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38話『常識と非常識の境界線』



《アクアマリン》




ーー裕仁達が遊園地で死にかけている時と同刻。


あの金髪の男に襲われた日から特に何も起こる事はなく、美静は順風満帆な社畜生活を送っていた。期限だの〆切などに追われ、心身ともに蓄積された疲労は、思い切りその場で悲鳴をあげたくなる程だった。


結局、美静を助けてくれたあの人はどうなったのだろうか。その事もあってか、仕事はうまく捗らなかった。自分を助けた代わりにあの人が死んでしまっていては、寝覚めが悪いなんてものではない。美静は深い溜息をつきながら、昼休みを大通りを沈みがちに歩いて過ごしていた。




あの時から、美静はなるべく人通りの多い道を歩くことにしていた。しかし、当時も何の躊躇もなく大通りで襲撃を受けたことから、それはただの気休めにしか過ぎない行動だと分かっていた。だが、それでも人気のない路地を通るよりかは気の持ちようが何倍も楽になる。


約一ヶ月の間特に動きはないが、いつ襲撃を受けてもおかしくはない。



それが例え、今日であってもーーー。










……そんな時、美静はふと寒気が襲いかかるような感覚を覚えた。それは過去に何度か味わったことのある、鋭い視線に睨まれるような感覚だ。こんな人混みの中でも鮮烈に伝わってくる事から、ただならぬ雰囲気だと美静は直ぐに感じ取った。


ついに来てしまったか……。

美静は明からさまに最悪だといった表情を浮かべ、周囲を見回した。美静の横を通行人は訝しげな眼差しで見つめてくるが、そんな些細な事を気にしている暇はなかった。美静は早く視線の正体を見つけなくてはならない。その一心で、ひたすら神経を研ぎ澄ました。


そしてついに、ある一点から非常に刺々しい気配を感じ取った。美静の視界の先にある、店の裏手からその目線は察知できた。姿は残念ながら見えないが、そこに誰かがいる事は間違いないだろう。溢れんばかりの殺気のような、冷たい空気が全てを物語っている。


美静は唾を飲み込むと、その場から離れるように走り出した。


矢張り、こういった危機的状況には逃げの一手に限る。逃走は恥ではない。逃走は野生の生存本能だ。戦って死ぬくらいなら、逃げ切って生き残る方が何倍もマシだ。そこに否定され、揶揄される隙は一寸もない。何としてでも逃げ切ってやる。そういった強固な意志で、彼女は商店街へと足を踏み入れた。




美静は商店街の人波に紛れるように、呑み込まれながら慎重に歩を進める。しかしこれだけ人がいるのに窮屈さは感じず、誰一人として肩をぶつけることなく、すり抜けるように進むことが出来た。それは美静の逃走本能が人を自然と避けているからなのか。それとも相手のほうが躱してくれているのか。それは、どちらでもいい。他人と衝突しないのなら好都合だ。美静はひたすら、前へ前へと足を動かし続けた。


それから商店街を抜け、大通りを下り、横筋を通り抜けた。息を切らしながらも走り続けること十分。さすがに美静も、体力の限界を迎えようとしていた。



そして駆け込むように辿り着いたのは、少し大きめの公共公園だった。平日の正午だというのに、かなり賑わっている。家族連れ、若人のカップル。そして、矍鑠なご老人。年齢層は様々だが、多くの人々がこの公園を利用していた。




……そんな中にただ一人、噴水に腰かけた一人の青年がいた。




美静は、彼に一度会ったことがあった。


見間違える筈もない。

美静の目の前にいる男は、最初に襲撃してきたあの金髪不良と一緒にいた、死んだ目をした覇気のない少年だった。彼の宝石の力は知らないが、どうやら逃走に失敗したという事だけは理解できた。美静は覚悟を決めて、彼に話しかけた。



「今日……お連れの人は居ないのね。」



少年は冷め切った笑みを浮かべ、真実だけを飾らずに告げた。



「あいつは死んださ。」



少年の言葉は、美静にとって衝撃的な事実だった。しかし、少年は何ら気にする様子もなく、淡々とその事実を口にした。



「私が逃げた後、一体彼らに何があったのかしら? どうせ見ていたんでしょう?」



少年は中々自分の話を切り出せない事に溜息をつき、半ば面倒に話し始めた。



「大した事はなかったよ。君が逃げる時間を稼いで、救世主も逃走。みすみすそれを逃した彼奴に絶望し、私が奴を殺した。それだけだ。」



彼の口から、また驚くべき事実が飛び出した。美静を庇ったあの人が生きていたことは嬉しかった。しかしそれよりも彼は自分の仲間を殺害し、それを英雄譚のように語るでもなく、ただ退屈な日常を話す子供のような口調で言漏らした。自分の手で殺した上に「それだけだ」と話を締めくくった彼に、美静は途轍もなく冷徹な人間なのだといった印象を受けた。彼は普通ではない。簡単に人を殺せるような、異常な精神の持ち主だ。



「……それで、私に何か用かしら?」



美静は怯える様子を何とか内側に留まらせ、無表情を装って彼に問いかけた。すると、彼は口角を上げて、美静の質問に質問で返した。彼の目は暗く鈍い光を放ち、笑ってはいなかった。



「お前は、誰かにつけ狙われている……そう感じていなかったか?」



勿論、感じていた。

彼からその事を言われても、美静は一切動揺を見せなかった。何故なら、美静が尾行されていたのは十中八九この男の仕業だと睨んでいたからだ。他にこんな真似をするような輩はいない。その目的は当然、美静の持つ“宝石”だろう。


ここで、彼に宝石を渡して見逃してもらうという方法もある。だが、生きて帰れる保証はなかった。彼に宝石を譲渡した瞬間、口封じに殺害されても不思議はない。むしろ、そちらの方が自然に感じる。


美静がとれる最善の行動は、“会話を引き延ばし、その隙に『アクアマリン』の能力を発動させる”ことだ。それ以外にこの状況を脱する術はない。



「あの視線は、貴方だったの?」



その美静の返答に、少年はまさか、と言いたげな表情で前髪を弄りだした。



「私は君をストーキングなどしてはいない。視線を感じる、と君が勝手に勘違いしていただけなんじゃないか?」



美静は少年の言っている言葉をイマイチよく理解できなかった。あの視線は彼ではないのか……いいや、彼に決まっている。出なければ、先ほどの尾けられている云々の質問も道理に合わない。間違いなく彼は何かを知っている。



「そうだな……そろそろネタばらしをしてもいい頃かもしれないな。私が君にかけた異能を解除しておこうか。」



彼は、疑心を膨らませる美静を見兼ねてそう言うと、指を一度ぱちんと鳴らした。その瞬間、美静の視界は急遽一転した。この現象を理解するのに、美静は数秒かかった。先程まで賑々しかった公園は、全くの無人公園へと変化したのだ。人は姿を消し、閑散とした広い空間に美静と少年だけが取り残された。美静の頰に、冷や汗が流れ落ちる。



「……一体、どんな仕掛けなのかしら?」



「その内分かるさ。」



彼のそんな物言いに、美静は少し苛立ちを感じた。そんな理解不能な現象の中で、美静は一つのことに気がついた。美静はこの人の増減によって、この公園に誘導されていたのだ。公園に駆け込んだのは偶然ではなく、必然だったのだ。美静は見えないところでまんまと操られていたことに、耐えきれぬ悔しさを感じて歯を食いしばった。


だが、美静には自分が負けはしないという、確固たる自信があった。


そう、既に『アクアマリン』の持つ力は発動された。



「……でも、残念だけどもう貴方は『宝石の力』を使うことはできないわよ。」



美静の持つ『アクアマリン』の持つ異能は、“常識を欠落させる”というものだ。一見弱小の外れ能力かと思いきや、『宝石の力』という非常識に近い常識をも欠落させる事が出来る強力な異能であった。つまり、『アクアマリン』は相手の異能を封じることができる“アンチ能力”なのだ。


相手の異能を封じてしまえば恐れることはない。美静は内心、ザマァ見ろとほくそ笑んだ。


しかし、少年はまるで余裕だといった表情で一頻り笑うと、美静に睨むような視線を送った。その鋭い双眸に、美静は一瞬寒気を覚えた。そして、彼はたった一言。たった一言で美静を心の奥底から恐怖で震わせた。




挿絵(By みてみん)


「ーーお前は“勘違い”をしている。」



その冷然な声調子に、美静は体が震えるのを感じた。


少年はゆっくりと足を組み、膝の上で指を絡めて言った。美静には、それが恐ろしくてならなかった。彼のこの余裕綽々な態度はなんなのだろうか。まさか、美静の発言をハッタリだと思い込んでいるのだろうか。


しかし、そんな甘い考えは数瞬のうちにして打ち砕かれることになった。



「君の異能を、私は『常識を欠けさせる』ものだと推察している。そして、君は私に『宝石の力』という常識を消し飛ばした。」



美静は驚いた。

いや、驚きはしたが、すぐに自身の失態を責めた。恐らく、あの金髪の男を罠に嵌めた際に言った言葉を彼にも聞かれていたのだろう。それならば、この的を得た推論も納得がいく。しかし、それだけでは彼の悠々とした態度の説明にはならない。



「……そこまで分かっていて、どうしてあなたはそんなに余裕なのかしら?」



彼に異能を知られたところで、それを防ぐ方法はゼロだ。既に美静の所持する宝石の力は発動している。彼にはもう身を守る宝石の異能は無いのだ。それなのに、彼はまた不気味な笑い声を吐き出した。




「それは、私に対して“無意味”だからだ。私には、最初から“常識など存在しない”のだよ。」



美静は、この少年が何を言っているのかさっぱり分からなかった。まるで厨二病の戯言のような事を口走り始めたのだ。そこから彼は止まる事なく、美静を前に勝手に一人で語り始めた。



「常識というものは人が勝手に決めた柵であり、“当たり前”を他人に押し付けて理想を目指す。そんな為に作り出された人間のエゴに過ぎないからだ。」



巳空は大きく手を広げ、疑心と嘲謔の眼差しで美静に話し続ける。



「君たちが普段『猫』と呼んでいる小動物にも、本来の名前があるのかも知れない。それを人は勝手に猫と名付け、あたかもそれが常識のように話を進める。君たちが普段利用している交通網だって、全ては人間が作り出したものに過ぎない。それを守れだの破ったら罰金だの、筋違いもいいところだ。」



もっと分かりやすく言おうか、と巳空は少し声を低くして口を動かした。



「……赤信号だから渡ってはいけない? それもまた、見知らぬ誰かが勝手に決めたルールだ。地球が誕生した当時にそんな制度はなかった。……皿に盛られたご飯を残してはいけない? 残すとも。お腹が膨れて満足すれば、残りなど腹には入らない。そんな事を言うのならば、もとより食材を何処かの貧民街に分けてやればいいんだ。だが、それをしないのが人間だ。そして、捨てるのも人間だ。」



美静は髪を掻きながら、大きく溜息をついた。少年が何を言いたいのかさっぱり見えてこない。このような頭のネジが飛んだ話を聞いていれば、体が無性に痒くなる。しかしそんな事を気にせず、少年は痛々しい演説を続行する。



「君はどう思う……? こんな世界憎くはないか? こんな世界は矛盾だらけだと思わないか? 人は勝手に常識という範囲を設定し、その枠から外れたものを異端者として蔑む。その常識というものが、いかに視野を狭めているのかも知らずに、その中で殻に守られながら生きている有象無象共が怨めしくないか?」



少年は、此方に手を掲げて同意を求めた。しかし美静はその場から動くことなく、冷めた口調で彼に問いかけた。



「……結局何が言いたいのよ。」



少年はふと怪しげな笑みを浮かべた。相変わらず目は笑ってはいない。



「つまり……だな。」



美静は、彼の次の言葉を待っていた。しかしその前に、美静の背に突如、強烈な痛みが走った。一体何が起こったのか、彼の話以上に理解できなかった。そんな彼女に、少年は冷ややかな声で小さく呟いた。



「こういう事さ。」



美静は薄れゆく意識の刹那、この少年の起こした一連の行動を全て悟った。死に際だからなのか、異常に物事を広く見据えることができた。




……最初からだった。


美静が公園で少年と対峙した瞬間から、彼は噴水に座っていたのではなく、美静の“背後”にいたのだ。


まるで彼が噴水に座っているように“勘違い”させられていたのだ。いや、それだけならまだ生温い。美静の異能の効果が発動しなかったのもーーー。




「目に見えているものが決して“常識”ではない。この世の出来事は全て理不尽な“非常識”なんだ。最期に気付けてよかったな。」




そのまま美静は、誰もいなくなった公園で静かに冷たくなっていった。

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