抱く存在でならないのだ。
そして次の瞬間、涼太の首元に手が飛んできた。それは文字通り、空間を飛び越えて出現した。咄嗟に回避行動をとることも叶わず、涼太は彼に首元を締め付けられる。
「ーーそして私は、勝ち進んで調子に乗っている奴を摘むのが大好きなんだ。」
彼はこれ以上ない邪悪に染まった顔付きで、涼太に笑いかけた。




